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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ややキャラバンとは違うところもありますが、大学生が遠方取材した証言の報告を掲載します。
メーリングリストより転載します。

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◎小牧治市(こまき・はるいち)さん(90) ※旧姓:林
収録日:平成25年11月16日
所属:中部第4部隊〜中部第2部隊〜陸軍経理学校〜南方軍経理教育部(岡543)【※威10345?】〜第7方面軍野戦貨物廠(岡10356)〜独立砲兵第13連隊【独立重砲兵第13連隊?】
戦地:ルソン島〜昭南〜レンパン島
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○1923年(大正12)8月7日、岐阜県生まれ。

・実家はお米屋。
・大垣商業学校卒業。

○1941年(昭和16)4月、法政大学専門部法律科に入学。
○1942年(昭和17)4月、専修大学予科(二部)に入学。
○1943年(昭和18)9月、法政大学専門部法律科卒業。
○1943年(昭和18)9月、専修大学予科(二部)卒業。
○1943年(昭和18)10月、法政大学法学部法律科に入学。
○1943年(昭和18)10月、専修大学経済学部(二部)に入学。

・結局、専修大学は一年遅れで、予科と、法政の、二年になって専門部二年で、そっから同時進行してやっていた。
・二重学生は普通じゃないです。私一人だけだったと思います聞いてる限りでは。で、大学は近い、近かったんですね。そうすると、専修大学に夜間に予科がありました。当時、探してて私が、東京では日大と専修大学が、あの、夜間の予科があったんです。で、専修大学は近かったんですね法政に一番。で、歩いてこう、昼終わると夜、そちらへ行くという。そういう生活。で、それは他の、学生、仲間には、誰にも言わなかったです。家へも言わなかった。家にも言ってない。それで、家からは、おこづかいを、ちょっと、余計、あの、もらうようにしただけで、行ってるとは言わない。
・それはね、あの、やっぱり私は大垣商業学校卒業なんです県立のね。で、あの、法政も、専門部法律で、やっぱり教養科目をもーっと勉強しないといかんだろうと思って、それで、あの、大学予科、どっかないかなと思って探して、入ったわけなんです。そんなことでね、あの、夜、あの学校に行ってるいうは、家族にも学生なんかにも言わなかったです。ずうっと隠し通して来たんです。自由料でもなんでも、もらうんやけど、たくさんもらうようにしただけです、家に。でまあ家はね、あの、そんな、なんにも理由も聞かないで、くれたからね、よかったです。
・で、学生生活というものは、そういうことで、友達が出来なかった、ほとんどね。あの、昼と夜の間に、時間があれば図書館で勉強するという、これがまあ私の、日課のひとつだったんです。で、専修大学の方は、夜間来られるんで、勉強の実力は別としても、非常に熱心でしたね、みんな勉強が。これは言えると思います。法政のほうは昼間で、親から仕送りでやってるんで、あの、もうちょっと、ね、遊びもやれば、のんびりしてました。だけど、夜の学校は、そうじゃなかったですね。それは、あの、よかったと思ってます。それで、教養科目のね、数学とか、高等数学とか、あの、哲学とか、倫理とかそういう方面を、一生懸命勉強するという意味で、あの、専修大学を出ていた。だからそこらへんがんばってました。がんばってたつもりです。それで、一番難関は、その間、試験というのはね、あの、昔の中学に比べて、回数が少ないですよ一年に一回とか、予科だったら二回、か三回だったです。夜昼、あの、学年試験とかね、試験なんかさがるんですよ。これはもうたいへん、こたえました。そやから、教室で、全て覚えるようにと、で、ノートは、あまり使わないで、本に書き込むと、教科書に。そういう方式で、勉強してました。はい。それはやっぱり、非常に役立ったと思うんです。ですから、あの、授業中覚えると、帰ってから夜、遅くなりますんで、あんまりできない、風呂入ったりしてると。すると、勉強すること自体を、効率的にするようになりましたしね。まあ、嫌いではなかった出来はよくなかったけど。嫌いではなかったですね。はい。
・それで、まあ、あの、徴兵延期、停止になりました。あれまあ東條さんが演説したかどうか、議会かなんかでね、急にポンとなって、せっかく、徴兵、猶予をとったんですが、その時に私は、体力が、みんな弱かったですからね。兵隊は向いてないと、いう気持ちも当然ありましたし、つらかったです学校教練も。ですから、まああの、勉強一筋でやってたんです。でもまあ、教練では、あの、なんですか、えーっと、配属将校言うのがおりましてね大佐の。“さいとうけんじろう”というのが法政ではありまして、あの、その方が、あの、非常にいい方でしてね、うん、大佐ですけどね。それで日曜日なんか、乃木修養会というのが当時ありましてね、法政には。乃木大将のね、あの、遺徳を偲ぶということで、乃木神社に集まったり、それから、さいとうたいさは、よくあの多摩のほうとかね、あの、あちらのほうへ、日帰り旅行とかいうのを、やってくれてね。あの、とても楽しく、いい、いい、あの、軍人だったですね。そういう、ようなね、教練でもだから、絞られるということはなくて、行軍なんか行っても休憩したりして、あの、やってるだけっていう、まあ、絞いうことはしなかったですね。うん。よかったと思いました。
・それでこれ、ああせっかく徴兵延期したのに、ダメだなあと思って、思ってたらもう12月1日、入営、というこうだから。しょうがないなっちゅう感じでしたね、せっかく、あの兵隊行くのはやっぱり、あんまり好きじゃなかったと思うんです。ですから徴兵、延期をね、どうしてもしたかったです。そういう意味もあって、まあ専修も、両方かけてりゃ、先週は予科だから、大学に自動的に行けるし、法政は、専門部だから、もういっぺん入学試験があるわけですね、学部。まあ、だけど、どちらもね、まあ無事入ったんですが、はい。

