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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チームが9月4日(土)の午前に伺った証言の概要です。

◆◆◆

◎渡部一郎さん
取材日:2010年9月4日
1918(大正7)年8月7日生まれ
当時の本籍地 新潟県

○1936(昭和11)年3月1日 旧制中学卒業
○1937(昭和12)年3月30日 長岡高等工業・機械技術養成科修業
○1937(昭和12)年4月10日 海軍航空廠発動機部 勤務

●1939(昭和18)年1月10日 現役
 第2航空教育隊(機械) 朝鮮・平壌
●1939(昭和18)年7月15日 独立第88飛行場中隊 広東。
 同部隊に仏印への転出の話が出、内地に帰りたかったため操縦を志願する。

●1940(昭和15)年8月1日 熊谷陸軍飛行学校入学。 
 重爆の操縦を訓練。
●1941(昭和16)年6月4日 飛行第61戦隊に転属 満州・チチハル。
 実戦部隊での訓練。

●1942(昭和17)年3月14日 挺進飛行隊に転属 宮崎県新田原。
 落下傘部隊の輸送、降下にあたる操縦。
 重爆は大型機に乗れるので転換が容易だったため抜擢された。
 夜間訓練のため事故が多かった。
 当初は操縦2名、機関(ガソリンコックの切り替えなど)1名、無線1名に機関銃射手も乗っていたが落下傘兵の人数を増やすため後に機関銃は降ろすようになった

●1943(昭和18)年6月30日 比島・マニラへ

●1943(昭和18)年11月30日 スマトラ島・メダンへ
●1944(昭和19)年4月 インド洋上哨戒
 輸送機に爆弾を積み、スマトラ島最西端のサバン島からインドまで、インド洋上を高度300~500mで航行、潜水艦を見つけたら爆弾を投下する任務。
 インドが見えたら戻って良いと言われていた。
 潜水艦との遭遇は無かったが、70機編隊の艦載機攻撃を受け隊は大きな被害を受けた。 

●1944(昭和19)年7月5日 宮崎県新田原へ。
●1944(昭和19)年9月
 新田原~台湾~比島~上海の物資輸送。
 1日10hrの同コースを5回飛行。
 同期にも未帰還機が出た。

●1944(昭和19)年11月14日 台湾・嘉儀

●1944(昭和19)年12月1日 ルソン島・アンヘレスへ
●1944(昭和19)年12月 レイテ島へ空挺部隊の輸送
○12月6日、7日 ブラウエンに2回の降下。
 全体では39機、渡部さんは9機編成の第2編隊2番機。
 レイテは米軍上陸からすでに2ヶ月、ルソン島・アンヘレスを発ちレイテ島南端で折り返すと、どかんと花火があがってそれが合図になっていたと思う。
 地上からの砲弾、中に混じった曳航弾が花火のよう。
 空挺部隊を降下させるためには高度を350m、時速を300kmぐらいに落とさなければいけない。
 その中で第2編隊の1番機が離脱、続いて第1編隊の2番機と3番機も離脱。渡部さんの飛行機は長機のすぐ後ろにつける形になってしまった。
 2日目は10発近くの砲弾が機にあたるのを感じる。
 空気が機を通るのがピュッと耳に入る。
 目には曳航弾の花火がふわっふわっと映る。
 とにかく全員を降下させるまで機がもつか。
 隊長が合図をして扉を開き降下が始まると、見なくても1人飛び降りるごとに操縦桿にびっと響きが伝わる。
 その衝撃を1人、2人、・・・・・終わりっ! と声を上げて数えた。
 全員降ろすと、弾があそこに当たったら、ここに当たったらと急に怖くなった。
 一体自分は今どんな顔をしているのだろうと鏡を見る。
 一目散で弾幕の外に出る、良かったなあと他の人の事は考えない。
 機は単操っだたので操縦士は渡部さん1人、あとは機関の1人だけ。
 機関がパラシュートを引っかけるのに使ったロープを機内に取り込みドアを閉めるため後ろに行こうとするが、1人だと怖くて、しばらくは真っ直ぐ飛ぶだけなので「待て、待て、ここにいろ」と言った。

