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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者18人目は、仙台空襲で負傷し右足を切断、日佐戸輝さんです。

日佐戸輝さん

日佐戸輝さん

日佐戸輝さん

スクリーンの画像です。
日佐戸輝さん 日佐戸輝さん

1943(昭和18)年、徴兵検査を受けるが、過去の病気の影響で丙種合格。第二国民兵として普通に働き続ける。
1944(昭和19)年7月、教育召集の召集令状が届く。朝鮮第22部隊の機関銃中隊で3ヶ月訓練を受ける。集められたのはほとんど体の弱い人ばかりに見えた。
1945(昭和20)年3月10日、当時住んでいた千葉県から東京大空襲の炎を見る。本所に住んでいたお姉さんが行方不明に。
このときから本格的に大規模空襲が行われるようになる。千葉では空襲に遭わなかったものの、連日空襲に向かうB29が通り過ぎていた。
5月、2度目の召集。市川の高射砲第115連隊の照空中隊計算班へ。各地の電波探知機の情報から敵の現在地を計算する任務。
7月、部隊はいったん青森に移動、すぐに仙台へ。
7月9日、仙台駅へ到着。仙台駅の倉庫で待機。
真夜中を回り7月10日になって間もなく、仙台空襲が始まる。
空襲を知らせる号令を受け、貨物ホームに走ると、弾が屋根を突き破ってくる。線路に伏せたが、右膝に被弾。戦友の助けでその場を逃れ、夜が明けて陸軍病院で切断手術。
激化する空襲を避け、病院は米沢へ、さらに山の中の小野川温泉へ移動。
8月15日、入院中に終戦。
病院が閉鎖されることになり、実家に帰った。義足を得て復職したが、片足では苦労の連続だった。
1957(昭和32)年、鉄道事故障害者との出会いをきっかけに、心身障害者児福祉会を設立。公的支援が不十分な障害者といっしょに、福祉の発展のための運動を続ける。

2005年、千葉県野田市で「野田市戦争かたりべの会」を結成。2006年からほぼ毎月、戦争を語る会を開催してこられました。今も代表を務められており、「平和のつどい」をはじめ野田市の平和活動の中心でいらっしゃいます。(かたりべの会の活動は、ほぼ保存の会と期間が重なっていることになります。)
2年前から、日比谷証言集会実行委員長を務めた板橋君が定期的に野田に行き、このかたりべの会の方々の証言を収録させていただくようになりました。そのきっかけをくださったのも、もちろん日佐戸さんです。「戦場体験史料館・電子版」の設立記念式典にもご参加いただき、それから保存の会の総会にはいつも来てくださっています。
保存の会では、昨年から、野田市の平和のつどいに、野田市戦争かたりべの会で今も活動される16名の方の証言パネルを出展させていただいています。

時に壇上のボランティアの助けを借りながらも、両手に持った杖を支えに、しっかりと壇上に進まれました。
当日のお話は、仙台空襲を告げる号令からスタート。さすがかたりべの会を開催されてきただけあって、大変臨場感のあるお話でした。
いち早く原稿をまとめてこられました。それから傷痍軍人となってからの苦難についての具体的な描写を入れて当日に臨まれました。
民間人の空襲被害者に補償がなかったことに心を痛めていらっしゃいました。

保存の会公式twitterに日佐戸さんの体験についてのつぶやきがあります。
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