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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者20人目は、台湾人ですが日本兵として戦いカザフスタンに抑留、呉正男さんです。

呉正男さん

呉正男さん

スクリーンの画像です。
呉正男さん

台湾出身だが、父が有力者だったため、日本人用の小学校に通っていた。
1941(昭和16)年4月、日本の中学校に留学。
1944(昭和19)年4月、中学校を卒業するとすぐに陸軍特別幹部候補生に志願(1期生)
•水戸航空通信学校長岡教育隊に入隊。台湾人だからということで特に肩身が狭いこともなく、選抜されて機上通信士の教育を受ける。
1944(昭和19)年12月 西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に転属。
「滑空飛行戦隊」に配属される。九七式重爆撃機が大型グライダーを曳行して、敵飛行場に強制着陸させる空挺隊だった。
レイテに派遣される予定だったが、実際に出発することはなかった。
1945(昭和20)年5月、現在の北朝鮮の宣徳飛行場に移転。
沖縄への降下が考えられたが、今度も実現しなかった。
6月、特攻の希望を聞かれ、「熱烈望」にしるしをつける。
8月15日、玉音放送を聞く。雑音で内容が聞き取れなかった。
8月16日、平壌飛行場に移動して命令を待っているところに、ソ連兵が来て汽車に乗せられ武装解除。
9月、元山へ連れていかれ、興南の港から船でポシェットへ、さらに鉄道で西へ向かう。
中央アジア・カザフスタン・北部グズホルダ収容所に到着。抑留生活が始まる。
土木作業、コルホーズでの農作業、通信関係の作業など。
中国に引き渡されるのを恐れ、日本人で通す。
1947(昭和22)年7月、舞鶴に復員。「大山」という苗字を名乗っていたため、50音順で早く呼ばれた。
1952(昭和27)年~1953(昭和28)年ごろ、多くの大学卒の台湾人が日本から中国へ渡ったが、そのまま消息不明になった。自分は大学生だったので、日本に残った。

第1部最後の証言者となりました。
当日のお話は、シベリア抑留までの軍隊生活を一通り、後半は台湾人元日本兵の戦後補償について。
シベリア特措法では、抑留経験の生存者を対象に、抑留年数に応じて25万円または35万円の支給が決められたが、国籍条項があるため、日本国籍でない人は対象外であるとのこと。該当する台湾人、韓国人を合わせても30人もいないにもかかわらず。(少ないのは、帰国した人が多かったことも関係しているのでしょうか)
呉さんは自分の力で日本に根付き、人や財が集まる立場となられています。それを知っていると、「些細な額の支給で差別をする日本政府の恥かしさ」という言葉に迫力が増します。
冒頭は、「私は台湾人です。しかし、生まれたときは日本人でありました」という言葉から語り始められており、当時の情勢であるとしても、日本のよいところも悪いところも見つめてきたうえでの思いの深さがあるのだと思います。

保存の会とのおつきあいは長く、日比谷集会では「きっと時間が足りなくなるから、そうしたら自分は出なくていいよ、名前も呼ばなくていいよ」とおっしゃっていました。本気です。
実際時間は押したので返す言葉もないのですが、絶対にお話しいただかねば、と、進行の時間管理にいっそう気合いが入りました。
「今日ここに立てたのは神仏のご加護と感謝している」という締めの言葉に、頭が下がるとともに、第1部登壇者の方皆さんに登壇出来てよかったと思っていただけていたらよいのだけれど、と思ったものです。

「戦場体験史料館・電子版」に、呉さんの簡単な証言概要が掲載されていますので、併せてごらんください。
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