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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者15人目は、中国中南部を3千km行軍、藤原重人さんです。

藤原重人さん

藤原重人さん

スクリーンの画像です。
藤原重人さん

1944(昭和19)年9月1日、第27師団(極2906)第3連隊入営。最後の初年兵。
10月18日に九江到着。九江野戦補充教育隊で3ヶ月間初年兵教育を受ける。
1945(昭和20)年、初年兵教育の間に、2週間ほど、蒋介石の屋敷の警備にあたる。このとき、身の回りの世話などをする中国人がいて、仕事は楽だった。男性2人は「モモタロー」「ライオン」、女性2人は「花子」「梅子」と呼ばれていた。これは、ここに入る日本人の間で引き継がれていた。
2月16日、原隊追及の命令が下る。猛吹雪の中、行軍が始まった。それから7月までの間に九江から武昌、長沙、衝陽、楽昌までの約3千キロ歩く。常に食糧不足で、歩いている間に3分の1が脱落。
初年兵で先兵をやっているときに敵襲を受け、同年兵8名みんな死亡。服や靴は脱がされ、体中に棒が突っ込まれていた。大八車の陰に隠れて生き残り、それを引っ張って自分の部隊に戻った。
戦闘らしい戦闘はこの1回だけ。こちらが撃つと何倍も撃ち返されて勝負にならないので撃たないようにしていた。
途中の村で、食糧や人手を徴発。野良仕事をしている民間人を捕え、苦力(クーリー)として荷物を運搬させる。自分に同年代の苦力が2人ついたので、蒋介石の屋敷のときと同じように「モモタロー」「ライオン」と呼んだ。
戦況の悪化とともに重慶作戦が放棄され、本隊が解散。第131師団独立歩兵第596大隊に転属し、楽昌で警備につく。
7月からは、「粛清作戦」ということで、後退が始まる。
8月18日、後退の途中、終戦が口頭で伝えられた。
8月末頃、マラリアで倒れ、部隊に置いていかれるが、苦力の介抱のおかげで回復し、追いつくことができた。
10月15日頃 安慶捕虜集中営に収容される。収容した国民党軍が八路軍に対抗するためか、武装解除はされなかった。収容されていた間に、作業を手伝うようになった。
1946(昭和21)年3月21日 佐世保に復員。

珍しい体験や戦闘体験もありますが、持ち時間が少ないとテーマを絞らなければならないのをよくご存じで、当日のお話は、主に行軍と徴発のこと。
日比谷証言集会には第2回にも登壇され、やはり徴発のことを中心に証言されていました。
実行委員会にも何度か来ていただいており、本番2週間前のリハーサルに参加されました。当日まで、原稿に手を入れていらっしゃったようです。
百人展は皆勤賞(全会場参加)、キャラバンにもスタッフ側で参加してくださったこともあり、いてくださると安心感が違います。むしろ、半分スタッフとして壇上にいていただいたようなかんじです。
8月15日の朝日新聞に登場されました。広報にもひと役買っていただいた面があります。
無茶なお願いをしても、いつも「いいよいいよ」と引き受けてくださるもので、遠慮なく乗っかってしまっていまい、いつもお世話になっています。
戦時中の品は、ご実家を引き払うときになくしてしまわれたそうで、「これだけなんだよね」とおっしゃる行軍の道筋を描かれたお手製の中国地図を専用の筒(これもお手製で、指し棒までしこんであります)で携えて、保存の会の行くところ全国にご登場くださっています。

「戦場体験史料館・電子版」に、藤原さんの証言概要が掲載されている他、保存の会公式twitterでも紹介しています。
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