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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
信州・北陸チーム番外編(長野)2日目の追加報告です。
先日、保存の会事務局長の土産話から書き起こした宮原さんの証言の詳細が、実際に聞き取りに参加したメンバーから上がってきました。メーリングリストからの転載となります。

◆◆◆

長野の九月十九日の報告をさせていただきます。
当日は体験者の宮原さんが最寄り駅まで車で迎えに来てくださり、忘れられないドライブを経験できました。
九年六か月に渡る軍歴の中で他部隊への移動が多く、証言もいつどこでの話なのかごちゃごちゃになっている所もあったので、一部記録と照らし合わせて書きます。

◎宮原義彦さん(93)
大正六年生まれ

小作百姓の家に生まれる。家は土地を持っておらず本当に貧しかった。そんなわけで昭和十一年二月七日、騎兵第一旅団機関銃隊(二個中隊)に志願兵として入隊。二・二六事件の翌日にハイラル(海拉爾)地区に送られ、国境警備任務に就く。マイナス40~56℃の寒さで、寒いどころか痛かった。

昭和十三年、徐州作戦が終わったころ、開封(現河南省開封市:徐州の東)付近で暴れまわる。
【※記録によると、同年六月二十一日に騎兵集団に動員命令が下り、七月十一日北支那方面軍に編合。七~八月にかけ、ハイラルから河南省帰徳(開封の東:現河南省商丘市)まで2500キロを鉄道で移動している。】

昭和十三年九月六日、軍曹に進級。

昭和十五年、蒙疆(もうきょう)の包頭(現内モンゴル自治区)、で一年間八路軍と戦う。八路軍は強かった。
【※たぶん十五年でなく十四年。記録によると騎兵第一旅団は昭和十三年、駐蒙軍の戦闘序列に編入され、十四年の一~二月に鉄道で包頭に移動している。また敵は蒋介石軍だったらしい。】

機関銃隊は重機関銃を馬に積んで移動し、戦いがあれば馬から下ろして
組み立てる。重機関銃は口径の小さい三年式重機関銃から、口径が大きく二キロも射程がある九二式重機関銃に変わったが、戦いは百メートルくらいの間で行われるので、こんなバカなことはないと思った。九二式は重い。

(包頭にいた時?)川(淮河?)を警備するための河上戦隊にいた。
敵が来たら船で移動し、上陸して戦っていた。
【※この河上戦隊というのが調べても分からないので知っている方は情報ください。どうも騎兵部隊がそのまま一時的に舟艇機動部隊になっていたみたいです。しかもディーゼル船の進水式までやっていて、それなりの規模だったようです。他にもプロペラ船や折りたたみ舟艇の写真がありました。】
ここでは鹵獲したドイツ製マクシム重機関銃(中国に輸出されたMG08)を使っていた。

昭和十四年の十月ごろ、北京のすぐそばの豊台(現北京市豊台区)の軍馬補充部に移動。騎兵第一旅団の機械化に伴って必要のなくなった1000~3000頭の馬の管理にあたる。豊台は蒸気機関車が使う大きな給水塔があった。(今もあるんだとか。)
【※記録では十四年十二月、機械化によって騎兵第一旅団も再編成され、旅団機関銃隊は廃止される(新たに機関銃中隊新設)。各隊から宰領者をだして、いらなくなった馬を北京郊外の豊台にある方面軍の補充馬廠に送り届けている。】

補充馬廠にいる間は炊事班長も務めた。炊事班には兵隊三・四人に中国人の補助が五・六人いた。炊事班長は毎日の献立、カロリー計算を行わなければならず献立を考えるのに苦労した。肉などは貨物廠から届けられるが、野菜などは現地の人から金を払って買っていた。休日には仲良くなった支那人の家まで遊びに行ったりしていた。

昭和十五年一月、いらなくなった馬を仏印国境にいる山砲部隊に送り届けることになった。馬は1600頭いて、400頭ずつ四個班に分けられた。一個班は日本の兵士25人と現地で雇った25人からなっていた。宮原さんは、班内の将校から輸送指揮官に命じられる。
まず華北交通(満鉄のグループ会社で日本の国策企業)の鉄道を利用して港へ移動。中国人が運転していた。【※華北交通は従業員の七割が現地人】
駅を出たとたんに汽車が止まる。何事かと思ってみたら車とぶつかって事故を起こしていた。車には日本軍の将校が二人乗っていたが即死だった。
青島から5000トンくらいの貨物船御岳丸に乗って仏印まで移動。馬を船を載せるのは非常に大変。クレーンで釣り上げるが馬は暴れる。その後の世話も大変。400頭の馬に水をやるのだけでも大変。本当に飲まず食わずで世話にあたった。
【※記録によると、騎兵第一旅団の若い馬は騎兵第四旅団(昭和二十年三月から四月の老河口作戦で最後の騎兵突撃を行った部隊)の更新にあてられたみたいです。すると山砲の部隊は騎砲兵第四連隊?(
四一式山砲ではなく、名前のよく似た三八式野砲を切り詰めた四一騎砲を装備)でもこの部隊は北支と中支で仏印にはいない・・・。】

到着した目的地は遠浅の海で、貨物船が岸につけなかった。なので海上で一度馬を大発に下ろしてから陸揚げしなければならなかった。大発は当然揺れるので、クレーンで下ろすのはとても難しい。外れて海に落とすこともあった。(おとしたらまた引き上げる。)大発には十頭しか乗らない。最後のほうになると狭くなり、誤って馬の上に馬を落とす事故もあった。苦労して400頭の最後の馬を運び、陸地についてみたら馬が陸揚げした馬のほとんどがいなくなっていた。全員海上で馬の積み込み作業にあたっており、陸揚げ先に監視員を配置していなかったからであった。いなくなった馬を見つけ出すのに一週間かかった。

海上の移動も大変だが陸地の移動も大変で、400頭が列になって動くのでとても把握しきれない。行方不明になる馬がいたが、その時は現地の中国人が捜索を手伝ってくれた。現地の馬と軍馬は見た目が全然違うので、すぐに見分けがついた。さらに日本の兵隊が馬を盗んで行くことがあった。明らかに運んできた馬に乗っていた将校に文句を言っても「知らない」といって取り合ってくれず、泣き寝入りするしかなかった。

こうして苦労して目的地に着いた時400頭の内27頭がいなくなっていた。
現地部隊に馬の領収証をもらいにいったが、「400頭いないので渡せない」といわれる。困ったので獣医に相談に行ったら、27頭の診断書を作り輸送中に死んだことにしてくれた。加藤中尉率いる別の輸送班では400頭のうち100頭を輸送中に失い、加藤中尉はその罰のためか後に内地に飛ばされた。

こうしてなんとか輸送任務を終える。この馬の輸送は戦闘より何より辛かった。この時の苦労のために、帰途で脚気になって倒れる。そして上海の陸軍病院に入院。その後北京の補充馬廠に戻るが、しばらく入退院を繰り返す。婦長さんに好かれて困った。

昭和十九年一月、山西省太原(山西省の省都)の太原飛行場(ダイドウにも聞こえたので、北にある同省大同の大同飛行場かも)にあった第四十八航空地区司令部に転属。この部隊は飛行場大隊のような部隊で、宮原さんは経理室に勤務。遺品の保管をしていた(?)。ここの飛行場には駐屯する航空部隊はおらず、たまに飛行機が飛んでくるくらいだった。
当時、七年軍隊に勤めた者には一カ月の休暇が与えられた。ちょうどそれにあたったので休暇を使って内地の自宅まで帰った。

昭和十九年六月一日、准尉に進級。

部隊の山本副官と仲良くなった。内地に帰りたいといったら転属させてくれた。

昭和二十年六月五日、第一航空軍司令部参謀付けになり、東京まで移動。靴下に米を入れて持っていったが、途中で尽きてしまって腹が減りっぱなしだったので実家に立ち寄る。その後、夜十時に辰野をでて新宿に向かったが、甲府が爆撃されて止まってしまった。翌日新宿につく。ベンチで朝まで寝て、吉祥寺にあった第一航空軍司令部にようやくたどり着く。(今成蹊大学があるところにあった。)そこで文書班長として働く。司令部にくる手紙や文書を処理するのだが、一日に山ほどくるので骨が折れた。文書班には下士官と軍属約15人で構成されていた。
ここで終戦をむかえる。文書の焼却など、残務処理に当たった後に復員。


参考資料「昭和史に刻むわが軍歴・騎兵第一旅団、機動歩兵第三聯隊」
・騎兵第十四連隊会

以上が聞き取りの大まかな内容ですが、十年近く軍隊にいたので聞けばまだまだ新しい証言が出てくるはずです。もっと勉強してから行くべきでした。 宮原さんは当時私物のカメラをもっていて、今もアルバム三冊分の大変貴重な写真を持っていました。偽装網を使ってスッポンを捕まえようとしているところ(結局失敗)や、たくさんの馬、敵の遺棄兵器など、証言と合わせて見てみると一層臨場感があります。スキャンする方法も考えたいな、と思う取材行でした。

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○信州・北陸チーム番外編(長野)の様子9月19日(日)その1
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