FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「松村幸子さんの戦争展 夫と、父と、私の戦争」開催1週間前となりました。
ニューギニアの戦い関連のことを振り返ってみましょう。

1944年4月22日、米軍がニューギニアのホーランジアとアイタペに上陸しました。
この年の3月から、ホーランジア・アイタペには米軍の空襲や艦砲射撃が行われていましたが、日本軍は状況を把握できていなかったようです。組織だった防衛体制の構築は進んでおらず、4月16日にようやく状況を把握したということですが、すでに米軍上陸目前だったわけです。
前日4月21日に米軍空母部隊が大空襲を行っており、日本軍の航空戦力は全滅状態になっていました。
それでも、日本軍はホーランジアではなく、マダンかウェワクに上陸するだろうと考えていたということです。
満足な武器もなく、上陸当日に海岸全域は米軍の占領下に。
4月26日には、飛行場も米軍に制圧されました。
この地区の飛行場は、前年1943年3月に東部ニューギニアの戦況の悪化を受けて建設されたもので、ウェワク方面への補給の要衝でした。
拠点を点々と押さえ、日本軍を孤立させる蛙飛び作戦が本格的に始まったのです。

付近の掃討戦が始まる中、日本軍はサルミへ向けて400kmを撤退することになりました。
途中には100以上の河川。
食糧も医療品も不足しており、栄養失調とマラリアで死んでゆく兵士たち。サルミまでの道には白骨が続いていたということです。
また、5月3日に米軍と遭遇した海軍部隊は全滅。
ホーランジアにいた第18軍関係の6600~6700名ほどの部隊のうち、サルミまでたどりついたのは約500名。

一方、同じころサルミのほうでは、米軍上陸を知ってそれに反撃すべく、4月24日に第36師団による救援作戦が立案されました。
5月8日には実際に松山支隊が出動しますが、5月17日には別方面にも米軍が上陸して、作戦は中止となり、サルミ防衛戦が展開されることになります。
サルミにたどりついたホーランジアの部隊の約500名もこの防衛戦に参加、生きて日本に帰ることができたのはこの3分の1以下、143名ということです。

米軍は、それから、力尽きていく第18軍を取り残し、ビアク島を経て太平洋の島々を攻略し、サイパンに迫っていくのです。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/2433-ffd2781d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック