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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
仙台キャラバンが、2014年10月13日(月・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎佐藤寿助さん(89)
収録日:2014(平成26)年10月13日
所属:鉄道第2連隊(線5803?)
戦地:満州(ハルピン)~朝鮮(新義州)~内地(鹿児島・熊本)
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○1924(大正13)年10月28日、山形県生まれ。

・実家は雑貨商。
・小学校卒業後、逓信省の学校に入って通信士になるための勉強をした。その学校が終わってから秋田県男鹿市の郵便局に配属になった。

○1941(昭和16)年12月8日、大東亜戦争開戦

・郵便局の宿明けで玄関を掃除していた時に、ラジオで戦争がはじまったというニュースを聞いた。「やったあ」ということで喜んだ。みんなそういう時代だった。必ず日本は勝つというふうに信じ切っていた。
・徴兵検査は乙種合格だった。だけどもだんだん戦争が激しくなってきたので、甲種合格に編入になった。

○1944(昭和19)年10月、千葉県津田沼の鉄道第二連隊に入営。

・津田沼まで田舎者が一人でよく行ったなあと今でも思う。
・入営したその晩、お祝いだから赤飯が出た。「お、軍隊もなかなかあれだなあ」と思ったら、これは赤飯じゃなくて高粱飯だった。ちょうどあずきご飯のようなご飯で、うまくはなかった。
・その晩、夜中には脱走兵が出て非常呼集がかかった。その時「軍隊ってひどいとこだなあ」と思った。脱走兵がいたらしくて、だからもうラッパでみんなちゃーんと起きて、外に出て待機した。
・津田沼に三日ほどいて汽車に乗せられた。どこに行くか分からなかった。そして下関に行って、釜山に渡って、そして着いたところが、満州のハルピンだった。そこから本格的な兵隊の仕事がはじまった。
・とにかく満州の兵隊はいわゆる関東軍といわれたから、とっても軍律の厳しい、軍隊の生活態度も厳しいところだった。だから団体精神を養うわけだから、5人なら5人の班の中で、誰か悪い事をすれば必ずビンタ。ビンタは平手でなはなく、革のスリッパや握りこぶしだから、目から火が飛ぶ。毎日毎日そういう連続だった。
・班長付きだったから班長には可愛がられた。殴ったりするのは班長より、もっと下の先輩の兵隊。
・まず朝起きるのが5時半か6時ごろ。それから点呼があって、そして掃除したりなんかして、ご飯。ご飯も鍋釜で運んできて、そしてゆっくり食べるとビンタがくるから呑み込んでいた。便所でもご飯でもなんでも、なんでも早くしなくちゃなんない、そういう生活。
・夜中に非常呼集がかかると完全軍装しなくちゃならない。わずかな時間の間にちゃんと軍服を着て、そして背嚢に巻脚絆をはいて、そして外に何分で外に出る。満州は寒い。そして空に煌々と月が出ている。「あの月は故郷でもおんなじ月が出てるんだ」と思ったりした。ホームシックにかかるというか、だけどそういうことを考えたのでは軍隊は勤まらないと思って、とにかく天皇陛下のために一生懸命頑張るというふうに自分で思わないと、生きていかれなかった。
・軍隊ボケというものがあって、生活になじまなくてボケた人もいた。だからそれじゃだめだと思って、とにかく天皇陛下のためにやらなくちゃいけないということでどんな苦しい事でもやりとげた。あまり考えているとボケてしまう。ボケてしまってひどい目にあう兵隊さんがいくらもいた。
・満州だから寒くて、ハルピンあたりでは零下三十度ぐらいまでいく。衛兵に立つと、とにかく寒いから凍傷になる。凍傷になると鼻だの耳が真白くなる。真白くなって、そのまま温かい部屋に入ると腐っちゃう。だから必ず耳に鼻をこすって、血のまわりをよくしてから温かい内務班に入った。ところが軍隊生活が耐えられない兵隊さんがいて、わざと腐らせて病気になって帰されるという人もいた。
・夜はご飯を食べてから、軍人勅諭とかいろいろ昔の軍隊の長い文章をみな暗記しなきゃいけない。みんな暗誦させられて、暗誦できない人はぶん殴られる。それは大変だった。
・鉄道兵っていうのは広い意味では工兵隊。仕事はなにかっていうと鉄道を敷設する、枕木を敷いてレールを敷いて汽車通れるような状態を作るのが鉄道隊の仕事の基本だった。
・通信の仕事で鉛筆しか持ったことない人間だったが、枕木は米一俵の重さがある。はじめは持てそうもなかった。だけども軍隊で、あんまり頭をつかわないから、ご飯を食べたりするからだんだんだんだん鍛えられて丈夫になっていって、そしてその米一俵ぐらいの枕木を担げるようになった。一番軽いのが枕木で、それも何日かたった暁には一人でちゃんと担げるようになる。
・レールはものすごく重い。一本のレールをだいたい8人くらいで、前4人、後ろ4人で、ちゃんと担ぐものを作って、それで運んだりした。今じゃ機械だけども、そのころはみんな手作業だから、とにかく力仕事、土建業。そういう仕事だった。
・一番基本は鉄道を敷く仕事で、あとは機関車を動かしたりあるいはトラックを運転したり通信をしたりといろいろ分れていた。
・犬釘といって線路を押さえる釘がある、犬釘って言ったんだけど、それをまさかりで叩いた。
・満州でひどかったのは洗濯。洗濯する時間はなかった。だから、夜の飯を食べてからとか、朝飯を食べてから、わずかの時間を見て洗濯する。ところがハルピンは寒いから、水が凍っていた。氷水を割りながら、自分と自分の班長のものを洗濯しなくちゃいけない。洗濯も大変でしたよ。冷たいのなんのって言ってらんねえんだ。
・休みの時はウサギ狩りをすることもあった。
・真赤な太陽が地平線に沈んでいく、歌にあるけどほんとに山がないから平野に沈んでいく。真赤な真赤な大きな夕陽が。あれはなんとも言えなかった。やっぱり広い。山がないわけじゃないけどほとんどない。だから汽車やなんかに乗って、山が見えると、「あ、海が見えた」と同じような感覚で、「あ、山が見えた」。そのぐらい満州は広かった。
・ハルピンの町そのものは、どちらかといえば洋風だった気する。ハルピンは国際都市だからいろんな民族がいて、建物なんかも日本よりもちゃんとしたものがあった気がする。
・町に行く時は必ず衛生サックを渡された。ハルピンには慰安婦もいたから、だからそれで病気になると悪いから必ず衛生サックを渡されて、それを見せないと外出できなかった。
・まだ二十歳になったばっかりだから、なんかおっかなくて私はいかなかったけど、朝鮮の慰安婦のことは朝鮮ピーと呼ばれていた。

○1945(昭和20)年春、鴨緑江の鉄道橋建設作業にあたる。

・満州と朝鮮の境を流れている鴨緑江という大きい河がある。そこに立派な橋があるんだけど、アメリカの飛行機が飛んできてそれを壊された場合に備えて、予備の橋を作る作戦があった。そのためにハルピンから朝鮮の新義州に部隊が移動した。そこで橋架け作業をやった。
・すごい仕事だった。だけどその橋がどうなったかはわからない。今はとっくに壊しちゃったと思う。爆撃はされなかったようだ。
・本来の橋は鉄橋だけども、私共が作ったのは木で出来ていた。
・その作業が終わってまたハルピンに戻った。するともうそのころは日本全国がやられてめちゃくちゃだったから、転属するという話になった。その転属の兵隊に選ばれて。また汽車に乗って、釜山から船に乗った。船は毎日のようにアメリカにやられていたから命がけ。でもよく助かって、着いたところが九州の博多だった。
・船から降りて日本の兵隊を見て「戦争負けた」と思った。私どもは関東軍の完全軍装、みな立派なものだけど、こっちに来たらわらじを履いたり、水筒なんかも竹のものだった。こんなにひどくなってはもう戦争負けだと思った。だけどそれは絶対口に出しちゃ駄目だから。
・最終的にとどまったのが鹿児島。毎日空襲。今までいたハルピンでは、空襲なんてなんにもなく平和だった。だから空襲が珍しかった。こんどは毎日のように空襲であぶなかった。爆撃に機銃掃射で、もうこれで死んだなあと思ったこと何回もあった。
・鹿児島で何をやったかというと、機関車を爆撃から守るために隠す建物を作った。それはみんな材木で、だから大きい仕事は山に登って大きな太い木を切って、それを運ぶ。そしてそれで機関車を囲うものを作る。それが鹿児島で連日行われた軍隊の作業だった。
・機関車を爆撃から守るために毎日あっちこっちに作っていた。
・今で言えばJRの線路のところに囲いを作った。毎日鹿児島のいたるところにいくわけだから、行く先行く先で、婦人会の人がごちそうを作って持って来る。それが毎日のようにさつまいも料理したものだった。でもみんな婦人会の人にお世話になった。
・鉄道兵は作業をする時に白い上着を着ていた。だからまともに見える。そこを狙われた。最初は空襲が珍しくておっかなくなかった。ところが機銃をばらばらやられるようになってから、その白い上着を着て作業した兵隊さんはやられる。とにかく作業をしてれば必ずもうすれすれにいくんだから、これは死んだほうがいいと思ったりもした。
・満州から米などをいっぱい持って来ていたので、食べ物にはほとんど不自由しなかった。だけど内地の兵隊さんはそうはいかなかった。
・熊本かどこかの高い山に登って作業をしていた時に、なんか、私だけだかわからないけど、非常に変な音がした。あの時やっぱり長崎に原子爆弾落とされたけど、音で私は思っていた。

○1945(昭和20)年8月15日、敗戦。

・天皇陛下の玉音放送を聞いた。戦争に負けたことがくやしくて、もう一回満州に戻って馬賊になって戦をしようという話になった。今考えると強がりだった。でも、やっぱり戦争に負けてよかったと思って、これでうちに帰られるな、命も助かったし、それでホッとしたというのが、みんなおんなじでなかったかな。
・もう一回馬賊になって満州で戦うという気持ちもあったけど、心の中ではやっぱり負けてよかったと、これでお袋とも会えると、そして昔の仕事にも帰れるということで帰った。
・鉄道隊だから帰るのも汽車だった、途中で広島を見た時は、ほんとに焼け野原で何もなかった。あれは忘れらない。
・軍隊から毛布とかいろんなものをいっぱい貰って来た。あとで米がないから毛布を米と交換した。毛布一枚で米一升ぐらいだった。
・家に手紙を書いたり葉書を出したりしたんだけども、兄がそういうものが見つかると、アメリカの兵隊にやられるからといってみんな焚いてしまったので、なんにも残っていなかった。
・終戦間際にすぐ上の兄がフィリピンのネグロス島というとこで死んだという公報が入った。帰ってきたのは木片だった。だから私は兄の葬式にでなかった。
・母は息子二人が軍隊に行っていたから、川から石を拾ってきて、それを毎日お風呂に入れて、そして毎日お膳にごはんを盛って武運長久を祈っていた。私は帰って来たけども、兄は帰らぬ人になったから母は大変だった。昔のおかあさんたちは偉かった。でも心の中では泣いてたでしょうけどね。
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