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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
全国キャラバン隊は、北海道チームの旅の真っ最中ですが、実は番外編的に別の地域を回っているメンバーがいます。
全国キャラバンのニュースが、時事通信を通して中国新聞にも掲載されたため、そちらの体験者の方からもご連絡をいただいていました。
保存の会のメンバーの1人がたまたま瀬戸内に行くということで、中国地方の体験者の方のお話を伺ってくることになったのです。
そういうわけで、西東北チームの別働隊を務めた、保存の会最年少(たぶん)メンバーが、再び青春18切符で一人キャラバンを行っています。
8月21日(土)、携帯から送られてきた旅の様子を紹介します。

◆◆◆

今日は姫路を午前5時にでて岡山の体験者の御宅へ。体験者のご自宅は最寄りのJRの駅からさらにバスに乗り、その終点まで約40分ほどのところ。
その間1つのバス停にも止まらず、自分以外に誰も乗客が乗らず、いろいろ考えさせられるバス路線でした。体験者のお家も年期が入っていて、トイレも汲み取り式。まだこのあたりでは肥やしを使うのかと尋ねたところ、そんなわけないといわれました。
四時間くらいお邪魔して、お昼ご飯にお土産までいただき、帰りもご家族の方が駅まで車で送ってくれて非常に恐縮でしたが、体験者の方はもうこれで思い残すことがなくなったと大変喜んでおられました。

以下体験の概要

◎野崎 毅さん
昭和三年生まれ
昭和十九年十月十日、大竹海兵団に志願して入団。
第七十九分隊第三班(漢字不明、O-YAという班長)。
機関兵として新兵教育をうける。演習時に配られる間宮ヨーカンがうれしかった。
(間宮は海軍の食料輸送船、ヨーカンを作る機械を積んでいたとか)
二十年一月卒業。卒業式の最中、団長が訓話しているときに空襲警報がなり、全員一種軍装のまま地面に伏せる。

卒業後は横須賀の海軍工機学校(?)二十七分隊に。
そこで内火エンジンについて学ぶ。上官は震洋部隊に配属だろうと言っていた。
海兵団と工機学校でそれぞれ一人の脱走兵がでたが二人とも捕まって軍法会議に。

五月に工機学校を卒業し、編成中の第354設営隊に配属される。
編成が完了する間、呉の警備隊に。
そこで空襲があり、巡洋艦青葉がB29に主砲を撃つのを目撃。
設営隊が編成を完了すると、舞鶴から航路で釜山へ行き、そこからまた陸路で元山飛行場へ。設営隊はそこで防空壕を作ったりする防衛作業にあたる。
設営隊はだいたい五、六百人からなりほとんどが国民兵と呼ばれる三十四十の老人の兵で、若いのは十人くらいしかいなかった。

機関兵の野崎さんは、資材を運ぶ運輸隊の船に乗るために集められた一人だった。
しかし船はおくられてこず、自動車隊に整備士として配属される。
自動車隊にはトヨタとニッサンのトラック約7~8台があった。
ニッサンは上にプラグがあり、トヨタは横にプラグがついていた。
いずれも古く、何台かは部品とりにつかわれ、常に動くのは五台くらいしかなかったが、よく故障した。
これ以外にもう一台、くろがね四起が食料輸送用に使われていた。
セルモーターがきかないので、おしてエンジンをかけた。
四起は食料調達のため主計兵が使い、その運転手はかなりいろいろギンバイしてきた。

他にもブルドーザーが一台だけあった。しかし壊れて使えなかった。
設営隊では工機学校の卒業章をつけていると、大きな顔ができた。
罰直もなく、食事も毎日白米で、たまに砂糖のついた乾パンがでて、朝鮮の闇市に売りに行った。朝鮮リンゴなどおいしかった。
さらに設営隊では毎日夜食がで雑炊がでた。
自動車隊の野崎さんも食べれて、この隊にいる間にありえないぐらい太った。

そして終戦を迎える。航空隊の豊富な物資をたくさんもらった。
四、五日待機したのち、北朝鮮の演習場に帰国するために集められる。
何千何万と兵隊がいた。そこで武装解除され約一週間テント生活。
いろんなデマがとんだが、負けた気はしなかった。その後港からソ連船にのせられる。軍馬やなにやらの戦利品の間に詰め込まれるように乗る。
乗船中船が日本に向かわないことを知る。そしてナホトカへ。
そこから行軍。陸軍は飯盒を持っているが、海軍は持っていないので食事に苦労した。食器で作ったが、昼飯は抜きだった。
また海軍の短靴は歩きづらかったので、地下足袋であるいたら、足を痛めた。
ある炭鉱で一晩過ごしたら、ロシア兵に時計などを全部とられた。
その後鉄道で九月末ごろスパースク駅まで行き、駅からトラックでサンタヘイゼ収容所(正式にはウルシロフ地区第なんとか収容所)に送られる。

収容されたのは、第354設営隊と元山航空隊、羅南の陸軍守備隊と海軍の一部。そこで三個小隊(1小隊6~70人)からなる中隊2つにわけられる。
九月にはもう氷が張っていた。やはり食料は少なく、この年の冬は大勢が死んだ。
所長はFUKUSHIMA海軍技術中尉(漢字不明)。軍国主義者で毎日朝礼をさせ、自分のかわいがっている者をひいきにする最悪な人だった。

作業は冬は運河づくり、夏(四、五月)は農作業、夏は最高だった。
稲刈りをしているときに穂を盗んで、袋に入れて板にぶつけて叩くと半分くらい白米になり食べれた。また刈り取ったあとに野ネズミがいて、よく殺して食べた。
本当に美味しかった。他にも夏は蕎麦の芽やらアカザやらが生え、収容所のとなりの農業試験場にはスイカやイチゴがあり、時には盗んで食べれた。

ロシア人にもいい人もいれば悪い人もいる。
テルフノールという脱穀機を使う老人は日本人が何をしても見てみぬふりをしてくれた。

またワタボーイという若いトラクター運転手は稲がある場所を教えてくれ、服に隠せとジェスチャーして知らせてくれた。
夏ならいまでもサンタヘイゼに行きたい。
二回目の冬は抵抗力や知恵がつき死人は少なかった。

腹がふくれると余裕がでて、歌を歌ったり、笛を吹いたり、食べ物の話をした。
和歌山の人が「帰ったらミカンおくったるで」 といえば、愛知の人が「ゴボウを送る」
そして広島の人が…というように続く。それがとても楽しかった。

二十二年のある日、風呂用に洗面器二杯分の湯が配られた。それを兵舎に持ってかえる途中、監視塔のロシア兵に「ヤポンスキー、スコーラ、ダモイ」と叫ばれる。
ロシア人は嘘ついてばっかりなので信じなかった。すると次の日、小隊長が明日から仕事がなくなったと言った。誰も信じなかったが、その後ロシア兵が日本人を集め、名簿を読んだ。呼ばれた七十人は後に残ることになり、他は帰国するため、ナホトカへ送られることになった。
そして昭和二十二年五月末か六月はじめ米山丸(野崎さんらを送った後、中国に引き渡された)にのって舞鶴に着き、復員。

以上です。
何度か泣きながら話してくださいました。サンタヘイゼにいた方に会いたいそうです。

また七人兄弟のうち四人が戦死し、苦労されたそうです。
現在電車で広島に移動中です。明日は木船さん、明後日に森脇さんの収録に行きます。
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