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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大学生の旅2013、11月16日(土)に伺った証言です。
メーリングリストより詳細版を転載します。

◆◆◆

◎栗野道雄(くりの・みちお)さん(88)
収録日:平成25年11月16日
所属:中部第○部隊〜飛行第44戦隊第1中隊
戦地:中支(漢口)〜朝鮮(大田・儒城)
――――――――――

○1925年(大正14)5月4日、岐阜県生まれ。

・父親は、染色業をやっていた。糸を染めるんですけどね。藍染を。

○1944年(昭和19)4月、専修大学予科に入学。

○1944年(昭和19)12月1日、中部第○部隊に入営。

・だから軍隊はね、大学へ入って、もう、3月、あ4月に入って、そして12月にはもう軍隊へ、引っぱられたんです。ということはね、そのころはね、文科系の学生はね、あの、延期がなかったの、軍隊の。あの、理科系人は、少し、あの、卒業するまで、あの、入隊か、軍務を延期されていたけども、文科系の者はもう、即、あれだったね。それからもう戦争逼迫すると、文科系も理科系ももう、ごちゃまぜになるんですよ、もう昭和20年、19年の終わりころにはあれだねえ、もう、ただし僕は19年の12月の1日に、えー、浜松の、静岡の、三方原いうのがあるんですよ、三つの、方角の方の、原っぱ、そこに飛行隊があって、そこへ、中部、中部何部隊、中部、ちょっと記憶がない、とにかく飛行隊が
あって、そこで、12月1日に入りまして、まもなくして、さっき、さきほども話したように、東南海大地震いうやつがあったんです。強大なその地震が。飛行場歩いていたらもう立ち眩みして、しゃがんでまって、それで僕一人だと思ったらそうじゃないもう、防火用水とか飛行機が格納庫から飛び出して来てみんなが、こうしゃがんでるような大地震なんだよね。で、その当時はもう、機密のあれで、一般には公開、あの、公開されなかったんですと、いう話だった。とにかく東海道線も動かないもんだから、一週間ばかり遅れて、外地へ飛び、あの旅立つ、ことになりまして、その時にあの、飛行場から浜松までの、駅までは、たしか歩いて行ったと思うんです。その距離は、三方が原いうとこから計って、あ
の計ってもらうとわかるけども、とにかくもう行って、浜松の駅を夜出たと思うんですね。それでその頃、今はあの、自衛隊の人はどっか行くと、家族が手を振って送るけども、そういうことは全然、軍の秘密になっていて、もう、人目をさけるように、あの、汽車に乗ったわけだ、ね。そして名古屋駅についたら、夜中の頃だったなあ、たまたまねえ、同じ、初年兵で、名古屋の、男がいましてね、それで今のあの、汽車といってもね、昔はね、こういうふうに開ける、あれがあるんだよ、窓が。今はもう全面で、開けない、開けられないけども、そしてもう一つ、扉が、あの、あったの。それはあの、目隠しになるんだ。二重になっていてね、それでそれをこっそりね、その、男が開けて、「あそこが俺の家だ」
言ってやってるんだよ。でも、家族は全然知らないしさ、秘密でみんな行くんだから、でとにかくそういうような状態で、博多まで行きました博多。博多から船に乗るわけですが、その船に乗る時に、あの、年配者がね、シベリア出兵に、行って、そういうあれがあったんでしょシベリアへ出兵する、その、時に、あの、軍隊で、参戦した、経験者がしゃべっていたことを子供心に聞いていたんですよ。「国を離れる時にはもう泣けてなけてしょうがない」と、ね。それで僕もそういう、あの、気持ちになるかと思って、あの、デッキの上から博多の街を見ていたらね、12月のあれだったけども、意外に緑がきれいにあって、そして、その、涙よりね、「ああこれからちょっと旅立ちに行くかなあ」というような、
感じなんだよ、ね。そしてそれから釜山へ、あその間に、玄界灘がいうのはその、朝鮮と、日本の、間、あの、12月はものすごく時化るのね、海が。もう大きな船だったけれど、揺れて僕らは船底だよこういう兵隊はね、荷物のように。その時にね、あの、元気なね、仲間がおってね、ケラケラ笑って、あの、出されるもの、あの食事も、へっちゃらで、食べとるやつがおったんですよ。僕らはもうへど吐きそうになって、青息吐息だったけどね。それらがね、しゃべっとるのが言葉がわからないの。顔は日本人だけどもその言葉がわからへん。あの、その、東北弁だったんだよ。秋田の言葉だった。ね。でその海をこえて、あのプサン、釜山、プサン、そこへ上陸して、船酔いは、終わりましたけれども、それか
ら汽車の旅になるんですよまた。あの、そのころ日本の鉄道いうのは、狭軌って狭かったんですよ。狭い狭軌。今は広軌って広くなってるけど、むこうのあの、あの、鉄道は、こんな広いやつでね。だから、客車なんかも広かったんですよ。それにまあ、とにかく詰め込められて、旅立ちするんだけども、行く先はもう全然秘密でしょ。それで与えられた、いろんな、着るものによって、判断するわけよ。南の方、へ行く人は、全然そんなもの必要ない、我々は、厚手の毛糸のあれを与えられた。「いやあこれは寒いとこへ行くんだなあ」と思って、ねえ。で、寒いとこいうと当時は、昔満州国と今は中国の東北という、名前になってる、ね、あそこに、その、鬼よりこわい関東軍がいて、まあてっきりそこへ行くと
思ったんですよ。でも、こう、朝鮮ずーっと行って、あの、鴨緑江いうやつがあります。あの、朝鮮と、あの、中国の間。あそこを渡って、そこには新義州いう、新しい義、新義州というとこがあって、こう左に曲がって行って山海関言って、山の、海の、関所の山海関通って、そして天津いうところへ中国の天津。当時は、中国のあれだね、商業都市やったねあそこはたしか。いやあこれはあの満州じゃなくて、こっちへ行くんだなあということを、ちらっと頭にひらめいて。それからもう毎日、汽車の旅行ですよ。僕は当時は林芙美子いう作家がいたですねえ、林芙美子いう。あの人が書いたあの、その、中国の、旅の思い出が読んでいたんです。「朝がきて、昼がきて、夜がくる。そして、朝がきて、昼がきて
、夜がくる」、その繰り返しが中国やと、中国の、大陸の広さをその人が言っておったんだよ。景色はほとんど変わらなくて、こういう、あれで、そして着いた先がその、揚子江、揚子江で、揚子江いうのは当時ねえ、今はもうみんな、鉄橋があの、あるけども、その頃はもう、鉄橋なんてないんですよ。そこで船に乗って、南京って南の京都、南京、当時はそこが一番首都やった、ね。今は北京があれだけども、で、南京へおりて、あの、上陸して、そして、20年のお正月は、南京神社いうやつがあったんだ当時は。もう日本は、占領したとこには日本的な、ものを作るんだよ、御宮でもなんでも。で南京神社お参りして、そして、そこで、えー、一日か二日いたかなあ、それで揚子江行ったんでしょう。今は長
江というんかなあ。それを、あの、ポンポン蒸気に乗って、とにかく、二日か三日でついたのが、漢口いうとこで、漢字の漢に口と書いて、そしてその対岸に武昌いうとこがあってもう一つ漢陽いうとこがある。武漢三鎮って昔は言ったんだよ。そこの、漢口へ、上陸したのが1月15日。

