FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者19人目は、東京大空襲を隅田川で耐えられた清岡美知子さんです。

清岡美知子さん

清岡美知子さん

スクリーンの画像です。
清岡美知子さん

1945(昭和20)年3月10日時点で21歳。
浅草馬道に両親とお姉さんの4人家族で暮らしていました。
東京都経済局食糧課にタイピストとして勤務。米穀の配給を所管する部署。戦争末期には米がなかなか手に入らなくなり、大豆やトモロコシを混ぜることが多くなったようです。
3月10日、空襲警報で外へ出ると、ものすごい数のB29が低空飛行で焼夷弾を落としており、消火をあきらめて言問橋まで逃げていきました。防空群長だったお父さんが号令をかけていました。
隅田公園の橋の下に走ると、大勢の群衆が荷物とともに逃げこんで来ました。
火が激しくなり、川下側の船着場の石段から川へ入ったところで家族とはぐれてしまいます。
桟橋に掴まり、鉄兜で水をかぶりながら、1人で夜明けまで耐えました。このとき、言問橋は炎に包まれ、多くの人が身動きがとれないまま焼かれています。
水から上がって、寒いので橋の上で燃えている火にあたっていると、燃えていたのは逃げ遅れた人の死体でした。
死体が転がる中、家族を探しにいき、お母さんが倒れているのを見つけます。火のそばに運んで介抱していると、お母さんは目を覚ましました。お母さんの話では、お父さんとお姉さんは川でおぼれたようです。
船橋から来てくれたお父さんのいとこといっしょに遺体を探して3日後、2人の遺体が見つかりました。(公園に仮埋葬されていたのを掘って確認)
6月、お母さんの郷里の長野県へ疎開し、そこで農商省食糧管理局統計検査課に勤務するものの、食糧のデータを集める仕事はほとんど機能しなかったようです。

日比谷証言集会当日は、東京大空襲を迎えるころの状況、当日から数日後までの詳細な体験、そして戦後補償を求めての活動まで。
あえて「です」「ます」を排した原稿、一言一言にとても力がこもっているのが伝わりました。
いち早く原稿を書かれた方の一人です。「隅田川の生と死」というタイトルもご自身で最初からつけられていました。第1稿から当日に向けて、戦後補償をめぐる動きについて加筆してこられました。
空襲被害者の遺族会に入会し、大空襲の体験を語り、補償を求める裁判等で中心的な活動をされてきました。
8月6日、空襲被害の補償を目的とした超党派議員連盟が設立集会を開いたところで、タイムリーな時期でもあったのです。これも日比谷集会を企画したころには予想していなかったこと。
「私の存命中に実現することを切望している。皆様方のご支援をお願い申し上げます。」という言葉でしめくくられました。

戦場体験史料館に南鳥島で従軍されていたご主人の資料を持ってこられたのが保存の会との出会いですが、そのとき自己紹介として、ご自身の東京大空襲の経験と現在の活動について10分程度でさらりと話されたということです。
日比谷集会が決まった時に、ぜひお話いただきたい方としてお名前が挙がっていました。
そういう経緯のため、実は聞き取りという形ではお話を伺っていません。これからぜひ取材させていただきたいと思っているところです。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/2306-50219559
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック