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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
70年前の昨日のことです。
1946年2月26日の閣議で、日本政府はGHQ草案に基づく日本案の起草を決定、開始します。
3月2日には案がまとめられ(3月2日案)、3月4日にGHQに提出、そのまま翌日まで双方で修正が重ねられ、3月5日の閣議で、この修正された案(3月5日案)を採択することが決定。
3月6日、日本政府が「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーは即日それを承認する声明を出します。
また、2月25日の閣議で、4月10日に総選挙を行うことが決定されていました。総選挙後の帝国議会で、憲法改正案が審議される道筋ができたわけです。

同日、2月26日、ワシントンでは極東委員会の第1回会議が開催され、活動を開始しました。
極東委員会は、連合軍が日本を管理するために1945年9月に設置され、当初は米国単独の機関でした。その年の12月開かれた米・英・ソによるモスクワ三国外相会議で、極東委員会は米・英・ソと中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの11カ国代表で構成することが決定しました。
やがて始まる極東軍事裁判では、この11カ国それぞれから判事を1人ずつ出す権利も持っていました。
日本国憲法の制定に当たっては、新憲法草案の最終採決には、委員会の承認を必要とすることとされました。

その決定が効力を発揮する前、極東委員会が正式に始動する前に日本政府に憲法改正案を作らせておこうと、GHQやマッカーサーやホイットニー民生局長は動いており、その過程でGHQ草案を日本政府に提示したのでした。
2月26日の第1回会議では、英・ソ・オーストラリアが天皇制廃止を主張しました。天皇制廃止の議論が起こるのは予想できていたため、GHQでは天皇制を維持した形の民主的な憲法を日本に作らせたかったのです。
2月18日にホイットニーがGHQ草案を受け入れるか48時間以内の返答を強く求めたのは、時間がなかったためでもありました。
極東委員会の始動の時点で、GHQ草案をもとにした日本政府の憲法改正案がなかったとしたら、そこから1年ほどで天皇制は完全に廃止されていたかもしれません。
そのほうがよかったという向きもあると思いますが、戦後の日本にとってどうだったのか、そこは、天皇制維持によって日本の混乱は防がれていたのかという話になってくるでしょう。
翌2月19日から始まった昭和天皇の巡幸が、国民から熱狂的に迎えられたというのを見ると、確かに天皇制が廃止となり、さらにその後の極東軍事裁判で天皇が処刑されたとしたら、それなりの混乱が起こっただろうと思われます。

2月26日以降、GHQ草案をもとにした日本政府案をつくらせたことは、極東委員会からマッカーサーの逸脱行為とみなされ、極東委員会とGHQの間で攻防が始まります。
マッカーサーは、ときに極東委員会からの要求をはねつけ、予定通りに4月10日総選挙~帝国議会で憲法改正(日本国憲法の制定)を実現させ、日本政府から感謝状を受けることになるのでした。
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