○1943年(昭和18)10月21日、出陣学徒壮行会(明治神宮外苑競技場)に参加。

・あんまり覚えてないけども、ねえ、学校ごとに集まったと思いますがね、あれ天気悪かったですかなあ。それで、あそこから、あの、靖国神社へ行進したんじゃなかったかなあと思いますが。ただ、その程度の記憶しかないです。

○1943(昭和18)12月1日、中部第4部隊に入営。

・それから、その次行きますと、徴兵、猶予が停止になって、あの、軍隊ついて、えー、最後の、最後のもう、授業ね、大学入ってから。印象的なのが、あの、これは法政大学の刑法の先生でしたが、「みんな、あの、軽挙妄動しないで、やってってください」と、あの「あまり、あの、体大事にして」と、言われたりね、言われている、そうやね、それであの、調子のってはいかんなあという、なるべく、控えめにやるようにというような感じだった思いますね。うん、よかったと思いますそれについて。専修大学では、“こいずみ“先生、”こいずみ”学長やったかなと思いますが、演説されたかと思います校庭で。それは、覚えてませんけども、“こいずみ“先生のお話があったと思います。それで、ずっと続けてよろしいですか?その後は、あの、徴兵検査ね、その間ずっとあって、私は、第一乙か第二乙、種になって、甲種にはなりませんこんな体だから。でも、あの、その結果、えー、まあ歩兵、岐阜の、今度ね、歩兵連隊、68連隊と言いまして、中部第四部隊と、そこへ、入営が12月1日決まって、その前に、あの、成田山とかね、新居浜とか、伊勢神宮とか、あの、この、なんぶ神社とか、そういう、縁のある、ね、あの、命に縁のあるような、神社をお参りしたと、いうことだけですね、その入営前はですね。それで入営したと。で、入営したら、あの、岐阜の連隊は、かなり厳しい連隊でして、あの、中国から、戻ってきた、部隊だったんで、厳しかったですね。だけど、12月いっぱいはお客様、若干お客様扱いでしょうね。割合、あの、和やかにやってたけども、正月過ぎたら、あの、かなり厳しくなって来て古兵がね。でも、そこでは、あの、古兵、といっても、あの、この地方の人ばっかりでしたからね、あの、自分の、村の、出身の方もいて、非常に、かわいがってくれて、あの、困ったことがあったら黙って俺んとこから、物を持ってってもいいとかね、何でも失ったら持ってけとか、助けてくれたもんで、非常に助かった、と、思ってます。殴られることも、あんまり多くなくて、まあ連帯責任だけは、まぬがれられないけども、非常に、あの、初年兵としては、あの、楽な、初年兵だったと思ってます。いい方が、上にいたから、村の方で出身で。知り合いではないけどね、私らよりは、5つ6つ、上だったです。まあ3つか4つだったかもしれんけども、上の方ですね。農家の方ですから。知らないけども、むこうは良く知ってた。僕は知らないけど、むこうは。それで助かったですね。はい。もうその方は、あそこへ、あの、えーっと、えーっと、グアムのこちらの、サイパン、サイパン行きましたからね。あの年の、5月か、5月ごろにね、動員が、名古屋師団にくだって、だから全部、師団長以下全部行きましたもんね。サイパンへいかれて亡くなってます。サイパンで。伊藤、伊藤、兵長か上等兵かだと。幹部候補生は全部のこったですね。
・それからあとは、その時に、一月になったら、あの幹部候補生の試験があります。幹部候補生の試験は、兵科、歩兵の兵科と、経理と両方あるんです。で、経理のほうが、優先でした。経理部幹部候補生になりました。で、経理部幹部候補生は、当時、そうですねやっぱり、文科系では、一番、あの、誰しもが、一番受けて入りたいという、ね、えー、幹部候補生ですから、まあ、よかったと思ってます。で、仲間にもいろいろね、慶応やとかどっか、人もおりましたし、なんかいうたけど、経理落ちた人たちは、あの、乙幹といって、乙種幹部候補生ですね、下士官になる、それでもいいから経理行きたいなんて言う、行きたかったって、よく言われたりなんかして。
・(仲間が自殺)それはまあ、神経的に参ってたんじゃないかなあと思いますね。よくわからないですけれども。あの、実弾演習の時にね、弾を、5発もらって、つめた、途端にこうたてて、あれ、小銃でも、引き金を、押せるんだね、頭に当てて、ドーンと。ちょっとあれはね、意外な出来事でした。隣ではないと思いますが、一緒に並んでたと思いますその時。もう、2、3人前からとか、前に、後かな。私は小銃、嫌いだったです、目が、あの、あんまりね、良くないのと、腕の力がないと、悪かったですね、安定しないから。びっくりしたですね、名前は、全然覚えてません。学徒出身です。