○1945年(昭和20)1月15日、漢口に上陸。

・で、そうしたら日本租界ね、その租界いうやつが、あの、もう、中国の、国内に、日本的なその、領地があったんだよ。フランス領、租界とか、日本租界とか、異国租界とかいってねえ、で、そこはもう、中国の行政は全然入れないの。今のあの、沖縄の、米軍基地みたいなねえ。そこに民間人もおるのが租界だったんだよね。そこが爆撃されて、燃えていたのが、その15日。これが戦争かと思って、と、聞くと、前の日に1月14日にきて、あの、空襲で、日本租界やられてと。それで「うわあこれがこういうのが戦争か、こりゃないぞ」って、こんなことがだんだん毎日繰り返されるんだろうという、頭にあって、まあとにかく中国の、漢口の、中山て、中山って、中の山と、中山公園の、それはね、孫文か
なんかのねえ、中山いう、なんかこれ、名前が、あっちでは、なかなか、貴い名前らしい。中山公園の、横を通って、漢口の飛行場へ着いた。飛行場へ着いて、宿舎は、あの、刑務所だったの、刑務所、ね。それを接収して、あの、軍隊のあれに使っとったんだね。それで個室みたいなとこに入ってて、そしてそこでね、初年兵教育は、3か月ぐらいあったかな。ね。そうするとね、中国、そのころ、あの、とにかくあのころね、子供も大人もあれやけども、軍事教練いうやつがあってね、軍事教練、鉄砲の撃ち方とかなんとか、ね。それをあの、その3か月でやるわけだ。飛行隊でもなんでも。それでそれが終わって、あの、各、中隊に配属のところに行くんだけこの、そのころにね僕はね、あの、凍傷になってね
、凍傷いうて、水仕事したことないでしょ、学生のころ。そうして軍隊ではやらなんでしょう、自分で。そしてその時にしっかり、タオルで拭いて、水気をとればいいけどもねえ、そういうこと、怠るともう、すぐここらへんが。で、あの、あれですよ、それで、ここらへんがただれちゃってねえ、もう、こんなふうになっちゃう。それで包帯巻いて、それでその時にね、どういう風の吹き回しかねえ、僕にはその、初年兵の代表でねえ、あの、終了する時にはね、なんか偉いさんの前でこんなことやってねえ、「栗野二等兵以下○名は本日をもって、教育隊を終了しました」なんて、申告するわけだよ。その役を仰せつかってねえ、僕はそういうこと嫌だ言ったけどね、班長がね、各班長、班長いうのはその、まあ
、各班に、ブロックの、あの、古い人が、あの、教える人がおって、自分の班から出れば、ちょっと鼻が高いんだよ。その班長達の競争で僕は、なっちゃってね、いやあそんなこといわれたって、とにかくやれって、まあとにかく、あの、配属されたのは、飛行第44戦隊第1中隊いうとこで、それは偵察機が一機おってねえ、で、その偵察機いうやつはねえ、あの、ゼロ戦だか、あるでしょう。飛ぶとスーッとこの脚が、しまる、それが出っ放しなんだよ。古いやつでね。それでも偵察機やっとったんですよ、ね。それでそれを飛行第44戦隊第1中隊で、そのやっぱり、一番、最後の兵隊で、あとからもう、内地からはその、送り込まれる人がないんですよ。ということはもう、あの日本海のあそこは、だいぶ機
雷かなんかで、あの、アメリカ軍の、あれに、あの、行動が制御されておったわけだ。そんで僕らはもう一年、一年生のままでおわっちゃったけどもねえ、そこで、感じたことは、飛行隊ってもねえ、我々は整備するほうにまわされたの、ね。そして、その飛行機に乗る人はまた別におるわけだ。だいたい少年航空兵いうてねえ、その当時はね、15、6歳で、その、あの、志願して、そして兵隊の教育受けて、そして下士官いうとねえ、そういう言葉をもう、兵隊というのはね、二等兵一等兵上等兵いうのが兵隊、それで下士官いうのはねえ、兵長伍長軍曹曹長いうのが、ちょっと上の人だ。だいたい少年航空兵はそのクラスにおったわけよね。それでその人たちは、あの、操縦して、あの、偵察に行くわけだ。そ
れでその準備をするのがその、整備兵の仕事ね、自動車の整備と一緒で、あの、点火栓を調べたり、この、そのころはね、プロペラでもね、我々は手でやるんだよこういうふうに。今はポーンとやるとダーッとなるでしょ、ジェット機やったらもうぜんぜんあれでしょ、そういう時代の、あの、古い飛行機でね。それでもその、空中勤務者になるとね、食事がぜんぜん違うの。一般の我々とは。しかしそういう人は毎日そういうのを食べてるもんだから、食べ飽きてるわけだよ。それで初年兵としてかわいがられておってね僕は。「おうお前は俺のこれ食べろ」ってね、よく回してもらったんですよ。ええ。それでまあ、僕としてはねえ、あの、空襲、は、一回あったけども、あの、機銃掃射いうて飛行機が来てババ
バーッとやるわけだよ。その時僕は一番に逃げたんですよ。逃げるんですよ、その、あの、みんな笑うけども、そんなボカッと、ボヤッとしとって撃たれたら、なんも名誉なことやないって、ただねえ、その当時は、とにかく死ぬことが名誉だいう思想、教育を受けとったみんなが。それが名誉の戦死だって。しかし、なんにもしないで死んではね、なーにも経済的にもプラスになりもせん、命ながらえて、あの、お国のために尽くす、それがあのほんとの姿やないかいって僕は、屁理屈だったけども、僕は僕なりのことでしゃべって、そしたらみんな「なるほどなあ」いうことになって、サーッともう逃げるようになって、危険は避けるべきだいうことで、ね、もうもたもたしとって死ぬのは何も利益がないって、
そういう、考えでおってねえ、それで、たまにね、あの、話は前後するけどね、ま兵隊、兵隊としての、楽しみはね、会食いうのがある。会社の会にね食べるいう会食。もう隊長からみんなこう、一杯飲みながら、食事をするんですよ。その時に、秋田の連中はね、民謡がうまいの、民謡が。秋田民謡。あの、船の中では朝鮮人やと思うとった人たちが。そしてまたそういう時にね、僕のあの、内地はあの、軍事郵便いうて手紙書けるんですよ。それで相手が出すと、それでしかし、書くときはみんな、隊長、あの、軍隊は、この、検閲するわけです。そして、僕はまあ、比較的、文章、あのころ、は、ちょっと、あれやけど、簡単にして要領のいい、書き方しておったんですよ。そしたらもう他の連中に、「手紙と
いうものは、貴様等こういうふうに書かないかんぞ」って、なんかこっち言われちゃってね、そういう思い出もありますしねえ、それに、あの、制裁というのは私的制裁いうリンチいう言葉があるわねえ、私的制裁は時たまありましたよ。もうあの、上の班長の気分が悪い時とか、ちょっとヒマある時は。でそういう時は連帯責任でね、たまたまその僕が、まあ、いうならば、今でいえば学級委員みたいな、僕らのころは級長みたいな感じでねえ、そうすると、何もしてない僕から始まってくんですよ。バアンバアンと。その時に、この、ベルトの、幅の広いやつでやられたり、そして、ゲートルでこの、あれでやられたり、あの、スリッパいったって、あれ、あれですよ、革靴の、鋲のあるやつの、古いやつを、切
ってそのスリッパにするようなやつ、そんなので殴られんねん。それで、そういうことは2、3回あったけども、どっちかいうとまああとは、その、のほほ〜んとしたね。古い兵隊でも、あの、かわいがられてね、あの、僕だけ特別にね、その公用いう腕章を出して、あの、町、出す機会作ってくれるわけですよ。そしてその、古い名古屋の出身の古い兵隊がその、例の慰安所いうとこにおってね、で、そうして、あの、なんか派手な、女の人の、着物を、はだけたような格好しよる、そうすると、その女の人が、あの、「兵隊サン、ゴクロウサンデス」いうてその朝鮮なまりの言葉、言うわけですよ。そうすると部屋ん中はあんたもう、そんな、カーキ色だけの世界やないですよもう。あの、浮世絵の絵みたいな、
感じの世界になるから、「へえー」大きい声でいってねえ、そういう経験してねえ、あの、普通の、初年兵の人よりは、外へ出る機会も多かったし、そういう、経験もしてねえ。
・外出する時に。ね、そうするとねえ、民家にねえ、こういろんな、物があるんだよ。それでねえ、ああいうとこにおると自然と覚えんのね、あの、カンカンテンホーいう言葉があるの。カンカンいうたら、あの、味わっていいですか、テンホー、テンホいうたらあの、いいですいう、カンカンテンホーいうと、ダメいうとブシン言うんだよ。それで、ハオ言うと、いいわけだよ。そうやってね、民家にね、ノコノコッとはいってってね、あの、チャンチュウてその、中国の、お酒を、こういうふうに舐めてみたりね、そして少年たちはね、むらがってきて、たばこをほしがるの。ね。そうして、あの、そこで、彼らがしゃべる、オーデーニーデーポンユーやなんて、私と、あんたはもうお友達というようなことで、
で、自然と耳につくのねえ、今の、あの子、石川君がやっとる、あの、英語のあれみたいにね。やっぱり現地におるとね、なんとなく覚えるのねある程度は。そんで、その、たばこ、と、交換すると、むこうの、金を、あの、くれるわけだ。そんなことやると、これだけども、あの、外へ出るときは、あの、周囲にこう、あの、鉄条網やっとって、こういうふうにやるわけです、群がってきて。それで接したと、接することとはそのくらいのことで、中国と、朝鮮民族の国民性はちょっと、違いますわねえ。中国の人はおっとりしてますよ。朝、軍隊で、訓練で、外出します、こういうふうに、あの、帰って、するとそこにボーッと立ってる人がおる。おそらくそれは別の人やと思うけども、帰って、帰ってきたら一
日その、作業とか、訓練終わって帰ってきて同じ場所にこんなような人がいるんですよ。のびやかにしてたね、その、戦争中の国民いったらもっととげとげしいと思うけども、あの、漢口の町そのものは活気があってね、あの、我々は関係ないけども、むこうの人はもう達観しておったのかなあれで。あのメイファーズいう言葉がね、もう、ダメだ言うて、あの、私らどうのこうのしたってあれだから、それに従わないかんいうような、あれがあるんだよなむこうは。あの、こういうふうに肩肘はって、抵抗したって、もうどうにも、現状は、あれだから、時期を待たなくちゃいかんいう、あれが、あったんじゃないかなあ、中国の人は。メイファーズいうて、なんでもメイファーズメイファーズいってね。うん。お
おらかでしたよ。朝鮮の人はちょっと、あの、まなじりをつけあがったような感じでね、あの。で、僕は、中国に対しては非常に親近感をもっていた。
・それはね、漢口の教育隊におった時やな。たまたまはじめて、一回だけやったがなあ、ババーッてあの、よく、映画なんかであるでしょ土煙が、あんなふうでね、それでその、防空壕いうてこう、穴が掘ってあるの。そこへ僕が一番はじめに飛び込むんですよ。そうすると笑ったり、馬鹿にするから、そうじゃないお前、こんなことで死んではあれだから、とにかくあの危険は避けて、やれよ言うて、そう言っちゃ悪いけども、そのころの軍隊ったらね、まだ、みんな、学歴、今はみんな学歴上がっとるけども、それで小学校6年生とか、あの、高等科2年で来てる人ばっかりでしょう、ねえ。それで、日頃のあれで洗脳されてまってるわ、お国のために死ね、名誉のことである、一家のためにやれいうて、天皇陛
下のためにって、それでとにかく戦死することは名誉やと思ってるんですよ、ねえ。名誉のその、とりかたが違う言うんだよ僕は。だからこれは逃げて危険避けて、あの、何して、あるのは、卑怯やいうて。その、ポポンと簡単に撃たれ死んだらお前、何の役にもたたないって。そんだから屁理屈やったかもしれんけども、僕はもうそういう考えでおりましたね。それで、あの、今ではね、僕はね、あの、天皇家にたいしては非常に尊敬の念をもってるんです。話が前後するようだけど、あの、日本の文化の象徴、あの継承者はあの人たちやと思うんですよね、それで、学生のころは天ちゃんとかなんとかいっとったけどね、今はあれですよ。それでその、ただ、戦争に行く時は、親父に言ったらこういったんですよ
、天ちゃん、天皇のために死ぬ気持ちはぜんぜんないと、親や兄弟や、ねえ、身内のために命を捨てるのが、あれやいうと、そしたらそういうことを言うと、すぐと憲兵に知られて引っ張られるわけですよ、今のなんとか法いうてやってるのはあれと一緒でねえ、もうあれは、僕はそのころは天皇陛下に対してはあんまり、あの、あれはなかった、今はものすごいですよ。
・中国大陸で、その、初年兵教育受けていた時に、あの、いっぱり、やがて春を迎えるいうことで、あの、種が撒いてあるわけだね、種が。それが芽を吹いとったいうことは、たしかに、記憶があるでなあ、ああ、こんなとこ、あの訓練とかなんとか言って、走り回っていいのかなあっていう気持ちはあったねえ。でもとにかく、あの、教育隊いうのは、初年兵教育いうのは、とにかく兵隊さんになるための準備教育だからね、その、3か月、弱やったから、そっからいろいろ自分の行く、隊へ、こう配属されていく。
・で、手紙のこと言えばね、僕はね、その頃はね、とにかく、軍の行動は、秘密だから、手紙も全部むこう、あの係の人がみて、ハンコを押して出すんですよね。検閲済みだって。で僕はね、今日は僕の誕生日5月4日僕の誕生日ですっていって書くんですよ。それで家につくのに相当時間がかかると、ああ遠くにおるんだなあというような、ね、それで朝鮮来た時は、日曜日に、ひょっとして、外出したら、つつみさん一家にお会いできるんじゃないかなあと書くんですよ、ね。そうすると家におる連中は、あ、つつみさんいうたら大田におる人だいうて、で僕は大田におる。それはもう、軍の人もう少しねえ、あの、しっかり頭働かしたらねえ、こんなことダメだっていうはずだけどね、全部通っとるんです。ま
あ、軍隊は要領をもって本分とすべしいう言葉もあったけどね、僕は要領、よくやる、だけじゃなくてね、なんとなくこう、人から、な〜、もう、いじわるはされなかったんだよ。だから、こんな呑気な、兵隊生活なっちゃうんだけどもね〜。
・2中隊も偵察機で、いて、で2中隊はね、その、あれやその、ソ連の参加した、8月の9日、2中隊同じにいたんですよ、あの、大田に。参戦いうことでね、すると、北朝鮮行ったこの部隊は。そして、シベリアに抑留になっちゃうの。僕ら1中隊は残ったけども、で、1中隊、あの、飛行機は1台。そこに整備兵と乗る人と、そういう人が、おるわけや。全員で何人ぐらいやろうなあ、50人ぐらいおったのかなあ。
・(偵察には)行ってたですよ。あの、ずいぶん中国のね、今日はあそこ行くって、行くと、はい行ってらっしゃいいうようなまあ気持ちでねえ送り出してさ。ただ、その、飛行機がねえ、今から思えば今の、高級な車の車ねえ、あれより簡単なあれやったと思う。高度計と、スピード計と、そしてもうひとつなんか、今なんかややこしいやつ車がいっぱいあるでしょ、操縦席行ったらもっと簡単なあれやったよ。プロペラやって手でこういうふうにやるんやから。
・整備兵の、卵やわね。そんなややこしい、整備はやったことないまだ。ただあの、木ネジの、ドライバーか、ドライバーのやりかたを教えてもらったの。それだけは頭にあるの。垂直にやらないかんいうことを、ね。鋲を締めるには垂直にやれいうことを、それだけは覚えたの。それからあとは点火栓を洗うの。点火栓ってあの、エンジンの、あれをガソリンで洗う。そら冷たいですよ。それで気にくわない人がおると、整備兵が、変な、あの、整備の仕方するんで命が危ないいうことは、そういううわさはあったね。現実にはそんな、墜落したいう話は聞かないけどもさ、整備兵は大事にしなあかんぞ言う。

・それからそのうちに、入院いうこともやって、普通やったら、「そんなことで、たるんどったからなるんだ」って怒られるんだけどね、あっさりね、入院の手続きしてくれて、それで、陸軍病院、あの、漢口でね、陸軍病院に、入ったんです。そうしたら隣におった同じような年頃のやつと話をしとったら、あの、こぐらざきなんとかいってたけど、「僕の親父は陸軍中将」って、大将の次ですよ陸軍中将。で、そに、漢口の、一番偉い人なんだよ。それで親父の副官が、僕をあの、車をもって迎えに来て、時たま、親父のとこへ行くといって、で、あの、一番初年兵が後ろへ乗って、副官の偉い人が前の、あの、助手席に座って、そして、なんか旗立てて行くんだよその頃はね。そうすると、衛兵がこうやってや
って、中を見ると初年兵が乗っとるわけですよ。ね。そんな漫画チックなようなね、話あの、経験もしとるんですよ。
・それはね、診断は気管支炎。のどの。だから普通だったらね、「貴様たるんどるぞ」って言われるんですよ。その、あの、病院なんか入るようなあれじゃねえ、それがどういうわけかね、僕はすらーって、入ってって。そして、マラリヤは、その、中国におる間に、感染して、朝鮮行ってから、発病したかなあ。あの、中国の病院退院して、こっちへ来て、南朝鮮へ、で、それから、マラリアの薬もらうように、あの、熱が出て、あれだから、これはもう、内地帰ってからもう二年くらい、そらすごいよこれは。遊びにいっとっても、その時間なるともう、わかるの。それで家へ帰って、真夏でも、あの、日光消毒してある、ふとんにくるまって「寒い、寒い」ってやってる。それで病気は、あのあそこにいる時は
、漢口にいる時は、気管支炎ていう極めて、軍隊においては、病気ともいえないような病気で、入院しました。そっからまた、運がよかった。
・いやあ、けっこういましたよ。ええ。だから、ふつう、マラリアいうと南方の病気や思ってたけども、中国にいたんですよ。僕が、実際に経験してね、そしてこっち帰って二年ぐらいは苦労しましたよ。夏になるとその、症状がでてくんで、あの、予兆がね。あこれはいかんと家へ帰って寝ておるんです。暑い暑い夏に寒い寒い言って。そうするとね、キニーネという薬があって、それを飲むと肝臓が悪くなるんだけどね、んー、それ乗り越えました。
・漢口の町もちらっと、上っ面だけ見たかもしらんけども、人ごみの中へ入っても、あの、そんなに危険を感じることもなかったしね。
・特攻隊いうのも見送りしましたよ。で、特攻隊にまつわる話としてはね、それは、おそらくそれはあの、世間では、絶対ない、ことやろうけども、なんかあの、行く、前の番はね、ものすごく荒れたんだって、そういう人は。やっぱり、お国のためや言うても、死にたくないんでしょう。もうドンチャン騒ぎで行ったいうて、僕はその現場は見てないけども、軍刀忘れて飛行機に乗った人とかね、そういう、まあうわさ話は結構でましたよ。あの、特攻隊でみんな軍神で、神様として崇め奉ってもう、完全、無欠の人やけども、人間ですよやっぱり、死ぬことにはね。それで、その飛行機で飛び立つ時には、帽を振れで帽子を振れってことでだーっと振るんだけどもねえ、そういう経験もしてねえ、その、銃弾の飛
び交う、その、経験はないんけども、戦争の裏側いうかねえ、軍隊にはそういうところもあったんで、せっかくあんな、あの、日用品とか着るものとか、食べるものを、そういう、むちゃくちゃなことして、周囲に、飢えた人が、たくさんいたはずやけど、わかちあたえることもなく、やってまったんですねあれ。それが、今、だったらもう許されないことや思うんだよねえ。
・あの、鹿児島のねえ、少年航空兵出身で、かつめ軍曹いう人とがいたんだよ。僕が大好きで人でよ、でむこうもよう話し相手になってくれてね。そんな初年兵を話し相手にするような、いない人やけども、その人がね、どういうわけか知らんけど、僕、部屋へ呼んでね、そうしてまあ、軍隊の、なんていうのかな、矛盾ていうのかな、あの、そういうことについて、ちょいとしゃべった、あの、しゃべった、ことがあるんだけども、その人が、あの、僕が、入院してる時に、退院してまず一番はじめに会いたいと思ったのその人だったんだよ。そうしたらいないと言うんだよ。その中共軍ねえ、今の中共軍、あっちへ、飛行機と、共に、逃亡したいうんや。んで、むこう行ったらなんか偉い位になってまって、なに
したいう話があったな。あの、その人ねえ、ほんとに、立派な人で、軍隊の非合理か、そういうことをね、しゃべっとった、二人で。そういう人も、いたんです。こういうことはほんとに、表に、活字には出来んような話やけどもさ、かつめさん、会いたいなあその人に。もう心ある人はねえ、そりゃ軍隊に入ってもねえ矛盾をかんじますよ。うん。だから、あの、えらくなるほど、そういうことを隠しちゃって、ねえ、おるけども、あの、まあ、心ある人は、やっぱり、戦争というものに対しては、真摯に考えないかんと思うんですよ。ええ。結局苦労するのは一番、したっぱの方が、苦労するだけで、だからあの朝鮮の時だって、あの、戦争終わって、ある部隊なんかは、偉いさまだけ飛行機で、あの、日本へ帰
ってまっとるんですよ。
・そして朝鮮へ、あの、本隊はもう、朝鮮きてまってやね、後からおっかけたわけですよ。
・6月のおわりごろに、そういう部隊がいっちゃったから、もうお前たちも飛行機で送るから、もう退院しろ言われてさあ、そうしたら、乗りきれないわけだ、入院しとる連中が。それで、列車で行ったんだけどもね、とにかく、6月の終わりごろかなあ、だから、厳密にいうと、朝鮮の生活も、2月ぐらいかなあと思って。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・そして、8月の15日、いよいよ、そのころね、ちょうど昼ごろでね。あの、当番としてあの、食事を取りに行く、当番で、山道を歩いておったんですよ。そしたらあの、なんか、あの、「発表がある」いうてね、12時に集まれいうことでね。それであの、例の、あの、我々にとっては一番、あの、終戦の日ですよ。そしたらね、あの、中国大陸にいる飛行隊は、第五、第五、五、第五、航空の、第五航空とかいうてたかな、正式なのは。あの、第一、第二、第三なんて、あの、南方にいるは第一とかだったような、で、中国には第五航空軍は、無傷やいうてねえ、もうあの古い兵隊は、叫んでおったですよ。「無傷だから我々はまだやる」って、ねえ。しかし、あの時になってホッとしたね僕は。そうしたら途
端にもう帰りたくなっちゃって。そやからあの、あの、あれですよ、すごい故郷恋しの気持ちになってまって。しかしすぐ帰れなくて、10月ごろまでおったんだけども、その間に、日本にはもうほとんどなにも、着るもんもあの、いいのはなくて、人造絹とかなんとかいうやつ、その当時はもう、軍隊いうのはもっとったんですよ、もう新品の服とか、ね。それで僕らはその、大田というところの、郊外に、儒城という、温泉町にいたもんだから、毎日、温泉通いでねえ、で洗濯すんのはめんどくさい、だから、毎日新しいもんに着替えて、それで古いやつを燃やして、ねえ、それ燃やし、古いやつだけじゃなくて、新しいのも燃やしきれなくて、それ小学校の校庭で、一週間ぐらいやったねえ、燃やすの。落下傘
、あの、パラシュート、あれは絹製のねえ、ものすごいいいものですよ、あれも燃やす、軍服も燃やす、それで中に着るものも燃やす、そして革製の、靴も燃やす、ね。航空隊の、その、空中勤務者の、靴は、半長靴いうて、ちょっとかっこいいんですよ。あの、半分のやつがあるでしょう、あれも新品のやつ、毎日ガソリンかけて火を付ける。そうすると周囲には、地域の住民がいっぱい見てるわけですよ。ね。こういうふうに、越えも出さずに、あれをあの時、みんなに分けてやれば、もう少し、気持ちは、あれだったと思います。そのくせ我々は、その後兵舎というものはなくて、あれなんですよあの、民間のその、ちょっとしたとこに、分散して、お世話になっておったんですよ。ただその時に僕の印象とし
てはねえ、そこの、おかみさんと、奥さんがねえ、キムチを、やったの、壷がたくさんあるんですよ。それを取りに来てもね、笑顔も一つ見せないんですわ。ね。やっぱりなんか、わだかまるものがあったんでしょうね。旦那さんの顔は全然みたことなかったけどもねえ。だから、いろいろ問題って、朝鮮がどうのこうと言ったってねえ、終いに、民間のとこへ押し入ってねえ、そういう生活してきたからねえ、ある程度、ほんとにしっかり謝罪せないかなんだと思うんですよ。それは、笑顔一つ見せたことなかったね。うん。そして、終戦のその日はね、ちょっと高いとこにいたから、下にその、朝鮮の、人の、ドンチャカ騒ぎ。もう夜を徹して。解放されたって。それからその、住民は、強くなりましたよ。あの
、たまたまね他の部隊の将校がね、誰かを、轢いたんですよ子供を。そうしたら昔だったらね、もう、轢き殺されても声も出なかったけど、みんな囲んじゃってその人をこれです。もう自分たちの天下になって。だから、そういう、僕としては、鉄砲一つ撃って人を殺すこともなかったけども、そういうね、軍隊の、軍隊より日本政府の矛盾やわねあれは。あんだけのものをあの、火に燃やしたということはまず一番もったえないことよあんた。それから思い出すのはなんだろうなあ、ああ、だからそういうわけで、食糧事情も、大変、良くなって、缶詰なんか毎日もういっくらでもあんだよ牛缶が。それ食べるのが、あの、飽きちゃって、なにが一番ごちそうだったかいうたら大根おろしやった。そして、豚の、頭
を切ったやつがドラム缶に、乗せて、そしてその日のその、豚の、あれでね、その日だけはその顔みてから食べれなかったけどね、そういうね、ひもじい思いもしてないしさ、ただその、あれ、沖縄戦争始まった時には、頭の髪の毛を少し切って、爪を切って、それを家族に送れるように、準備せよと、そういうこといわれて、ギクッとしたけども、まあ幸いそれもならずに、命長らえたわけでねえ、ほんとにあの、官費旅行しとったようなもんですよね、疎開しとったようなもんです。そういう兵隊もいたいうわけですよ。そらあの内地から、あの、中国渡った時はね、びっくりしましたよ。豚の、中国の人は半分切ってこうぶらさげてるんだよ。ねえ。店にダーッと並んでる。それで革製品はいっぱいあるんです
よ。それでこっちにおる、人はわらじみたいなもん履いておったんですよあのこのねえ、せっぱ詰まった時。だから、あの、ビルマとか、あの、南方で苦労した人の話聞くと、まったく浮世離れしたような話ですよねえ。そしてあの、古い兵隊でも比較的、古い兵隊いうとねえ、だいたいねえ、大学行っとるやつは、あの、狙われるんですよ。それもなしですんだし。それで、もたもたしたやつは、よく、私的な制裁受けてねえ、ウグイスの谷渡りなんていうねえ、こういう、高いとこに、足をかけてねえ、そしてここに椅子やって、こここういうふうにやって、もうそれで病気になっちゃった。だから、病気の、あの、あれも、経験したし、そして、マラリアにも、あの、漢口におる時に、なって、このマラリアい
うのがまたねえ、熱の出る病気でねえ、もうちょっと想像つかないけども、そういう、つまらん病気も経験して、一方ではそういう軍隊生活もして、そうして、あの、戦争終わってからは、もうやることないから草野球ですよ。で、草野球だけども、あの、だいたい古い兵隊がやるんだけども、どういうわけか僕を引っ張り出してくれるってね、それでライトで八番ですよ。ね。甲子園に出た連中もおるんだからね、草野球やってね、そうするとその、隊長さんが、こんな初年兵を、あんまり、会ったことがないから、「お前、大丈夫か」って、病院にはいっとったこと知っとるもんやから、「この人と俺のこと知っとんのやな」って、その人が半沢あきら言ってね、今テレビでやっとる半沢なんとかのね、あの半沢
なんです。だから今まで僕あの半沢あきらなんてね、もうほんとに、立派な古武士然とした人だからね、尊敬の眼できたんだけど、テレビであんだけ半沢半沢言うとね、なーんか穢れたような気に、垢が、手垢がついたような感じになっとる。僕が二十歳の時に二十七歳、その人。ねえ。威圧感がなくてね、親しみがあんのその。しかし尊敬せざるを得ないような人。で、だいたいあの人もね、軍隊いうのはね、上におべっこ使ってどーっと、犠牲にして上がってくのが、軍隊だよ、どこの世界でもそうだけどさ、あの人はそういうことをしなかったからね、おそらくその、飛行隊でも、偵察機という地味なところへ配属されてまって、やったんだけどもね、もうほんとに上がってくやつは蹴落として上がったけど、
その人はそういうやつじゃなかったんだよ。ね。だから、僕はね、そういうとこで人間を発見したしさ、そして、やっぱり、人の接し方も、出来たし、ね。

