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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ひきつづき、9月20日(日・祝)、帰還したばかりの信州・北陸チーム番外編メンバーに聞いた話です。
その当日9月20日(日・祝)の聞き取りの内容です。雑談の形で聞いた内容ですので、年代などもよくわかりません。
詳細は、実際聞き取りを行ったメンバーからのレポートをお待ちください。

◆◆◆

◎山野井広一さん 92歳

○戦時中は、兵士ではなく役人の立場で満州へ。
関東軍に燃料(アルコール)を支給する部署に所属。自分のハンコで支給する燃料の量を多少動かすことができたため、軍から歓待されたこともあった。
○1945(昭和20)年8月15日、会議に出かけて帰る途中で終戦。集合がかかったので、背広姿のまま出向いた。
隊長が「みんなで日本に帰ろう」という話をしていたが、実はそのままシベリアに送られることになる。このときの話は忘れることができない。
海が見えたので日本海だと思って喜んだが、バイカル湖だった。正確には、タイシェットではなく、名もなき場所に抑留されていた。
抑留された先で、軍服はソ連軍に取り上げられたが、背広は私物だからということで、自分で管理できた。隠しておいて、ときどき地元の住民のところへ持っていき、食料と交換して飢えをしのいだ。
○ロシア語を書くことができたので、5か月ほどたったころ、事務作業に回される。日本人の名前をロシア語表記にする作業等を行った。仕事をしている間に、ロシア語を話すこともできるようになっていった。この仕事は肉体労働に比べればはるかに楽で助かったが、ロシア語ができたことがもとで、秘密警察にスパイ容疑をかけられることになった。
・毎日同じことを聞かれ、少しでも食い違うと「前に言ったことと違う。うそつきだ」などと責められる日々が続き、自殺を考えるほど精神的に追い詰められた。
・あまりにも参っているのを見かねたのか、仕事場を仕切っていたソ連の将校が、別の地域に配置換えをしてくれた。別の収容所に測量技術者を送ることになっており、その通訳ということでついていった。
○行った先では、測量技術者と2人で、ソ連の女性囚人等の労働の成果を測る仕事を行った。これは、傾斜地を平にする作業の前後の状況を調べるもの。労働の成果が上がっていれば、それは監督していたソ連兵たちの成果ともなるので、ソ連兵からオマケしてほしいと頼まれた。そういう不正はできないとつっぱねたが、いろいろとよくしてくれるのでオマケしたこともある。
この時期は、抑留中といっても、それほど苦労はせず、帰国の日を迎えることができた。

役人になったころ、山野井という名字が、珍しい名字にもかかわらず当時の上官と同じだったのが縁で人脈が広がった、というエピソードもあったようです。
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