○1944年(昭和19)2月13日、中部第2部隊へ転属。

・で、経理部幹部候補生になってから、2月、名古屋の、中部第二部隊といいますかな、お城の中の歩兵連隊に移りまして、そこで、師団の、集合教育。各、師団の中の、部隊から来た経理部幹部候補生全部、教育するんです。で泊まりは、その歩兵の、中部第二部隊ですか、教官は、全部、師団司令部から来て、で、師団司令部の講堂とか、仮校舎っていうのがありまして、そこの講堂で、だいたい授業をやったと。えー、その時、あ、ちょっと前後しますが、経理部幹部候補生の、あの、試験ですね。試験科目は、あの、覚えてるのは、えー、インフレーションについてと、いう、一問と、もう一問は、えー、緊急勅令についてと、この二問があって、私はまあ、経済も両方やってたし、あの、よく書けたなあと思ってたんです。たら通ってたわけです。まあまあこのへんは、両方行っててよかったと、二つ、そう思っていました。そのかわり名古屋ではもう、集合教育ですね。集合教育は、あの、非常に、なごやかに、やってくれて、非常に、楽して、勉強したという、ただ、春先から、夏、初夏のころですから、講堂でいつも居眠りばっかりしてたと、思ってたんですね。で、教授も、教官がね、兵科の教官が、週に一回だけ教練、っていうのをやりますので、で、適当に、どっかね、今でいえば、まあ、軍隊で言えばハイキングのようなもんかもしれませんけども、あちこち連れてってくれてね、少し、演習の真似事をしては、あの、終わったりして、非常に、いい環境で、やってましたです。そのへんは、経理に入ったし、教官もよかったんで、たいへん助かったと思います。

○1944年(昭和19)4月3日、43師団長が交代。

・堵列というのはね、その、師団長が交代する時の儀式なんです。で、サイパンへ行く前にね、師団長交代したんです。前の、師団長は、賀陽宮さんと言って、宮様だったんです。だから、その、そういう方を、サイパンに出すわけにはいかないんじゃないですか。で、斉藤、斉藤中将というのが来まして。それからあの、師団長になって、新しい師団長が代る時に、名古屋駅の駅から、あの、兵営、のところ、まっすぐあの、広い通りをね、両側で、歩兵とか、幹部部隊から、あの、選抜されたのが、並んでお迎えする、そういう儀式なんですね。それを堵列と言いまして。だから、宮さまは戦地に出さないんだ。

○1944年(昭和19)7月1日、陸軍経理学校入校。(第十三期経理部幹部候補生)

