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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
佐々木公男さん(岩手) 佐々木公男さんと東東北チーム(岩手)

左:佐々木公男さん
右:佐々木さん、紹介者の槻山先生との記念写真

8月14日(土)の東東北チームの様子、体験者の方のお話の概要です。

◆◆◆

◎佐々木公男さん

○昭和17年1月10日 現役
満州第11国境守備隊、甲種幹部候補生教育などを経て
昭和19年4月 第127野戦飛行場設定隊
○マニラに着くと米兵の捕虜が砂糖の南京袋を運ばされていた。
みな日本兵より体格は良いが、乾パンを投げると1切れに群がり奪い合った。
負けるものではないなと思ったが、口笛を吹いたりもして
あまりめげているようには見えなかった。

○5月、ミンダナオ島ダバオ上陸。
部隊の主力は工兵で、歩兵の佐々木さんは現地の人足集めを担った。
福島、沖縄などの出身者もいたが主力は現地人。
部族ごとに話をつける、特にモロ族は区長の息が届かなかったが
族長と話がつくと味方についた。
1200~1300人を1週単位で雇う。給料は支払った。
そのほか木綿を1アールずつ渡したがこれが目当ての人も多かった。
○そうして苦労して作った飛行場だが空爆が始まり、日本の飛行機が
使用したのは1回のみ、それも離陸後すぐにダバオ湾に落とされた。
○空爆が始まると現地人が来なくなった。上官が「脅してやるか」と言って
来ている者を集め、来ないと首を落とすぞと言ったら翌日から1人も来なくなった。
○米軍の上陸前、上陸用船艇が湾を埋めているとの誤報が流れた。
それでダバオの人たちが逃げ始め道が人であふれた。
憲兵が連れて逃げられないということで捕虜を殺した。
誤報だったことが分かり責任者が更迭。

○20年3月 米軍上陸
ダバオ湾岸からくると思っていたがコタバトから上陸した米軍が背後から
迫ることになった。
○最前線にいたが狙われたのは後ろにいた砲兵で
一番前は逆に戦死が少なかった。
○部隊長が戦死、遺骨にするようにと渡された包みを開けると
親指が入っていた。指を見ただけで部隊長だとわかるぐらい近くにいた。
焼くと魚や肉を焼くような良い臭いで、人の肉を食べられるのは
本当だなと思った。
○ミンダルに敵の陣地があり切り込み命令が出た。
行くと誰もおらず、前夜切り込んだ日本兵の遺体が転がっていた。
殺したことの証に軍帽の星が切り取られていた。遺体はそのままにした。
仕方がなかったと思っているが残したことが忘れられない。
○マナイ攻撃でモロ族が先頭を行ったが残虐な殺し方をする。
歩けない年頃の子どもが泥まみれになって落ちていたがそのままにした。

○20年9月13日、米軍支配下へ
地元の人の反感は強く石や木の枝を投げてくる。
両手を鋏の格好にして首を切られる真似をされ怖かった。
○戦犯容疑をかけられたが最後まで理由はよくわからなかった。
佐々木という人間が集められていたような気もする。
5か所収容所を変わる。

○21年9月6日復員

◆◆◆

「もや・いふ部隊友の会」事務局長の槻山先生からご紹介いただきました。
お盆の時期に聞き取りをご了解いただき、大変助かりました。
箇条書きでまとめただけでもこれだけのお話であり、DVテープ5本に及ぶお話は、フィリピンの戦場の様子がとてもよく伝わってくるものだと思います。
地元の新聞・テレビで、このお話の一部は紹介されることになるはずです。掲載・放送の日が決まりましたら、またお知らせします。
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