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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
証言集の編集も進行中のため、各班からキャラバン中の報告が上がってきつつあります。
今回も、北海道チーム第2班が伺った証言の概要です。
8月22日(日)午前の体験者の方のお話です。北海道チーム第2班の最初の聞き取りでもあります。

◆◆◆

◎若林弘さん
1926(大正15)年4月23日生まれ

■1943(昭和18)年末 南陽庁拓殖練習生に志願。
 弘前で筆記試験と口頭試問を受けた。
 全国で47名が採用、ほぼ1県に1人ずつだった。

■1944(昭和19)年  
○1月8日 門司に集合。
○1月10日
 エリー丸(5000トンの貨物船)で出航するも艦載機の攻撃を受け沈没。
 板につかまって泳いだが、海中に爆雷が落とされ、はらわたがちぎれそうなほどの水圧を受ける。
 夕方救助船に、近海だったので大部分は助かったが、熱い風呂に入っても震えが止まらなかった。
 1度帰郷させられる。
○3月下旬
 再度資金を作って集合し出航。
 ジグザグ航行で進むうち船団の船は攻撃で減っていった。
○4月22日 サイパンに補給のため寄港。
 船火事が出、パラオに向かうメンバーは別の船に乗り換えた。
 シラミがひどかったりタマネギの山が腐ったりしたが、サメ釣りなど楽しいこともあった。
○4月末頃 ペリリュー島近くで座礁。
 ダイハツがパラオ本島から来てそれに縄ばしごで降り、コロール島を経て翌日パラオ本島へ。
 コロール島の港には沈没船がたくさんある。
 4畳半の部屋が並んだ建物もあった。今思うと慰安所か?
南陽庁拓殖練習生。
○兵站部門を担う目的で集められていたと思う。
 木の伐採、ジャガイモの栽培など。
 皆出身県が違うので方言でお互いの言うことが分からず苦労した。
○南洋興発株式会社は引き揚げた後だったがパイナップル缶詰工場やカカオ畑があり、カカオは収穫が可能な状況だった 


■7月下旬 現地召集
高崎から来た第14師団歩兵第15連隊第1大隊(照7757)の通信部隊に配属。

○徴兵検査も受けていない。
○アメーバー赤痢で下痢が止まらず配属日を野戦病院で迎えた。
 野戦病院は水も飲ませてくれないので水枕の中の汚い水を飲み、よけいに下痢は治らない。
○ペリリューが占領されると米軍はサイパンに行ってしまい、パラオは戦局としては放置されたままになる。
○米は1945年初め頃無くなった。
 芋畑、蛇、黄色いトカゲ、シギ(飛べないで走るだけ)、カタツムリ(砂で洗う、そのまま食べると酔ってしまう)、ビンロジュ、椰子ガニなど。
○いびきをかき始めると死ぬのが近い。
 持っている食物を奪えるので皆狙っていた
○畑をやっている最中に爆撃で死ぬ者もいた。
 蛸壺を掘ったが利用する機会はなかった。
 グラマンに追われ立木の廻りをぐるぐる廻って逃げた。
 椰子の葉の家は逃げ込んでも燃えやすい。
○3回逃亡をした上等兵がいた。
 今考えればおかしくなっていたのかもしれない。
 小隊長が「介錯してやるから自刃せよ、家族のために戦病死として届けてやる」と言った。
 自刃しきれないでいるのを小隊長が首を落としてしまった。
 そこはしばらく誰も通らなかった。
 
■1945(昭和20)年8月15日 敗戦
○同年11月30日 召集解除。
 お前達は現地召集だから現地除隊だと言われ練習生組だけ残し、部隊はさっさと帰国してしまった。
 皆独り者で現地での生活基盤があるものでもないのに酷いと今でも憤っている。
 牛の塩漬け、卵粉、ひきわりコーヒーを貰う。

■1946(昭和21)年2月中旬 帰国へ。
 巡洋艦か駆逐艦か帰国船が来て、農耕などで現地に行ってた人と一緒に乗船した。
 途中グアムに寄港。煙草やチョコと扇子や浮世絵を投げて交換。
 10日ほどで横須賀着。
 真っ直ぐ航海出来るので行きの三分の一の時間で帰れた。
 体重は30キロになっていた。
 妻帯者と独身で貰える金額が違ったので妻帯者だと偽った。
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