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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
全国キャラバン「夏の陣」本陣は一旦終了しています。
が、メーリングリストに流れていながら期間中に紹介しきれなかった証言がありましたので、それを少しずつ公開したいと思います。
今週末、信州・北陸チーム番外編が出るということで、長野のものからいってみます。
初日3つの班に分かれていたうちの1班、佐久市協和収録会で伺ったお話です。
5~6年ぶりの運転にドキドキしながらレンタカーを走らせた保存の会Sさんからの、補足説明つきレポートです。

◆◆◆

◎柳沢確雄(やなぎさわ かくお)さん
生年月日:1928(昭和3)年3月5日(本籍地:長野県)
所属:満蒙開拓青少年義勇軍(松田中隊)
所在地:満州黒河省嫩江県八洲義勇隊訓練所
特技:獣医

◎1942(昭和17)年3月
満蒙開拓青少年義勇軍に志願 内原訓練所(茨城県東茨城郡内原町)に入所。
※ 本人は満蒙開拓へ志願したいとあまり思っていなかったが、教師から印鑑を盗んで来るように言われ、志願書を書かされ印を押させられた。それから教師はこれを両親に見せ「両親に黙って印鑑を押してまで息子さんは満蒙開拓青少年義勇軍に志願したいと強く思っている。判が押されているのでもう取り消しは出来ない。」と言い、両親は反対することも出来ないまま満蒙開拓青少年義勇軍行きが決定した。
※困った母親が実家に相談しに行くと「そんなものに息子を行かせるなんてお前は母親か、人間じゃない。」と非難された。
※教師(学校)は満蒙開拓青少年義勇軍への入所者の数を割り当てられていたらしく、教師は自身の教え子から志願者を多く出すことによって評価が上がり給料にも反映していたのではないかと思うが本当のところは確認できていない。
※戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。軍事的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。
◎1942(昭和17)年5月
二ヶ月間の訓練を受け、満州黒河省嫩江県八洲義勇隊訓練所に入所。
◎1942(昭和17)~1945(昭和20)年
三年間、軍事教練と獣医特技生として訓練を受ける。
※ 家畜(牛、豚)、馬(農耕用)などの衛生に関する勉強を実習を交えながら習得する。
試験が多く、インク瓶で手製のランプを作って夜中まで勉強。
※豚の解剖をおこなう際、豚を殺すように指示された。
◎1945(昭和20)年3月
訓練修了
◎1945(昭和20)年5月
第一次八洲開拓団に合併 同地に入植する。
◎1945(昭和20)年8月18日
関東軍の命により武装して嫩江陸軍部隊に入る通知があり、八洲駅に集結するが列車がなく引き揚げ終戦を迎える
◎1945(昭和20)年8月22日頃
ソ連軍が進入、全員が捕虜になり、嫩江義勇隊大訓練所の物資運搬の使役。

1945(昭和20)年10月
嫩江部隊兵舎に連行収容。

◎1945(昭和20)年12月
北安経由で黒河に到着。

◎1945(昭和20)年12月末日
ソ連領ブラゴヴェシチェンスクに収容。
年齢身体検査の結果捕虜として不適格との理由で北安収容所に入る。
再度、年齢身体検査があり、連行される者又は一般難民と二組に分かれる。
◎1946(昭和21)年
新京難民収容所収容ソ連軍の使役に従事。

◎1946(昭和21)年2月
友人と二人でハルピンの親戚を頼って北上。
花園難民収容所で八洲の同志を再会。
収容所では発疹チフスが大流行し、多くの犠牲者が出た中を切り抜ける。
ここで衛生教育を受けた経験が功を奏した。
注射とリンゲル、強心剤等が手に入り、病人(ロシア兵も含む)を治療する事が出来た。
注射針が鈍ってきたらコンクリートで研ぎ、煮炊きしている鍋の中に放り込んで煮沸消毒し、白酒に浸けるなどの消毒を怠らなかったおかげで感染症は全く無く済んだ。

※また、時期は不明だか、暖を取るための燃料を確保するため、青年宿舎を壊したり、鉄道の枕木(適度に油がのっておりよく燃えた)を盗むなどした。しかし中国兵に捕まり、白菊分所2日間換算され暴行を受けたあげく、銃殺刑になるところを火事のため、延期になる。
このことを知った日本人会の会長が「この子は兵ではない開拓民なので助けてくれ」との説得によって解放されたこともあった。
※ 北上する際は石炭集積貨車に潜り込んだ。
※ 花園収容所の環境は悪く、まんじゅう3コで子供を中国人に渡す場面を目撃。
※花園収容所は元は花園小学校(1935年10月設立)の建物。更にさかのぼると昔ホルワット中学校でその後ホルワット・ロシア鉄道教習所に使われていたが土地建物の引渡しを受けて花園小学校となる。
建物は大小部屋数が114室もあり、全満一の豪華なもので、新市街方面即ち南崗・馬家溝や鉄路総局中心の厖大な社宅の児童を収容するのに最適であったといわれる。
終戦後は収容所となり、開拓団員や満蒙開拓青少年義勇軍や関東軍だった人、満鉄関係の人など満州全土から日本人が集められていた。

◎1946(昭和21)年3月
当時国民党軍と八路軍との内戦があり、三日分の給金が出るというので弾薬・負傷兵を運ぶ仕事を受けるが、前線で非常に危なく、これでは死ぬと思って負傷兵をそのままにコーリャン畑に逃げる。
以降はハルピンの十六道街の精米所で八洲の仲間3人と脱走兵1人と共に働く。
※休みの日曜日に近くの公園で人民裁判を目撃。

◎1946(昭和21)年9月
引き揚げ列車に乗る50人単位で貨車の中には一般人や女性もいたが食料は無いに等しかった。
※ロシア兵に「万年筆、時計、そして女2人を出せ」と言われる。
東京出身の女性と九州出身の女性(二人ともここに来るまでに子供を亡くしていた)の2人が名乗りを出てロシア兵の元へ行ってしまう。
4日後、九州出身の女性のみが帰ってくる。何も言わず、川に向って行くのでもしや自殺するかもしれないと思い、後を着いて行く。女性は川で体を洗い、葦を何本か引き抜き、「こんちくしょう!」と叫びながら川面を叩いている姿をただ見守るしかできなくて、初めて戦争に負けたという実感と情けない、悔しいと思う。もう一人の女性は戻ってこなかった。

◎1946(昭和21)年10月
吉林を経由してコロ島より引き揚げ船に乗船~帰国。
3日ほど検疫検査等のため止まる。

◎1946(昭和21)年10月17日帰郷。
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