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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
北海道・東東北が続きましたが、久しぶりに西東北チームからのレポートが上がってきました。
別働隊が、7月30日(金)午前に仙台市で伺った証言の概要です。
なお、この方は、ご友人の体験も紹介してほしいとおっしゃっているそうで、証言集には、ご友人の体験も掲載される予定です。

◆◆◆

◎小林利光さん
92歳
第三独立守備隊・独立守備歩兵第一五大隊
1918(大正7)年生まれ 福島県出身

1939(昭和14)年2月、日本大学を繰り上げ卒業後、満鉄に就職。撫順炭坑、大官屯火力発電所勤務となる。そこで在学中は延期されていた徴兵検査を受け、乙種合格。

1940(昭和15)年初め、扎蘭屯(じゃらんとん)に本部を置く独立守備歩兵第一五大隊(阿蘇大佐:のちにクエゼリン島で戦死)の、第一中隊(塚 大尉)に入隊。一中隊はチチハル近くの昂々鶏(こうこうけい)に駐屯していた。
抗日連合軍(朝鮮人で構成)と戦う。

1941(昭和16)年2月、上等兵に進級。扎蘭屯の大隊本部に移動。有線通信教育訓練に励む。

1943(昭和18)年3月末、除隊。満鉄に戻る。(その後部隊は海上機動第一旅団に改編され、マーシャル群島クエゼリン島に派遣。1944(昭和19)年2月、阿蘇部隊長以下そのほとんどが玉砕し戦死。)
満鉄のボイラー技師の仕事の傍らで撫順市の郊外にあった第三青年塾長なども勤める。青年塾は満鉄、東製油工場に勤める二十歳前の青年たちが200人くらい入っていた。東製油工場は油母頁岩(オイルシェールというらしい)から頁岩油を精製する工場。敗戦近くなると食べ物が少なくなり、青年たちが支給された作業着を売ったり、寮の電球を盗んだりして食べ物と交換するのですごい困った。さすがに電球はないと困るのでつけると、一時間以内にソケットごと盗まれた。

1945(昭和20)年2月、東京に出張命令が出る。七月ごろまで内地にいて、東京大空襲を経験。空襲がひどいので満州に帰ることに。

1945(昭和20)年7月、新潟から貨物船に乗って撫順へ帰る。

1945(昭和20)年8月、終戦。しばらく「留用」というかたちで満鉄の工場で働く。

1946(昭和21)年11月、留用解除で家族三人と共に引き揚げ帰国。


帰り際に「軍隊は楽しかったよ~」と笑顔でおっしゃっていました。竹トンボを何千本もつくっていたり、いろいろとおもしろい方でした。

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