FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チーム番外編(長野)3日目の追加報告です。
以前、保存の会事務局長の土産話から、山野井さんの証言をおおざっぱに書き起こしていましたが、より正確なものができてきましたので、改めて公開します。

◆◆◆

◎山野井広一さん
1919(大正8)年1月生まれ
第2乙種

○農業学校卒業(中学校等度卒業と見なされる)。
○高等小学校で代用教員、1年で長野の正教員になれるのでそうするつもりだったが、師範学校出身でないので出世出来ないから娘は嫁にやれないと校長に言われ退職。
 大蔵省の試験を受けて合格。

●1939(昭和14)年12月 渡満 図們税関に就職。
 図們に9ヶ月、羅津に2年。
○朝鮮・羅津弁公所で満州へ輸出入される物品の税関の仕事。
 満州に入って再度チェックをすると荷物が傷むからということで、満州から朝鮮に税関員が出向し、チェックしたものは満州の都市へ直送出来るシステムだった。
○部署が違うが、阿片と金の密輸入を取り締まることも。
 税関の重要な任務で講習があった。
 密輸入は綺麗な服装の女性が陰部に隠していることが多く、腰を後ろから叩いてみろと言われていたが
 逆に強姦したと言われて帰国になる役人もいたので、後に女性が調べるようになった。
 他に白系ロシア人の密輸も多かった。
●旅順の中堅官吏公習所に入所。
 羅津の税関長の推薦があり試験を受けたところ合格。
 古海忠之が所長を兼務していた。
 2年間の教育(籍は羅津)。

●1942年or43年(本人も不明) 上級職の試験に合格 満州国経済省に入省。
 口頭試問は17人ほどの試験官で1時間半。
 最初のへんで「羅津のドット燃料はどれぐらいか」と聞かれ、「要塞なので軍事機密で分からない」と答えると小馬鹿にされた。
 これで落ちたと思ったのであとは好き放題に話した。
 試験官の一人が羅津に来るので大和ホテルまで送迎しろと言われ、嫌だったが行くと「明日か明後日の官報を見ろ、お前の名前が出るかもしれないぞ」と言われた。
 からかわれていると思ったが翌日経済省への合格が官報に載った。
●満州国牡丹江燃料省に(経済省の専売公社的な組織)。
○ちゃんちゅうを仕入れ、絞ってアルコール度数を90%以上に上げ、ガソリンとして自動車や軍への分配を行う。
 度数の低いものは酒屋へ。
○軍に3割と決まっていたが軍が半分寄越せと言う。
 「軍に半分やると満州の自動車や映画館は動かなくなるのでだめだ」というと、「それなら君をただちに召集するぞ」と言われたので、「結構です、私も日本国民ですから召集には応じます」と答えた。
 芸者や慰安婦が150名ほどいる料理屋へ招待された。
 翌日官舎に酒が30本送られてきた。
 山野井さんのハンコで決済が出来たのでそれでは35%やるという事にした。
○経済省経理部長は関東軍司令部の中将に対しても上からものを言えた。
 物資を押さえているというのは凄い権限なんだなと思った。

●1945(昭和20)年8月
○敗戦は協和発酵の発電所施設を軍と視察した帰りの車で知った。
○砂川鞍(さがえ)に2万人が集められる。
 富永中将が「諸君達と一緒に日本に帰ろう」と演説したのが忘れられない。
 だから帰るのだとばかり思って貨車の作り替えなど準備した。
 上に50人、下に50人、戸を閉められて移動、ハルピンで10日ほど停車し食糧の積み込みなどあった。
 食糧の配給は将校が優先的。
 病む人が多くなり1~2人ずつ亡くなり死体を汽車から放り出していった。
 線路脇に関東軍の馬が腹を出して足を上に上げて死んでいた。
 1ヶ月の移動でかなりの人が亡くなった。

●1945(昭和20)年9月 178キロ地点(名前がなくそう呼ばれていた)に抑留。
○海が見えたので日本海だと思って喜んだが、バイカル湖だった。 
○3ヶ月ぐらいで将校の刀や軍服は取り上げられた。
 山野井さんは背広で抑留されていた。
 背広は私物だからということで、自分で管理できた。
 風呂敷に入れて砂地に隠しておいて、下着も含めときどき地元の住民のところへ持っていき、パンや卵、馬鈴薯と交換して飢えをしのいだ。
○毎日250gの黒パンと5gのマホルカ(煙草)。
 栄養失調で毎日各幕舎で1~2人死んでいく
 遺体は穴の中に放り込んでいく、翌日次の死体を持って行くと、ロシア人に服が獲られて前の晩の遺体が裸になっていた。
 普通に話している人が返事がなくて見ると飯盒を落として死んでいる。
○5ヶ月頃から共産主義教育が始まり、将校や威張っていた下士官への吊し上げが始まった。
 あの時ビンタされたと100人ぐらいから吊し上げられるので、将校も青くなっていた。
○1400人に通訳1人で通達に不具合が生じていた。
 官吏公習所時代に習ってロシア語を書くことができたので、日本人の名簿をロシア語表記にする作業等を行った。
 仕事をしている間に、ロシア語を話すこともできるようになっていった。
○ロシア語ができたことがもとで、ゲーぺーウーに関東軍のスパイではなかったかと容疑をかけられることになった。
 毎日同じことを聞かれ、少しでも食い違うと「前に言ったことと違う。うそつきだ」などと責められる日々が15日ほど続き、ゲーぺーウーを殺して自殺を考えるほど精神的に追い詰められた。
 そのことを仕事場を仕切っていたソ連兵(将校? シジフ)に話したら、夜迎えに行くから身支度をしておけと言われ夜中ジープで迎えにきた。
 仲の良く隣で寝ていた測量技術者(ふかやさん)と一緒にジープに乗り丸1日走った。

●タイシェットのバム鉄道のロシア軍司令部へ。
○明日からここで働け、ここまでゲーぺーウーは来ないからあとの事は任せろと言われた。
 翌日から2人で測量師と通訳として働く。
○ログハウスに二人で住み、ペチカに建設用の製材をくべて燃してしまったが何も言われなかった。
 食糧もここに来て毎日内容は違うが格段に良くなった。
○コルホーズへ半年ほど行って馬を使った脱穀を手伝った。
○そのうち1ヶ月でこれだけの仕事と言われて勝手に計画を立て二人でまわるようになった。
 ある時はソ連の女性囚人のラーゲリーで測量を行うことになった。
 労働の成果を測る仕事で、傾斜地を平にする作業の前後の状況を調べる。
 労働の成果が上がっていれば、それは監督していたソ連兵たちの成果ともなるので、女性所長から最初の傾斜を急にしてほしいと頼まれ、さかんな接待を受けたので少しずつおまけをした。
○仕事としては楽だが、ふかやさんと二人きりで他の日本人には会わないので寂しく、このまま一生帰れないかと思うこともあった。

●1949(昭和24)年8月1日 舞鶴へ復員。
○復員船でたくわん2切れと白米が出たおいしさは忘れない。
○千円渡されて大変なお金だと思ったが切符を買ったら700円で、最後バス代がなくなり、迎えに出た役場の人からお金を借りた。
○やせていて良く歩けたなと言われた。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/284-228284f3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック