FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ひきつづき、北海道チーム第2班が伺った証言の概要です。
メーリングリストより、8月25日(水)午後のレポートです。

◆◆◆

◎伊藤義顯さん
1916(大正5)年9月27日生まれ
当時の本籍地 北海道

1943(昭和18)年10月20日 第7師団に教育召集
同年12月初旬 建設70中隊に応召(27歳)
 (第16野戦飛行場設定隊の中隊? 帰ったら調べます)
○百姓をやっていた。教育召集で3ヶ月で帰るつもりが、急な部隊編制で赤紙を出している暇がないので、ちょうど教育召集がいるからそこから選ぼうという事になり 2~300人から選ばれた20人に入ってしまった。

○27歳での召集だから年嵩のほうだと思って入ってみたら、30代が多いおっさんばかりの部隊だった。

同年12月30日 出港 台湾・高尾を経てマニラに。
○同時に編成された69中隊と70中隊があった。
本来69中隊がニューギニア・サルミへ、70中隊はビアクへ行くことになっていたらしいが、69中隊の隊長が「こちらは今生の別れの正月を日本でやってから出かけるから先に行け」と70中隊の中隊長に言った。
70中隊としては従わざるをえずマニラでの命令受領の順が入れ替わった。
そのため「まあ先に着いたからな。お前たちがサルミへ行け」と、70中隊がサルミへ行くことになった。ビアクへ行った69中隊は全滅した。

1944(昭和19)年1月末 西部ニューギニア・サルミ着。

同年4月10日
○空が真っ黒くなるほどの編隊が飛んできて機銃掃射を行った。
下水に飛び込み身を隠したが、飛行機が行き過ぎたと思って
体を起こすと後ろにも銃がついていて撃ってきた。
とても低空飛行で木も草も揺れる。
○銃撃はとても正確で主に人ではなく食糧倉庫を狙っていた。
兵を殺さなくても食糧を燃やしてしまえば動けないと分かっていたのだと思う。
 
○食糧は3万人が3年暮らせるだけ持っていったと聞いていたが、あっという間に燃やされ食べるものがなくなった。
大正5年製の乾パンの缶詰を見かけ「自分より年寄りだ」と思ったが、それも口には入らなかった。
○12人の班で給仕係は12人に同じように飯を盛るのだが、みなでそれを取り囲み 一番多いのはどれか目を血走らせて凝視した。
○体の大きな人間から死んでいく。
伊藤さんはもともと食が細かったので助かった。

同年7月頃から 死ぬものがどんどん増え始める。
○マラリアでどんどんなくなった。
150人に一人の衛生兵がいたが薬は全く出てこない。
衛生兵が薬を売っているという噂がたっていた。
伊藤さんは一度発症したが再発せず1回だけで済んだ。
○下痢・血便で亡くなる者も多かった。
○マラリアは1時間ごとに水を汲んで十分冷やせばある程度もつ。
伊藤さんは戦友の一人と兄弟の誓いを結び、どちらかが発病した時にはかならずもう一人がつきっきりで看病をして生き残ることを誓った。

○食料を求めて島をさまよっても次第に遠くまで行かなければならなくなった。半日もかけて歩かねばならず、帰って来ない者も増えてくる。体力を消耗するだけなのでやめることにした。
○燃え残った食糧庫の食料は小さく分けて置かれた。
部隊長がこの鍵の管理を伊藤さんと先の戦友に任せ、そのとき「鼠は餓死しないからな」と言ってくれた。
いずれにせよ盗るにしても、部隊長の許可が出ているので楽になった。
戦友は部隊で唯一の大学出身者(慶応)でニッカウヰスキーの課長(部隊長でも中卒だった)、自分は父親と叔父が村会議員をやっていたから、部隊長はそのへんの帰ってからのことも考えたのだと思う。
これがあり、二人はネズミや蛇を捕りにいかなくてもやっていけた。
○南洋興発の農園が近くにあり、管理人が一人だけ残されていた。
ここにさつまいもを植えて収穫した。
○やしの実が海岸に多少打ち上げられたが、これは位の高い者の口にしか入らなかった。

○遺体は焼くと敵機が来るし、サンゴ礁で固く掘って埋めることも難しい。
くぼみのようなところに置いてまわりの葉やごみのようなものを集めてかけたが、すぐに鳥などに掘り返されたのではないか。

○一度落下傘爆弾が一面こうもりのように空を黒くして落ちてきた。
伊藤さんの隠れる定位置があったが、その時はほかの用事で遅れてそこに先着がいて入れなかった。
しかたがなく他にかくれたら定位置に爆弾が落ち、そこにいた人間は頭蓋骨が割れて脳が飛び出していた。

○軍隊としての仕事は何もなかったので皆思い思いにやっていた。
年齢としては下士官に見えるので階級証はつけずに出歩き、古参兵のふりをすると、若い兵や下士官が敬礼をしてくるので答礼していた。
○子供のいる人が多かったので夜はみなその話をした。

1945(昭和20)年8月
○敗戦は知ったが誰も来ないのでいつか迎えの船が来るだろうと待っているような状況だった。
○最初に来た米兵は非常に親切で病人も一人一人診てくれた。

同年11月 オランダ兵が来て米兵から管理を引き継ぐ。
○米兵は万事おおらかだったが、オランダに変わり全体としては厳しくなった。
○ここで病人と健康な者が分けられ当時寝込んでいた戦友と分けられてしまった。
彼は1月5日に死んだ。病院と言っても寝かせているだけだから。ずっと一緒にいられたら死なせなかったのではないかと思っている。
○伊藤さんは病院長の通訳になったので仕事はせず、ふんだんに良いものを食べられるようになった。
60キロまで体重が増え、人生であんなに太ったことはない。
帰国したときみな骨と皮で帰ってきているのにどうしたことかと言われた。

1946(昭和21)年 6月末復員。
○511人の部隊で生還したのは125名。

※取材に訪れたお宅で生まれ、戦争以外はずっとそこで暮らし、あとひと月で94歳という方でした。
立派なあごひげに、とてもお元気な方で、毎日悲惨な話ばかり聞いているからかもしれませんが、93歳の方が30代の多い部隊を「おっさんの部隊」と連呼するのに、何ともおかしみがありました。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/251-41d1b5af
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック