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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者16人目は、終戦後八路軍との戦闘で負傷、中島五郎さんです。

中島五郎さん

中島五郎さん

スクリーンの画像です。
中島五郎さん


1945(昭和20)年3月、高崎の東部38部隊に入隊
山東省諸城市の独立歩兵第63大隊で初年兵教育を受ける。40日間で教育は終了。擲弾筒分隊に配属され、第一線に出るようになる。
山東省は八路軍の進出がめざましく、夜襲を受けることが多かった。
近辺の村に八路軍討伐に出たが、いつもついさっきまで人のいたような気配があるのにもぬけの殻で、食糧になるものを持ち帰っていた。
5月から、山東半島の南岸で対米陣地構築の秀麗作戦に参加。小隊単位で標高500~600mの山頂で塹壕掘り。隣りの山の部隊が全滅したこともあった。
6月、甲種幹部候補生は青島教育隊に入る事になり、山を下りた。
8月20日に北京の予備士官学校に入隊する予定だったが、その前に終戦。
まったく負けた気もしないまま原隊復帰。蒋介石軍の指揮下で、武装したまま塔耳堡の駅で鉄道警備に就く。
12月8日夜半、衛兵指令として夜間巡察を終えて衛兵所へ戻ったとき、八路軍の夜襲が始まる。
応戦中、衛兵指令は本隊に連絡を取るよう命ぜられ、衛兵所の受話器を取った瞬間手榴弾が爆発。左腕と右足を負傷。
脱出する生き残りの隊員についていくことができず、這うように駅舎に入り隅にうずくまっているところに八路軍の兵隊が入ってきた。突きつけられた銃剣の先を払っているところに、八路軍の上官が入って来て、殺さず担架で運ぶように指示したので、そのまま近くの村の救護所に運ばれた。
その後野戦病院に移され手術を受けたが、足の負傷がもとで足の指が凍傷にかかっており、切断することになった。丁寧に麻酔をしての手術だった。
1946(昭和21)年3月、帰国の手続きをするということで安東に渡り、日僑民主連盟安東支部へ。受付業務を手伝いながら帰国を待ったが帰国船の手配が進まない。受付に帰国の相談に来ていた人たちは密航船で帰国を試みているという。
8月、結局密航船で仁川港に渡り、米占領軍の指示に従い、9月末、釜山から佐世保に渡ることが出来た。
10月8日、帰郷。

軍人になるために陸軍士官学校を受験しており、徴兵されて兵隊になった人たちとは違う思いを持たれていたようです。
日僑民主連盟にいた間に借りて読んだ本で、軍国教育でたたきこんだ歴史観が覆る経験をされたとのこと。
2004(平成16)年、塔耳堡の戦闘で亡くなった約40名の戦友の慰霊で現地へ。
そうしたつながりもあって、日中友好のための活動を続けられています。

日比谷証言集会では、八路軍との戦闘で負傷したときのことにかなり特化してお話しいただきました。
ジュネーブ条約にのっとった捕虜に対する待遇等、感謝の言葉でしめくくられました。
控室では、同じく中国で八路軍と戦闘をされていた本橋誠さんと並んで座っていらっしゃったようです。
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