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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
順番は前後しますが、全国キャラバン「夏の陣」で伺ったお話の概要を随時公開していきます。
東東北チーム8月16日(月)2班の午前中の取材報告です。(保存の会メーリングリストより)

◆◆◆

◎須藤文彦さん
1921年(大正10)生 89歳 岩手県
最終階級 一等整備兵曹

小学校卒業後、海軍水兵に3度志願しますが、いずれも合格不採用。昭和16年(1941)5月、徴兵検査で甲種合格。徴兵として海軍に入隊することになりました。同年11月、両親の希望もあり結婚。19歳の新妻を置いて、昭和17年(1942)1月、横須賀海兵団に海軍整備兵として入団しました。
整備兵の同期生は2638名。須藤さんの所属した分隊は213名。分隊は13班にわかれ新兵教育が始まりました。4月、新兵教育が終わり、成績優秀だった須藤さんは空母「赤城」乗組みを命じられました。

5月、横須賀港で空母赤城に乗艦。飛行機は九州の基地にあって一機もなく、乗員の数もまだ少なかったそうです。
須藤さんたち新兵は、艦内乗員教育を受けましたが、いたるところにビール瓶や缶詰が散らばっており、いれずみをした先輩もいて、薄気味悪い物々しさを感じたとのことです。
5月下旬、横須賀港を出発して、呉の柱島沖に停泊。ここで飛行機搭乗員が全員帰艦し、須藤さんは赤城8分隊飛行班に配属となり、零戦の飛行作業に従事することになりました。

5月27日、赤城は柱島を出発し、2日後に「ミッドウェー沖に進出して、作戦に従事」する旨が上司から伝えられましたが、出発前からミッドウェー島に上陸作戦を行うという噂が兵隊たちにも知れ渡っていたそうです。
須藤さんは術科学校に行っていない最下級の兵隊(当時、三等整備兵曹)だったので、飛行甲板上での車輪(チョーク)止め係でした。作業は単純ですが、ものすごい風圧の中を動かなければならないので、危険度は一番高い持ち場でした。

6月5日、早朝に友永大尉率いる第1次攻撃隊を送り出した後、敵機の空襲を受け、迎撃に出た零戦の着艦、給油、発艦の繰り返しで多忙を極めたそうです。中には被弾した燃料タンクから、油がもれたままで発艦するものもあるほどでした。
敵機来襲で多忙中、兵装転換(陸用爆弾→艦船用爆弾、魚雷)を知らされて何が何だかわからないような状況になりました。もっとも、須藤さんが直接、命令を受けたわけでなく、兵隊同士のやりとりで知ったとのことなので、時間的関係や詳細は不明です。
須藤さんが見た記憶では、赤城の左方にいた飛龍に、次々と敵機の垂直爆撃が行われ、水柱で飛龍が見えなくなったほどだったということです。急に黒煙が上がり、飛龍がやられたと思いましたが、黒煙をはきながら全速力で敵攻撃を回避しながら、赤城の前方を横切っていったとのこと。もしかしたら、飛龍の煙突から出ていた排煙だったのかもしれません。

赤城に対しては敵機が機銃掃射しながら襲い掛かり、爆音と対空砲火の轟音で何も聞こえない状況の中、物凄い爆音がしました。須藤さんの話では、赤城の艦橋近くのエレベータ附近に被弾し、中部エレベータが前方に吹き飛んできたとのことです。
艦内は大火災となり、消火活動が始まりましたが、それと並行して、不時着したパイロットの救出作業を命じられました。「とにかく味方のパイロットを助けろ!」ということで、爆風で吹き飛ばされた水兵も助けを求めていましたが、それは無視してパイロット救助のみに専念したそうです。
中には敵機、アメリカのパイロットが漂流していたのも見ましたが、それも無視したとのこと。

その後、須藤さんは艦内の酒保にある可燃物を処分せよという命令を受けて、真っ暗闇の艦内に入り、酒保に入りましたが、突然の爆発で命からがら前甲板まで避難しました。7名の兵隊と一緒に酒保に行きましたが、その後、その7名は行方不明だそうです。
しばらくすると、前部錨甲板に集合せよという命令があり、そこに移動すると、艦長訓示がありました。左腕を包帯で吊り下げた青木艦長が退艦命令と短い訓示を行い、タバコをゆっくり吸った姿が忘れられないとおっしゃっていました。
いよいよ退艦ということなのですが、退艦も階級順に上位の者から行うということで、夕闇が迫ると階級なんか無視して、我先にと飛び込む者が続出しました。
須藤さんは命令を守ろうと思っていましたが、まだまだ三等兵も大勢いるし、「あとは来ないよ」という声もするし、ぼやぼやしていたら取り残されると思い、内火艇に飛び降りたそうです。須藤さんの後からも飛び降りる人がいて、定員になった内火艇は赤城を離れ、駆逐艦目指して走っていきました。途中、何人か海に落ちましたが、そんなのかまっている余裕などなかったということです。

駆逐艦「潮」に移乗した後、疲労のため寝ていたら、夜明け頃に起こされ、何事かと思ったら、「潮」の近くで「赤城」が真っ赤に燃え続けているのを見てびっくりしたそうです。てっきり全速力で内地に向かっているとばかり思っていたからでした。
「魚雷を発射して沈没させてから帰るので、赤城乗員は沈没するとき敬礼するよう」と言われ、赤城に魚雷が命中し、沈没していく様子を敬礼して見送りました。
その後、「潮」から戦艦「陸奥」、軽巡「長良」と便乗して内地に帰艦。九州の鹿屋飛行場の一角に移ったのですが、1ヶ月以上、隔離生活が続いたので閉口したとのことです。

昭和17年8月下旬、空母「翔鶴」に乗組み、ソロモン方面の作戦に従事。同年10月、普通科整備術練習生として内地帰還。昭和18年(1943)6月、鹿島航空隊配属、同年11月頃、高等科整備術練習生、卒業後、筑波航空隊、松島航空隊などに配属となりました。
昭和20年に入ると、特攻機の整備を担当することになり、予備学生出身の若い少尉などを見送ったそうです。

玉音放送は農家のラジオで聞いたそうですが、見送った特攻機のことが思い起こされて、「今頃何だ」「こんなにならないうちに言えばよいではないか。それを知らずに今日死んで行った友に、何と言い訳できるだろう」「軍部も上部も信用できない」と思い、今まで厳しい軍規で守られていたものが、一気に崩れ落ちいくのが、はっきりわかったとおっしゃっていました。
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