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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
北海道チームが8月21日(土)の夕方に伺った体験の概要です。

◆◆◆

◎佐藤正さん

1921(大正10)年生
航空兵 整備(操縦訓練も受ける)

昭和十七年七月、現役兵とした八戸に入った時は歩兵みたいなものだった。イチニイチニと訓練を六ケ月続けた後、昭和十八年一月、宮城県岩沼の飛行場に移り、整備士の訓練が始まった。それから半年経った昭和十八年秋に茨城県筑波に移動した。

昭和十九年三月、幹部候補生となり、三重県の加佐登(鈴鹿市)にあった幹部学校に入った。学校には四月までいたが、その間に学校全部に対して特攻隊への志望が募集された。七、八百名くらいいた全員が手を挙げた。手を挙げなかったら大変だった。

一次試験は目や耳や内臓などが検査され、百八十名くらいが落とされた。その後、夜行列車で東京(板橋?)に行き、操縦士としての適性検査を受けた。適性検査は三日間続き、合格した者は名前が読み上げられた。どうせ受からないと思っていたが、八十二名の合格者の中に私も入っていた。

幹部学校卒業後、茨城県筑波に移動し、万年筆のようなズングリとした双発の重爆で整備の訓練を受けた。配属となったのは飛行第六十二戦隊だった。もともと六十二戦隊は、ジャワなどの南方で作戦を行っていたが、南方から帰ってこられなくなり、急遽、私たちが集められたということだった。

ある時、B29が霞ヶ浦に落ちたというので走って見に行った。水面に落下したのに沈みもせず、ほとんど浮いていた。どんな装置がついているのだろうと思い調べてみたが、機銃も何も壊れていなかったのには驚いた。その機銃もボタン一つで動く。風速や風の向きを調べる装置もボタンを押せば、すぐ結果がわかる。日本の装置とは大違いだった。B29の装置を取り外し研究したが、中央が何もやってくれないので、自分たちで工夫するしかなかった。

筑波で半年、訓練を受け、十一月一日、浜松に移動した。ここでは離発着の操縦訓練を受けた。私は整備兵だが、操縦の適性検査に合格したので、整備長として飛行機に乗ると操縦も出来る。操縦士に何かあったら、私が飛行機を操縦しなければならない。そのため、ある程度乗せて、練習させてくれるのだ。飛んでいる最中は車の運転より簡単だ。何も障害物がないのだから。だが、離発着は難しい。

浜松で三ケ月訓練を受けた後、福岡の太刀洗に移った。昭和二十年二月のことだった。太刀洗に着いてすぐ、爪と髪の毛を桐の箱に入れて親元に送った。遺書は書かなかった。検閲があったので下手なことを書けなかったが、手紙は何度か出した。

二月末、硫黄島への特攻出撃が命じられた。硫黄島周辺の米艦艇を攻撃するのが目的だった。その時、私は機長になっていた。出撃する時、一個中隊九機、三十数名が一列に並び、別れの杯というものを編隊長と交わした。私は酒が飲めないのだが、気分も高揚していたのだろう。編隊長につがれた酒を一気に飲んでしまった。その途端、顔が真っ赤になり、フラフラになってしまった。そのため、私の機だけ出撃が中止になってしまった。

我々は、絶対に無駄死にするなと言われた。目的達成のためには特攻しなければならないが、そうでなければ帰って来いと言われていた。出撃する時は、もちろん死を覚悟していたが、目的を達成する前にやられることが多かった。敵機が来ても、こちらは対抗する術がなかった。特攻機の乗員は機長、副機長、航法、機上整備、通信の四、五名で、射手がいなかった。護衛機もなかった。

私の隊は硫黄島に五回出撃した。私は最初を除き、四回出撃した。敵機の攻撃を受けたら上昇してはいけない、必ずやられる。下降しなければならない。海面スレスレで飛行すれば、敵機は突っ込んでこないし、攻撃してくる方向を予測できる。ずい分、苦労したが何とか切り抜けることができた。

硫黄島が玉砕すると、我々は特攻隊編成をいったん解散し、筑波に戻った。四発の新型長距離爆撃機の勉強をすることになっており、その飛行機でアメリカに一番乗りするつもりだった。まだまだ負けるなどとは考えてもいなかった。 

昭和二十年四月一日、米軍が沖縄本島に上陸。我々の部隊に沖縄への特攻命令が出た。四月二十四日か二十六日頃、最初の出撃をしたが、敵機の攻撃を受け引き返すことが続いた。硫黄島の経験もあり、中隊長を中心に敵機を振り切る方法を考えた。敵はどうやって情報を集めるのか、必ず待ち伏せしていた。そこで編隊の形を「階段式」に配置することにした。五千メートルに一機、五百メートル下がって一機というように、高度差をつけて階段のように編隊を組むのである。

四回目の出撃は九機編隊だった。私は第二小隊一番機。私の前には第一小隊の三機、続いて第二小隊の三機、その後方に第三小隊の三機が階段式に編隊を組んだ。敵グラマンはやはり待ち伏せしていた。それも、ちゃんと高度差をつけて縦になって待っていた。第一小隊がまずやられ、私の小隊の二番機、三番機がやられた。次に襲われるのは私の機だ。私は海面に向かって急降下した。無我夢中だった。二、三百メートルまで下がっただろうか。追いかけてきた敵機が次々と海面に墜落した。航法士が「機長、敵機を撃墜した!」と報告する。何事かと思ったが、不用意に近づいたグラマンが双発エンジンの風圧にあおられて操縦不能となり、三、四機墜落してしまったのだ。敵機が消えたので上昇し、雲の上まで上がった。誰かついてくるかと待ったが誰も来なかった。すべてグラマンに撃ち落されてしまった。

九機のうち残ったのは私一機だけになった。一機だけで沖縄に向け飛び続け、この辺りが沖縄だろうと雲の下に出た。その途端、花火を撒き散らしたような対空砲火を浴びた。目の前に火花が飛んだようだった。突然、副操縦士が倒れた。機体の下から操縦桿に当たった跳弾が副操縦士の胸を貫いたのだ。薬や包帯で副操縦士に応急処置を施す。

対空砲火の威力は凄まじい。このままでは任務遂行どころではなく、燃料も漏れ出したので雲の上まで上がった。再び下がっても待ち伏せている敵艦に落とされるだけだ。かと言って、新たな敵軍艦を見つける燃料はない。「無駄死にするな」と言われている。私は帰還する決意をした。帰りは上昇するのに燃料を使い、エンジンを切って下降することを繰り返し、燃料節約に努めた。太刀洗までは戻れず、大分の海軍飛行場に着陸した。副操縦士を海軍の医務室に運んだが息絶えた。機体の損傷もひどく、胴体だけで一八ヶ所被弾、ガソリンタンク1個がダメになっていた。その頃になると、特攻のための飛行機はなくなり、選抜された八十二名のうち生き残りは私を含め七名しかいなかった。六月の初めには特攻隊も解散になった。我々は一ヶ月の休暇をもらい、六月末に筑波に戻った。筑波に戻ってからは、ほとんど毎日、空襲で逃げまどった。

玉音放送は筑波で聞いた。五、六十人いただろうか、皆、正座して聞いた。生き残った我々七名は自決しようと、夜、日本刀を手に兵舎になっていた洞窟を出た。しかし、情報が漏れ、我々の行く先に兵隊が待ちかまえて押しとどめられた。やがて付近の農民が敗戦の混乱で騒ぎ出す。それをなだめなくてはならず、事務処理も忙しくなり、自決どころではなくなってしまった。

八月二十七日、列車と連絡船を乗り継ぎ、北海道の自宅に帰った。私が特攻隊員だったことは家族も知っていたから、軍服姿で玄関に立った私を見て家族は腰を抜かすほど驚いた。父は「まだ帰ってこない男たちがたくさんいるんだから、帰ってきたことを言うな。外出するな」と言い、一週間くらい家の中に閉じこもっていた。生きて帰ってきたことが恥だと言われた時代だった。特攻隊で行ったことを皆、知っているからなおさらだった。戦後長く、自分が特攻隊員だったことを誰にも話さなかった。
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