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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ひきつづき、東東北チームの取材報告を公開します。
8月16日(月)の午後、第2班が伺ったお話の概要です。

◆◆◆

◎畠山文男さん

1920年(大正9)生 90歳 宮城県
高射砲第19連隊(満279 猛第4332部隊)

昭和15年(1940)夏、徴兵検査・第一乙種合格。同年秋、入営する兵科が高射砲隊に決まり、昭和16年(1941)1月、一旦、仙台の第4連隊に赴き、その後、大阪の集結地で高射砲第19連隊第4中隊に入営したことになり、朝鮮を経由して、2月、佳木斯の本隊に到着しました。
関東軍の初年兵へのシゴキは、「不毛地帯」や「兵隊やくざ」などの映画に描かれているように凄まじいもので、畠山さんも例外ではなく、制裁の数々を受けました。

高射砲第19連隊は、高射砲第56連隊と機関砲第29連隊で編成されており、畠山さんが所属していた第4中隊は機関砲隊でした。
独ソ戦が始まった昭和16年6月頃、畠山さんの第4中隊は「関東軍独立野戦機関砲279部隊」と呼ばれ、その後、第4332部隊と変わりました。なお、高射砲部隊は第4330部隊と4331部隊となり、この頃、多くの戦友が他の部隊に転属していったそうです。
4332部隊は、東満州のソ連国境近くの東安、蜜山などに駐屯し、太平洋戦争開戦を迎えました。

昭和17年(1942)秋、4332部隊に南方戦線への動員命令が下り、12月初めに佐世保着。12月末にラバウル港に入りました。当初、ガダルカナル島に救援に行くという噂がたちましたが、やがて、第51師団岡部支隊に属し、ニューギニア・ラエに向かうことが伝えられました。ラバウルにいた海軍陸戦隊の兵士に「輸送船でニューギニアに行くのは無謀だ。ダンピール海峡のサメの餌食になるだけだよ」と言われたそうです。
昭和18年(1943)1月5日、畠山さんは輸送船「妙高丸」に乗船。6日、ラバウルを出航。初日は零戦の護衛もあり、無事過ぎていきましたが、7日から8日にかけて敵機の空襲を受けました。妙高丸は何とかラエにたどりつき、畠山さんたちはラエに上陸します。

上陸後、畠山さんたちはトラックでジャングルの陣地に苦労して進出しましたが、あっという間に食糧がなくなりました。潜水艦が決死の覚悟で運んでくれた米も、海水と気温で発酵し米の形を成していません。ノリと団子を混ぜ合わせたようなものが主食で、副食はほとんどなく、それすらも滞るようになりました。椰子の実は食べ過ぎると大腸炎の原因になり、川で体を洗うと皮膚病になりました。畠山さんも下痢、大腸炎、栄養失調に苦しめられたとのことです。
4332部隊の任務は、ラエ港附近の日本軍飛行場を守ることでした。連日、敵機の空襲を受け、機関砲で対空戦を行っていましたが、畠山さんの機関砲が真っ二つに割れるという事故が起きました。それまで必死の気概で戦っていたのが、砲が使えなくなった瞬間、一気に恐怖心にかられてガタガタ体が震えたとのことです。

昭和18年9月、ラエ東方のブス河対岸に連合軍が集結。渡河作戦を始めました。沖合いにあった敵艦からは艦砲射撃も行われ、弾丸がどこに落ちるかわからない艦砲射撃の恐ろしさは一段だったということです。
4332部隊は、ラエとサラモアから撤退する部隊の退路を確保するため、ブス河で敵を食いとめよという命令を受け、200名足らずの兵力で1万5千もの敵軍を相手にすることになりました。
この戦いで4332部隊は事実上、全滅し、生き残った10数名がサラワケット山系を退却することになりました。4332部隊の指揮官は、軍(師団?)司令部に後退の許可を求めましたが、司令部はそれを拒否し、結果的に4332部隊を捨石にした形になりました。

その後のサラワケット越えが、生涯忘れられないことだとおっしゃていました。
毎日毎日山越えの行軍が続き、あの山の頂上まで登れば、後は山がないかもしれないと期待して頂上に着くと、その向こうにはなお一層険しい高い山がそびえている。断崖絶壁を進むこともあったし、綱につたって難所を越えることも度々だったそうです。険しい山脈越えの苦行はとても筆舌には尽せないと語っていました。
1週間分の食糧が尽きると、土人部落を経由する撤退路に切り替えられ、人気のなくなった部落の家屋に宿泊し、作物であるいも類が兵士たちの唯一の食べ物となりました。
畠山さんは負傷していたものの、足は大丈夫でいつも先頭を歩くことが出来たので、部落での食糧確保もまだましだったそうです。サラワケット越えした将兵は8000人ほどいたらしいですが、部落で食糧調達できたのは始めの方を歩いていた人たちだけで、最後の方になれば何もなかった状況だったはずだとのことです。

途中、銃声や手榴弾の破裂音が続き、自決者が出るとわかると、その衣服や靴、雨具などを目当てに兵士が自決者の周りに群がってきたそうです。畠山さんも、軽装で戦うため地下足袋だったので、自決者の皮の軍靴と交換しました。
撤退路は前人未到のジャングルなので、海軍の陸戦隊がコンパスで方向を測定し、工兵隊が難所の道を作り、台湾の高砂族の兵がジャングルを切り開きながら進んでいったとのこと。ラエからサラワケット山頂まで約1ヶ月くらいかかり、目的地であるキアリに着いたのは山頂到達から10日くらい後だったのではないかとのことでした。

キアリ到着後、畠山さんはマダンの野戦病院に入院。その後、ウエワク、ホーランジア、パラオに転送され、ようやくパラオで本格的な治療をしてもらえたそうです。そして、昭和18年12月に帰国。広島陸軍病院に入院した後、東京第2陸軍病院に転送となりました。昭和19年6月、退院し、目黒の野戦重砲兵連隊に移った後、6月25日に現役満期除隊になりました。
ここで不思議なのは、退院できるほど回復したのに、昭和19年という時期に満期除隊なんか出来るだろうかということでした。当時はそういう例がよくあったのですかという質問に、「まずなかっただろうね」という返事。事実、除隊したので軍服姿で東京駅のホームに立っていたところ、脱走兵と疑った憲兵に咎められたそうです。
畠山さんは、その後、実家に戻り、昭和20年6月に再召集されたものの、戦地に赴かず終戦を迎えました。その理由として、「戦後、4332部隊のことを、ある人が厚生労働省で調べたら、援護課の記録には、この部隊は全員帰還せずとあったと言っていた。おそらく、上級司令部が私たちは全員玉砕したと報告したものだから、軍籍に私のことが載ってなかったか、幽霊兵士のようになった私のことを扱いかねて放っておいたのではないか」とおっしゃていました。

畠山さんは、あの過酷なニューギニア戦で生き残れたのは、神仏のおかげであり、戦死した戦友たちの魂のおかげであると信じているとおっしゃいました。亡き戦友たちのために自費で観音像を建立し、供養を欠かさず、自宅には立派な神棚もありました。
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