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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
イモと雑草(岩手)

8月15日(日)の東東北チームの様子です。
午後にうかがったお話の概要です。今回、お名前はふせた形でメーリングリストに掲載されました。

◆◆◆

◎89歳(満州→トコペイ島)

昭和18年1月現役 山砲兵
満洲へ、一選抜上等兵に

○昭和19年4月 ○○島上陸
島はパラオ近くにあり1300m×300m、海抜5m、海洋民族の島民110名の島に
466人の兵が上陸。うち36名が山砲兵(所属した中隊の3分の1)。
○一緒に上陸した歩兵2個中隊は東京の部隊で農耕ができず60%が死んだ。
一方山砲兵は東北の部隊で36名中30名が帰った。

○これが食べられるぞという話になると皆がそれを食べるので島中の
その生物がいなくなる。それを繰り返してはいられないので
切って植えるとすぐに生えてきて連作もできるさつまいもの葉と
愛知の兵隊が薬として食べるといった雑草を育てた。
この雑草は繁殖力が強く短期間で大きくなった。
○島民のタロイモやヤシの実は取ってはいけないことになっていたが
ヤシはとる者も多く、重営倉送りになった。
重営倉を出てくると衰弱は激しく人減らしとして使われている側面があった。
○毎日島の周りを定時にまわる双発があって、これを撃つと小隊長が言い出した。
1発だけ撃ったところで守備隊長が許可していないと怒り中止となった。
その日は島の南が徹底的に爆撃されたが、これによって森が焼かれ
日当たりの良い土地ができた。ここが畑となった。
○島には流木が多く、その下には貝がいて、またその貝を食べに魚も集まり
食料となった。また流れてくるヤシの実も多く、これは取ってもよかった。
○テング熱で亡くなるものは多かった。証言者もかかったが流行りだす前で
たばこなどと交換で島民からいろいろ手に入れることができ力をつけられた。
全体に早い時期に罹患した者の方が体力の消耗前で死ななかった。
○遺体は火葬した。流木が多いので火葬が可能だった。
やせ細って背骨が見えるような遺体はあっという間に燃えてしまう。
島に来る途中で心臓発作を起こした兵を火葬した時に3日かかったのとは
対照的だった。

○中隊は3分の1がこの島に、残りが別の島にあがった。
このときに上官の配分が変で、こちらには甲幹の新任少尉1名、軍曹2名のみ、
しかも軍曹の一人は乙幹で将来は大学教授になるのではという学識だったが
軍隊としてはあまり役に立たない人物だった。
もう一方の島に大尉、中尉、准尉2名というアンバランスな配置となった。
○小隊長は満洲にいたころは立派な人と思えたが、島に来て兵が飢えていても
自分は山盛りに飯を盛らせ犬を飼っているような人物。
○軍曹の一人が食糧庫の衛兵に難癖を付けている間に配下の兵に食糧を
盗ませようとしたが、これがばれて守備隊全体の知るところとなった。
下士官を重営倉に入れる訳にいかず、小隊長は軍曹に軍人勅諭の書き写しを
20日以上続けさせた。軍曹はこれを悲観して乾パンと銃を持ち出し島から脱走した。
○この際もう一人の軍曹も連れて行ってくれたが、そちらは溺れかけているところを
島民に助けられ戻ってきた。しかし軍法会議にかけられる出来事なので
戻ってきた軍曹はこのあと何をやる気もなくなり廃人のようになってしまった。

○10月20日、敗戦のビラが配られたが、小隊長はデマだと言い特別教練などを行った。

白い旗を持った日本人将校が乗った米駆逐艦が姿を現し敗戦が確定。
この駆逐艦にはコンビーフやビスケットが積まれていた。
○11月3日、浦賀上陸。
帰りの船で自殺者が数名出た。船員から日本が焼け野原であることを聞き、
病気の重かった者が戦病死のほうが家族への手当が多いと考えた。
何も感じなくなっていたので、自殺者の遺体を海軍の兵が1体ずつ丁寧に
水葬するのを見て驚いた。
○浦賀であれが敗残兵だと言われ腹がたったが、確かにふんどしに雨外套を
はおった格好では、そう言われても仕方がない。

※写真は、島で栽培して命をつないだ植物(サツマイモと雑草)
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