FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ひきつづき、メーリングリストより、北海道チーム第2班が伺った証言の概要です。
「その2」となっていますが、「その1」は、25日・26日分まとめた報告になっています。


◆◆◆

昨日(8月24日)の北海道新聞と読売新聞北海道版にキャラバンの記事が載り、昨日の事務所は賑やかだったようです。話したいと思ってくださる方はどこにもまだまだおられるのだなと実感します。
私は北海道は数日だけのお手伝いのつもりでしたが、札幌に残り、ご連絡をいただいた方をまわっています。

とは言ってもとても全員は回れないので90代の方を優先しましたが
午前中お伺いした村山さん・90歳は聞いてみたら憲兵さんでした。
憲兵としてのお仕事の核心は話していただけなかったような気もしますが
憲兵の日常的なお話、敗戦時のお話も大変興味深いものでした。
以下取材報告です。

◆◆◆

◎村山 豊喜 さん
1920(大正9)年8月19日生 9人兄弟の5男(6番目)

1941(昭和16)年1月 現役
 牡丹江高射砲隊第839部隊
 聴音器(飛行機の爆音を拾い方角を推定する)を担当していたが、飛行機が落ちたのは見たことがない。

1942(昭和17)年9月 新京の憲兵教育隊に。
○(憲兵は一般には志願をして試験、面接のあるものだと認識していたのですが)
 村山さんは志願も試験もそんなものはなかった。
 行けと言われて行った、部隊の人事曹長に嫌われていたので、一人他所にやられたと思うとおっしゃっていました。
○1年弱をかけて憲法、刑事訴訟法、警察法、中国語など詰め込んだ。
 高等小学校しか出ていなかったから本当に大変だった。
○卒業したとき自宅に認可証が送られ、長兄から「これで永久に軍人だな」と言われた。それが希望ではなかったのでショックだった。

1943(昭和18)年 佳木斯(じゃむす)憲兵隊に。
○憲兵は下士官ても営外居住した。外出は自由で私物も持てるが、どこに行くにも行先は常に知らせておかなければならない。自由なような自由でないようなだった。
○憲兵手帳、呼笛、捕縄は必ず携帯した。軍刀、拳銃で武装した。
○憲兵は衛門の外のことをやる。逃亡兵の引き取りも衛門のところでやり、その中に入って探すことはやらない。外の逃亡兵を探すことは仕事だが実際にはそういう機会はなかった。
○日本兵が中国人に詐欺を行ったことがありその時は捜査した。
 そのように犯人が日本兵の場合は警察ではなく憲兵の管轄になる。
○監獄で反乱がおこり収監者の中国人が全員脱走したことがあった。
 かけつけたが行っただけで街に入ったしまえば見つけようがなかった。
○慰安所は軍人のための施設、軍からお金も出ているのだから、民間人が遊びに来ないよう取締りをした。そのついでに自分も遊んだ。
○憲兵隊には憲兵補と呼ばれる中国人と憲補と呼ばれる韓国人がおり、通訳の役割を果たした。

1945(昭和20)年8月9日 ソ連参戦。
○ドーン、ドーンという雷のような音で目覚める。
○集められて特別警備隊に入って行動してもらうと言い渡された。
 黒い中国服に着替えさせられ、手帳・笛・縄は回収され、完全に「地方人」の格好となった。
○依蘭に一度後退するが、少しずつ分かれて再度松花江沿いに佳木斯(じゃむす)の前線に情報をとり依蘭に戻る命令。
 どうにか戻るが「お前たちはもういらないのだ、戻ってくるとは思わなかった」と上官が受け入れ部隊の少尉に言われているのを耳にする。
 棄兵だ、軍隊はこういうふうに兵隊を捨てるのだと思い知る。
○悔しさに溢れていたが、渡されたおにぎりでおなかをいっぱいにし、チャンチュー(酒)をふんだんに煽ると寝ることが出来た。
 目が覚めると小便でぐっしょり濡れていた。
 目覚めると部隊は出発寸前でそのままの格好でついて行く。
 (このことは手記にも書いておられるので聞いた通り書きます。手記にはさらに声をかけず置いていこうと思っていたのではないかと書いてあります。)

同年8月19日 武装解除。
同年9月 ハバロフスク・キーロフ 第16捕虜収容所へ。
○9~5時まで伐採、6時に戻って食事を終え横になると寝てしまうが、夜中にもう一度起こされ石炭の運搬作業に呼ばれた。
 これが夜明け近くまで続き2~3時間寝ると再び伐採の仕事に呼ばれる。
 2交替制ではなく同じ人が働き続ける。
○食事は黒パン1枚とコーリャンが5~7粒入った塩のスープが1日1回が1年間続いた。1年後から1日3回に改善した。

○収容所にはもう一人特務機関出身者がいたが、お互いに身分は絶対隠そうといっていた。
○以前少し手伝ったことがあったので煉瓦工を名乗った。
 本当の煉瓦工がいたが彼も仕事効率をあげるため5~10名の者を養成しようとしていたのでその中に入った。
○アパートのレンガ積みの仕事がありそれに出たところ「ハラショー ラボータ」として待遇が急に良くなった。
 ペチカの修理を頼まれたこともあり、どこをどう修理したかはさっぱりわからなかったがなぜか使えるようになった。
○民主化運動も始まりいつ身分がばれるか毎日そればかり考えていたが、そのままばれることはなかった。

1947(昭和22)年10月 舞鶴に復員。
○8月に病人が帰り、そのあと最初に帰国メンバーに選ばれた。
○船の中で民主化運動のオルグをしていたメンバーを殺せと騒ぎが起こったが実際にはやっていないと思う。
○復員手続き時、「それによって何かすることはありません」と言われて、初めて憲兵であったことを明かした。2世の米兵に半日ほど尋問された。
○列車の窓から愛国婦人会風の人がさつまいもの輪切りを差し入れてくれた。とてもおいしかった。
○お母さんが夕張鉄道の駅まで迎えに来てくれていた。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/250-3631e466
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック