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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
登壇者14人目は、国民学校のときに沖縄戦を体験、大嶺初子さんです。

大嶺初子さん

大嶺初子さん

スクリーンの画像です。
大嶺初子さん

1944(昭和19)年、国民学校4年生になったころ、沖縄守備隊第32軍創設。沖縄に、軍隊がやってきました。
各家庭の一番いい部屋には、兵隊が寝泊まりするようになります。最初は第9師団がいました。この部隊とはわりと交流があり、子供達は一緒に遊んでもらったりしていたそうです。国民学校の生徒も、一緒に壕掘り等していました。
10月10日、初めての大空襲。最初は友軍機がすごい演習をしていると思っていたら、星のマークが見えて敵機とわかり騒然。那覇のほうが燃えているのが見えました。いわゆる10・10空襲でした。
大嶺さんのご実家は今の県平和祈念公園に近い辺りだったので、この空襲そのもので大きな被害は受けませんでした。
第9師団の台湾抽出に伴って、第32軍では次々と配置換えが行われ、その結果各地域、家庭に入る部隊も変わることになります。第9師団の後に、独立混成第44旅団、それからさらに第24師団が入ってきますが、もうあまり兵隊と交流することもなくなります。
1945(昭和20)年4月、国民学校5年生になるころには、南部のほうも空襲や艦砲射撃を受けるようになってきました。
それで、家を出て、防空壕や墓を点々と逃げ回るようになりました。
最初入っていた亀甲墓を日本軍に明け渡すことになりますが、日本兵との関係が希薄になっていたのも影響していたかもしれません。
次に、畳3畳ほどのお墓に移りました。家族7人と学校の校長先生夫妻がぎゅうぎゅうで入っていました。そこへ県の病院に勤務していた姉が友達3人と一緒に帰ってきますが、入る事ができず去って行き、その後戦死。去って行くとき、持っていた手榴弾の1つを父に渡しました。
首里城も陥落した6月、南部が主戦場となり、米軍の姿も見えるようになってきたので、さらに南へ逃げることになります。首里方面から逃げて来た人も地元の人も一緒くたに逃げ回る混乱状態、いたるところで人が死んでいるような惨状の中で逃げ回りました。
6月7日、沖縄本島最南端の喜屋武岬に来て、近くにあった水タンクの中で一夜を明かし、もう逃げられないからここで死のう、と父が手榴弾の信管を抜いたところで米兵に発見され、収容されました。

当日は、沖縄県からのご参加です。
原稿を見ると、4分の持ち時間、1000文字の中に、沖縄戦の初めから終わりまでを詰め込んでこられていてびっくりしたのですが。
前の人が証言しているのを見ているうちはそんなに緊張もしていなかったのに、壇上に立った瞬間頭の中が真っ白になってしまって混乱されたということで、2倍近い時間かけての証言となりました。
沖縄は特に基地問題等で相当注目されている時でもあり、言うべきと思ったことは全部言う、という気持ちになっていらっしゃったようにも見えました。
結果熱弁となり、NHKニュースに全国版で登場、沖縄に戻るといろいろな人から「見たよ」と言われたそうです。
登壇がきっかけで、都内の学校から修学旅行のときの講師を頼まれることになりました。これについては、実は後日談がありますが、それはまたの機会に。

沖縄キャラバンの時には、体験者の方の紹介から当日の送迎まで、いろいろと助けてくださっています。
退職教職員会でも世話役のような立場でいらっしゃるようで、まだまだ私たちの知らないネットワークをお持ちだと思われます。
ブログ係が沖縄キャラバンで最初にお話を伺ったのが大嶺先生でした。というわけで、保存の会公式twitterにつぶやきがあります。
ご自身は語り部というかんじではなく、もっぱら語り部の方のサポートをしていらっしゃるようですが、日比谷をきっかけに講演も増えるのかもしれません。
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