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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
8月20日(金)の北海道チームからのレポート。
体験者の方の証言の概要です。

◆◆◆

◎大国 孟彦さん
1920(大正9)年生まれ

1940(昭和15)年1月 現役
第7師団 小林重機関銃連隊付き衛生兵
1940(昭和15)年1月から11月 陸軍病院で医者と下士官に医療教育
1940(昭和15)12月から昭和16年6月まで医療系の実技教育
1941(昭和16)年7月旭川に配属
1942(昭和17)年8月ガダルカナルに上陸

携帯している食料は2日間のみだった。ガダルカナルの天候は暑いが、蒸し暑くなく、すごしやすいと感じた。戦闘中は、弾の当たらない遮蔽物の影に待機している。負傷兵がでると、引っ張って後方に下げることがガダルカナルの衛生兵の役割だった。治療する物資はなく、とにかく後方に引っ張ってくることだけが求められた。負傷兵を乗せるタンカすらなく、南国の木と葉っぱで作ったタンカもどきで運ぶが、すぐに壊れた。

ジャングルに隠れていると毎日のように機銃掃射があり、油断するとすぐにやられる。火を起こすことは、標的になるから難しかった。ただ、蛇を捕まえて、雨が降る中火を起こして、焼いて、10センチほどに切って一日の食料にした。カエル、淡水魚も食べた。とにかく何でも食べた。
すぐに食料はつきて、60キロあった体重は40キロに。水を飲みたくて、近くの小川に行って、口をつけようとすると、「死体の匂い」がして、飲めたものではなかった。河辺に死体が溢れ、上流からも流れてきているからだと思う。
テントを使って雨のときにためて、虫やゴミが入った水を飲んだが、死体の匂いがする小川に比べればましだった。

ジャングルで暦の感覚はなく、とにかく食料を手に入れて生きることが最重要だった。やがて、海軍が駆逐艦で米を入れたドラム缶を流すようになったが、焼け石に水で、全ての兵士にはいきわたらなかった。これが、より惨劇を生む。
米を手に入れた部隊に、食料を持たないほかの部隊が夜襲をかけるようになった。すれ違う兵士の一団から「これから〇〇部隊に夜襲に行ってくる」というのが頻繁に聞こえるようになる。
なんとか生きたい大国さんは、ガダルカナルの原住民の集落に忍び込んで、現地の食料の草を貪り食った。これが意外と栄養があるようで、なんとか暮らせた。集落を探して、食うことに専念した。

死体の処理をするときもあるが、穴を掘る道具するない。飯盒のふた、鉄兜を使ってジャングルの葉が何年も積もってスコールで柔らかくなっている土を掘った。

衛生兵である大国さんには、兵士の最期を看取ることが多かった。
「死にそうな兵士は、必ず遺書を持っていて、時計やらペンと一緒に私に渡してきた。30人近い遺書を荷物に入れて、脱出のときまで持っていた。いずれ帰るときに、家族に渡してあげたいから」

やがて、どこからともなく「転進」命令。負傷者は自決するように言われ、手榴弾で死んでいく。
手榴弾がないと自決も大変だったし、なかなか死ねない。
とにかく岬をめざして歩くが、途中でばたばたと倒れていく中、なんとかたどり着き、帰国する。
1943(昭和18)年2月ガダルカナルから離れる。11月満期除隊、国鉄社員に戻り、終戦を迎える。
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