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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
東東北チーム1班が、8月16日(月)の午前に伺ったお話の概要です。

◆◆◆

◎谷津田一郎さん
大正5年6月20日生まれ 94歳
東北学院中学出身(キリスト教の学校)

○1936(昭和11)年11月入営 19師団山砲25連隊
 部隊は東北6県と新潟の兵隊で構成された
・同年12月 羅南へ
 兵200名と馬1。80頭、馬の世話をしたことがなかったので最初は戸惑う
 この年東北は大変な干ばつで、軍隊は白米が食べられ、列車に乗れ、遠い所に行ける、素晴らしいところだという印象が東北の兵にはあった。
 私的制裁は禁じられていたが意味がなかった。
 自分はクリスチャンなので左のほほを打たれたら右のほほを出す気構えでなければと思っていた。
 乙種幹部候補生にクリスチャンの学校を出ているので甲種にはならなかったと教えてくれるものがあった。
○1938(昭和13)年4月 山砲52連隊に移動
・同年8月 上海、九江を経て武漢三鎮の作戦へ。
 106師団配下となる。
 7~8師団に囲まれ4キロ四方に押し込められて2週間の戦いとなったことがある。
 当初正規軍だったが共産党軍も合流しこの師団数に。
 制空権はあったので食料は日の丸を広げるとそれをめがけて落としてくれる。
 しかしそのうち相手もそれを知り日の丸を広げて誤誘導するようになった。
 爆撃機も援軍してくれたが誤爆も結構あった。
 白兵戦のあった部隊では200名中180名が死ぬところもあった。
 谷津田さんの部隊は戦死は20%ぐらい、106師団は妻子持ちの予備役が多い。
 目の前の敵には日ごろいろいろ言っていても狂ったようになる。
○1940(昭和15)年5月復員

○陸軍恩賞課に就職、法政大学の夜間部へ
○1943(昭和18)年9月 繰り上げ卒業
・特別操縦見習士官(のようなものとおっしゃったが?)1期に。
 太刀洗で訓練、戦闘機要員となる。
○1944(昭和19)年10月
 南方へ行く予定だったがマラリアが再発し3名の教官要員に選ばれる。
 大田第9練習飛行隊(韓国)で特操2期、3期、少飛15期を教える。
・同年12月、夜間訓練の教官に。
 着陸時の事故が多く、100名の生徒のうち17名が事故死。
 48名は特攻で死に、15名が空中戦で死んだ。
○1945(昭和20)年4月 特別攻撃隊振武415飛行隊隊長に。
 特攻要員に加え整備など6機、30名の部隊。
 隼は2機ほどしかなく赤とんぼでの特攻予定だった。
 近いのでそれで十分と言われた。
 隊長については特に特攻の意思確認はない命令だった。
 行きの燃料しかつまないといわれるが裁量は隊長に任されており、あてがない時は戻ってくるよう指導していた。
 先のことや死のことは考えず、今やらなればいけないことだけ考えていた。
 実際訓練はハラハラするもので心配することはいっぱいあった。
・1か月ぐらい前に8月17日ごろの出撃と聞く。
・玉音放送は聞けなかったが無線が入っていたのでそれで敗戦を知る。
 命永らえたとの思いで嬉しかったし、互いにその嬉しさを口にした。
 敗戦時に韓国の人たちが蛍の光を韓国語で歌っていたのが強く印象に残る。
○1946(昭和21)年復員
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