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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
沖縄キャラバン2017、5日目3月27日(月)の様子です。
翌3月28日朝に保存の会メーリングリストに流れたメンバーDの報告。その1である保存の会公式twitterのやや詳細版となります。
ボランティアの名前は、一応イニシャルにしました。当ブログの記述的には、メンバーFとGです。

◆◆◆

沖縄キャラバンも残すところあと1日。
昨日は、UさんとS君と私、残った3名揃って移動しました。

午前は「沖縄・民間人被害者の会」の会長さん野里千恵子さんの聞き取り、
ボランティアをしておられる養秀会館(沖縄県立第一中学の記念館で
鉄血勤皇隊などの展示がある)をお借りしての聞き取り。

1010空襲で孫たちを心配して家を出たまま戻らなかったお祖母さんは、
遺体が見つからず、死亡ではなく失踪とされ、
遺族でないので慰霊祭への参加も認められなかったそうで、
一つ一つ働きかけ、10.10に亡くなった人の遺族は参加できるように
変えた方です。

ご本人の体験は北部へ避難した体験ですが
お母様が当時9歳の彼女と2人の弟たちを連れて山中を移動
情報も届かず8月頃まで戦争が終わったことも分からなくて
お母さんが静かなので様子を見に山を超えて出かけた1週間
弟たちに見よう見まねで食べ物を集めていた時のお話が印象的でした。

またすぐ上のお兄さんは沈没した時の対馬丸に乗船しておられ
熊本の親戚から生き残っていたことを知らせるハガキが届いた時のことなども
聞かせて頂きました。

そこから大城絹枝さんの車に乗せて頂いて1時間、午後は中部・うるま市の祖堅秀子さん。
着くなりまずは手作りのなかみ汁や煮物など「カメ―カメ―攻撃」(食べろ食べろ攻撃)。

そのあとゆっくりお話を伺いました。

祖堅さんは「バンザイクリフの生還者で私より若い人は殆どいないんじゃないかな」
(1944年7月時5歳)という体験者。
サイパン戦で両親と4名の兄弟を亡くし、3名が生き残りました。

バンザイクリフでお父様が安全な壕を見つけたからと夜になると
下の子供から一人ずつ連れに来たのですが
自分の番の時、とっさに「ヨシ子ねいねいと一緒なら行くよ」と答えていて
父親はすぐ上の姉を先に連れて行ったとのこと、
そのあとヨシ子姉が「秀ちゃん、手りゅう弾で死のう」と言った時は
「お父さんがここで待ってろと言ったもん」の1点張り。
そこで米軍の捕虜となりましたが、トラックの中で
「ほら、あんたのせいで殺されるよ」と姉に叱られたことを覚えているそうです。

5歳の女の子が、半ば本能的に生きることを選択していく様子が
今の祖堅さんの明るい人柄と一直線でとても心を動かされました。

戦後は年の離れた兄がいたので生活は成り立ったのだと思いますが
兄の子供を連れて小学校に通っていたとのこと。
夜、冷たい水が流れている水管に抱き着いて
「お母さんはどの星かな、私を育てもしないで」と恨めしく思っていたそうですが
4年生の時米軍のポークを食べた時、「ああ自分だけ生きているから
おいしいものが食べれるんだな、お母さんごめんなさい」と思ったそうで
「その時私は大人になった」と話しておられました。

帰りは大城さんが海を見たがる私たちの要望に応えて
同じうるま市の伊計島まで橋を渡って下さり
海開き1週間前の誰もいないビーチを堪能してきました。

今日は渡嘉敷島の慰霊祭に、体験者の方と一緒にわたります。
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