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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
北海道チームと競うように、東東北チームの証言概要がどんどん上がってきています。
8月17日(火)午前に東東北チーム第2班の取材レポートです。

◆◆◆

◎鎌田俊吉さん
1920(大正9)年12月生 89歳 
本籍地:宮城県(当時)
中国戦線~満州~シベリア抑留

1941(昭和16)年12月 徴兵検査 第1補充兵役に編入。
1942(昭和17)年9月 教育召集により歩兵第130連隊(仙台)に応召。
1942(昭和17)年11月 教育終了、引続き臨時召集。
1942(昭和17)年11月 歩兵第157連隊(佐倉)に転属後、第51兵站部隊(中国・漢口)に編入。
1942(昭和17)年12月 下関~朝鮮~満州を経て中国・漢口に赴任。
1943(昭和18)年10月 甲種幹部候補生を命じられる。
1944(昭和19)年1月 久留米予備士官学校に入学。
1944(昭和19)年8月 久留米予備士官学校を卒業。見習士官として原隊復帰。
1945(昭和20)年1月 少尉。第51兵站警備隊付。
1945(昭和20)年5月 第3独立警備隊に転属。
1945(昭和20)年6月 独立歩兵第25大隊に転属。
1945(昭和20)年7月 歩兵第373連隊に転属。500名を指揮する中隊長となる。
1945(昭和20)年8月 満州・奉天で終戦を迎え、ソ連軍に降伏。
1945(昭和20)年10月 シベリア抑留のため満ソ国境通過。ウズベキスタンの収容所に入れられる。
1948(昭和23)年7月 内地帰還のためナホトカ港出発。舞鶴港上陸。復員。

鎌田さんの所属していた第51兵站警備隊(呂6907部隊)は、軍需物資の保管・警備のほか、漢口と武漢の治安も担当していました。要するに「スパイ狩り」です。鎌田さんは、諜報部隊の連絡を受け、スパイを逮捕する分隊にいました。当初は兵隊として、予備士官学校卒業後は指揮官としてスパイ狩りに従事しました。自らの手でスパイを処刑したこともあったそうです。

久留米予備士官学校では、夜間でも活動できるよう夜目が利くよう訓練されたそうです。今でいうとレンジャー訓練に近いものでしょうか。ただ、特別な教育を受けたわけではなく、全員、そういう訓練をさせられたという話です。
同期にルバング島の小野田寛郎氏がいたとのことですが、直接面識があったわけではないそうです。

警備隊勤務時代は、物資を管理する側だったので物に不自由することはなかったとのこと。末期の昭和20年6月、歩兵部隊の指揮官として満州・奉天への赴任を命じられます。本渓湖で歩兵第373連隊の中隊長となり、500名の部下を預かる身となりますが、それまで警備隊勤務だったため、部下を持ったのはこれが初めてだったそうです。
ソ連軍へ降伏した後、シベリア抑留となり、ウズベキスタンに送られましたが、同地は乾燥地帯であり、シベリア抑留の一般的なイメージである「寒さ」はまったく経験しなかったとのことです。収容所の仕事は、レンガ作りが主だったのですが、予備士官を出ていた鎌田さんはその学識を買われ、化学実験室勤務となったため勤務も楽だったそうです。部下となったのは戦争未亡人となったロシア女性たちでした。
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