・少年航空兵なんていう連中は、操縦のあれでもってね、少年兵航空兵だったら十何歳のでしょう、やっぱ。それで、あの、終戦なったらね、その、子供達、みんなもう、明日の命がないもんだから、その、慰安所とかああいうとこへ、行って、練習をしておったんでしょう、病気をみんなもらってきてねえ、いわゆる、あの、花柳病、性病よ。あの、みんなここを自分で、治療しておったよ子供達。

○1945年(昭和20)10月末ごろ、復員。

・んーっとね、僕は自分でもう、10月の末頃やと思ってます。ということは、あの、広島をとおってきたでしょ、11月のそんなおわりやったら寒いと思うんですよ。で石炭の上に、あの、あれが、屋根のない、あれだから、もう普通に、あったかい気持ちで、これたから、十月やと思ってるんです。
・忙しい中に閑ありって、ひまの閑、忙中閑ありという言葉あるけども、忙を軍隊とすると、ねえ、軍隊の中におって、僕は閑、閑があったそういう、のんびりしたとこにいやはったんや、僕は。で、帰りは、釜山からまた帰りました。あの、仙崎いうところへ上陸して、仙崎から厚狭いうところに、あの、こういうふうに、厚い、狭いと書くのかな、厚狭いうところを周って、そこから、名古屋まで、無蓋車、あの、あれがない、石炭積むやつ、昔は石炭よく積んでた、その上に乗って、国へ帰りましたけども、広島を通る時は、ちょうど、あの、お月さんが出ていて、まあ、青白い光がね、墓場のような気がしたんだよ。人がぜんぜんいなくて。で、むこうにいる時に、広島に落ちたものは、新型爆弾いいよった
僕らはね、その時。新型爆弾で、ひどい、あの、被害を受けたいうことを。でそれでその時帰る時に見て、「ああこれが新型爆弾の跡か」と思って、墓場のような気がしたね。
・ただ、アメリカ兵の恐かった、いうことは、こっち帰ってきて、学校行って帰ってそれで、僕は中野の駅から降りて、高円寺の、アパートへ、帰ることがあった。そうしたらね、桃の園っていって、中野から、桃、桃、桃の園、あの、中野駅南口をおりて、斜め行くと、桃、桃の園町か、それがあって、そこでね、あの、むこうのガーッとやってきたですよ。それで僕は逃げて、あれだけどね、後で聞いたら、同じアパートの人は全部殴られたいう話でね。あの、米軍の、進駐軍でしたね。だから、だからあの、軍隊の時はその、生命の危険は、一回の、その機銃掃射以外、ないですね。
・僕は逃げたけどもね、人通りのないとこだったよ。それで、その日に、同じアパートの人が、後から来た人らしいけど、全部、やられたいう話でね。それは戦後のね、あの時代の話だからさ。黒い人やった。

○1950年(昭和25)3月、専修大学卒業。

・旧制大学の生き残りなんですね。当時は予科3年で、学部3年で、計6年だったんです。今は新制大学だから4年で卒業するけど、僕らの頃は予科3年やって、学部3年ということですね。

●最終階級:陸軍一等兵
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