○8~14日 オルモックに6回の降下。
 米軍艦から編隊に大砲が撃たれた。
 弾の振動を操縦桿で感じるが、エンジンの音で弾の音は聞こえないのが助け。
 12日、別中隊の応援に出ると空中に火薬の臭いが漂っているのを感じる。
 先に行った部隊(渡部さんが本来いた部隊)が敵機にやられている。
 発見されたら強行着陸しかないと思い海面すれすれを飛び帰還。
 途中海上に漂流者が泳いでいるのを見かけるが助けられない。
 先発部隊は4機とも未帰還(のち1機歩いて帰還)。
 14日帰路、若い操縦士に操縦を任せ居眠りをしていると、マニラ近くで敵機がわんさわんさと空襲、飛行場に戻れないのでリンガエ湾に着陸、3機を分散して置いたが銃撃を受け2機が炎上。
 燃えなかったのも穴だらけになったが飛ぶことは出来たので夜になってからその1機で皆戻った。
○17、18日 ネグロス島・シライ 2回の輸送。
 この時は落下傘でなく着陸しての兵隊の輸送。
 17日は3機で出かけたが、ネグロス島に着いたのは2機、帰ったのは1機のみ。
 18日も3機で行き、帰ったのは1機のみ。

●1945(昭和20)年1月 台湾・嘉儀。
 レイテで死んだ人の慰霊祭を行った。
●1945(昭和20)年2月
 比島ツゲガラオに部隊の地上勤務者(整備兵など)の救出作戦。
 空中勤務者の約3倍はいる地上勤務者が載せきれず置き去りになっていたので、比島内をアンヘレスからツゲガラオに移動して貰い、夜間飛行で迎えに行った。
 しかし滑走路に明かりが置かれて無く着陸できない。
 場所を間違えたかなと南下し、いやさっきの場所だと戻ると、道案内に少し前に出たもう1機が撃たれ目の前で火の玉となって炎上。
 山陰に隠れて何とか離陸の機会を伺ったが最短の飛行場までの燃料を計算し時間切れとなって救出は出来なかった。

●1945(昭和20)年3月5日 新田原。
 台湾・嘉儀に着いたとき40機いたのが帰路についたのは3機。
 うち1機は台湾上空で撃墜され、空中勤務者ばかり載せた機だったが全員戦死した
 
●1945(昭和20)年4月25日 朝鮮・連浦へ。
 使える飛行機を集めて新たに部隊を作り。
 新田原の飛行場も使えなくなっていて不発弾があちらこちらで爆発する中、朝鮮に向かう。

●1945(昭和20)年8月15日 宮崎唐セ原。
 エンジン交換で1機だけ日本に戻った。
 なぜ朝鮮では駄目だったのか良く分からない。
 何か試作的な特別な目的があったのではないかと思うが分からない。
 民家のおあばちゃんから「兵隊さん、日本負けたぞ、どうぞね?」と聞かれたが「われわれは聞いてませんよ」と答えた。
 米軍の哨戒機が飛んでいた。

●1945(昭和20)年8月17日 朝鮮・新義州。
 敗戦は半信半疑のままとにかく本隊に追いつかねばと朝鮮に戻る。
 操縦士は沖縄に連れて行かれ米軍の配下に入るという噂があった。
●1945(昭和20)年8月20日 朝鮮・大邸。
 工業学校を宿舎にする。
 汽車での移動時、航空隊の臭いのするものは全て捨てろという噂が廻ったが、近郷の人が集まって来て皆持って行ってしまった。
 デマに引っかかったと思っている。
●1945(昭和20)年12月12日 博多に復員。

※任務は激務で心身ともに疲れ、こんな事なら体当たりでもする方が楽ではないかと思うこともあったが、全体としては待っている兵隊がいっぱいいるのだから一人でも多く運びたい、へこたれてはいられないぞ、と思う気持の方が強かった。

※日の丸の写真。
遭難時目印になりやすいように通常より赤い部分が大きい。
周囲にコルクが入って浮くようになっている。
救命胴衣と一緒に釣り竿、この日の丸が入っていた。
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