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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い」登壇者特集です。
第1部登壇順に、登壇者の方を紹介しつつ、日比谷証言集会を振り返ります。
いよいよ本来の意味での登壇者の方々に入ります。
トップバッターはシベリア抑留体験者の猪熊得郎さんです。

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以下はスクリーンの画像です。
pawapo-inokuma.jpg 若き日の猪熊さん

司会のところでも書きましたが、猪熊得郎さんは過去3回の日比谷証言集会では司会を務めてくださっていました。
(株)ユニモトの映画『語らずに死ねるか』の主演格ともなっておられるように、「語らずに死ねるか」という言葉を最も頻繁に使われている方でしょう。

猪熊さんの略歴です。
●1944年(昭和19年)
 旧制中学3年の時に15歳で陸軍特別幹部候補生に志願
●同年4月8日、水戸陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊。陸軍特別幹部候補生陸軍一等兵となる。
 同年12月、教育課程修了。
●1945年(昭和20年)2月、日立常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配属
  同年2月16、17日、米海軍戦闘機の空襲を受ける。
●同年4月、関東軍の第二航空軍第22対空無線隊(中国の新京)に転属
 新京~吉林省の敦化飛行場にて陽動無線の任務に就く。新京~敦化~新京~8月15日 公主嶺飛行場に到着。
● 8月17日、2日遅れてようやく停戦命令を傍受。
  ソ連軍の侵攻、直前八路軍と満州軍の反乱、そして日本軍内の混乱を体験。
▼ 武装解除、ソ連軍の管理下入り、9月17日、シベリア鉄道でアムール州シワキ収容所で2年、その後ポシエット~クラスキノ~ウオロシーロフ~ナホトカと沿海州の収容所に移動。
●1947年(昭和22年)11月28日、ナホトカを出航。12月2日に舞鶴に着。
父親は前年に亡くなり、兄は「回天特攻隊員(人間魚雷)」白龍隊員として戦死。
出撃前のお兄さんと会って、お兄さんは海軍式の、猪熊さんは陸軍式の敬礼をして別れた、というエピソードがあります。
シベリアに抑留される過程でアムール川を渡ったのが、17歳の誕生日のことでした。

当日は、全体を通した内容をお話しいただきました。
水戸東飛行場で空襲で四散した同年兵の死体を確認する様子や、シベリアで抑留された仲間が亡くなっていく様子・・・
4分間という時間制限がないときには、敗戦直後の混乱の様子やシベリア抑留中死んだ仲間や危篤になった仲間の持ち物を争うように分けたこと等もお話しになります。

3年ほど前脳梗塞で倒れられてから、以前のように保存の会や様々な集まりに参加することは難しくなられましたが、しっかりとした口調は衰えていないようです。
8月23日のシベリアデーの式典でもご挨拶されています。
壇上につきそってくださった息子さんはじめ、ご家族がいらっしゃっていました。

保存の会発足のころから長く支えてきていただいており、当日は締めの呼びかけも務めていただきました。

ご自身で、ブログ「少年兵兄弟の無念」を書かれています。
http://shounen-hei.blogspot.jp/
猪熊さんの証言概要は「戦場体験史料館・電子版」に掲載されています。併せてご覧いただければと思います。
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