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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
全国キャラバン「夏の陣」の先遣隊改め殿は、福井へ行くついでに新潟を回るという、長距離移動を行いました。
お話を伺った翌日、帰途についているときに、保存の会事務局に「もっと話したいことがあった」とお電話が入ったそうで、キャラバン隊は歓迎されていたのがうかがえました。
2日目、新潟の体験者の方の証言の概要です。

◆◆◆

◎中島藤一さん

1921年(大正10)生 89歳 新潟県
歩兵第116連隊(鏡6806 新発田)
最終階級 陸軍軍曹(歩兵)

昭和16年(1941)12月15日、現役兵として歩兵第16連隊補充隊に入営。
中島さんの住所の管轄では、本来、高田連隊に入営するはずでしたが、前の年くらいに管轄の変更があり、新発田連隊に入営しました。
国内で約3ヶ月の初年兵訓練を受けた後、宇品から上海に移動し、昭和17年(1942)4月、宜昌にあった歩兵第116連隊に到着。同年12月、歩兵砲中隊に配属となりました。

116連隊はもっぱら国民党軍を相手にしていたのですが、「向こうが勝手に逃げていったから・・」ということで日本軍が本当に強かったかどうかは、よくわからないとのこと。
昭和19年6月以降は、大陸打通作戦(一号作戦)の一つである湘桂作戦に参加。歩兵砲は馬で運ぶのですが、馬は中国の村から徴発。「中国の馬は小さく非力」だったそうです。中国の集落はどこに行っても油臭く、油の匂いがすると部落に近づいているのがわかったとおっしゃっていました。
広大の大陸をひたすら歩かなければならないので、「最初に支給された靴を最後まで履いていた奴なんかいない」とのこと。ボロボロになった靴は、各自、勝手に別のものを調達したそうです。ですから靴の種類も雑多だったということです。
歩兵砲も弾がなくなりましたが、捨てていくわけにもいかず、苦労して最後まで維持していたそうです。

敗戦後、昭和20年9月に捕虜となりましたが、治安が悪く、捕虜になってからも軍隊組織は維持され、武器も持たされたとのことです。
中島さんも、戦死した戦友の小指を飯盒に入れて保管していましたが、捕虜になった後、その遺骨を上官に渡しましたが、その後、遺骨がどうなったかは不明とのこと。おそらく復員までに上級司令部が破棄してしまったのでしょう。

昭和21年5月、日本への復員が決定し、同年6月に佐世保上陸、復員しました。
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