・それから、その年の6月ごろだった思います。ここに書いてあると思いますが、東京の小平市、に、北多摩郡か、なんかだね、小平町と言いましたあの当時は。そこで、あの、そこへ、行きましてですね、そこで、そこは、非常み、大きく広大な敷地にね、あの、校舎が建ってて、あの、ここも師団の教育と同じようなもんで、昼間、あの、勉強ですね。この勉強が非常に合理的でね、詰め込みを、非常に、きついけども、もう、教官が、教科書ありますとね、教科書で進むけども、しゃべったことは必ず、あの、プリントをくれるんです。プリントで、で、翌日の、次の時の、その方の授業には、必ず小テストをやるんです。徹底的に覚える。だから、遊ぶひまはないわけです。夜は、12時就寝ですけど、11時まで自習ですね。夕食とかそういうことはありますが、あの、それ以外、勉強、自習室で。で自習室には、一期前の見習士官になった経歴のね、その方が、一人、一つの教室というか、部屋に、自習室に、一人はついててね、わからんことなんでもいいから、聞けということでね、居眠りもできないし、宿題もたくさん出ますので、あの、毎日毎日が宿題で、で、宿題とテスト宿題とテスト、それで、やったんで非常に合理的でね、いい勉強をさしていただいたと思います。あの、軍隊経理、全般のことですが、お金のことから、あの、食物ですか食べる物、食糧っていいますか、それから衣服いう、それから建築のこととか、もうあらゆる、兵器以外のことはすべて、その間に叩き込むという、非常に合理的でしかも、あの、詰め込みの勉強、非常によかったと思ってます、あそこは苦労はしましたけども、みんなそれに耐えぬいて勉強したと、いうことです。で、ただ、あの、経理部の幹部候補生、は、経理学校五か月で卒業なんです。あの、幹部候補生はね。ですから五か月の間の、二ヶ月たった時に、あの、急に南方へ行く要員を、パッと選び出された。いっぺんに発表になって、だいたい4分の1、ぐらいかね、南方へ、転属ということで、南方はあの、シンガポールにね、南方総軍の、経理教育部というのがあって、まあ、経理学校ですね、の分校みたいなもの。そこへあと三カ月勉強すると、いうことで、戦況が悪くなってから、あの、行けないといかんということで、送り出された。で残りは、東京で。私は南方へ、行った、南方軍で。
・会計とか、あの、資金前渡官吏、国のあの、大蔵省で言う、あの、資金、お金を、前渡、前渡しで管理して、それを払って、給料払い、物を買って払うと、そういう、まあ一種の、なんですか、会計上の、地位というか扱える、資金前渡官吏と、その下に、資金前渡官吏の分任官といって、もう一つ細かい、下士官ぐらいがなるのがある。それを命令するのは部隊長が命令する。だからお金の、責任は、全部、あの、経理部将校がやるんです。お金とか被服とか、食糧とか、建築の材料とか、そういう衣食住全部、経理部将校がやる、仕事なんです。建築もです。それから建築の勉強も少しはやる。被服も、織物屋とか軍服屋とかありよるの、素材とかね、ああいうものをやるんですわ。短期間に。建てることもやる、それの、授業、というかね。ただ、建築だけはね、経理部の中に、建技という、建築の技術いう、そういう、あの、私共は主計やけども、建てる、ほんとの建てることは建技の将校がやる。だけどそれの調達は、我々が主計がやる。
・で、経理部にはね、主計と、建技と、えーと、あとは、織物なんかのね、被服、あれの、技術が、なんつったかなあ、その3つがあったんです。だけども主計が、一番、金もなんか持ってるんで、主計が中心になって。

○1944年(昭和19)9月6日、門司出港。

・で、9月のはじめに、門司港で乗船して、あの時はじめて海底トンネル、鉄道の、で、わたったんで、あ、海底トンネルだということでね、門司港で、乗船して、南方行の貨物船に乗船して、周防灘で、船団組むために、一週間くらい、待船というかね、おき待ちをしてたんです。で、一週間ぐらいしてから、出港して関門海峡、それで、玄界灘へ出たと。その時の船団は、まあ2、30杯ぐらいの、大船団でしたよ。低速でね。その大船団で、行きまして、無事、基隆へ着いたんですが、その途中でやっぱり潜水艦が出たとか言って、潜望鏡が見えた、みんな昼間、あの、それと思ったんですが、それは、ビール瓶かなんか浮いてたんで、そこへ、あの、大砲とかね、あの、撃ちこんだけども、そこまで当たらないし、ったら「あれはビール瓶やった」とか言って、話して、それで、基隆の沖から、基隆というかあの沖から沿岸沿いで台湾を、高雄へ着きまして、高雄で、そっから、南、バシー海峡ですか、あの、潜水艦が多いんで、ここは船団を小さくするって、行くということで、5、6杯の船団に分かれて、ぼつぼつこう、出港して行った。で、その時に、嵐にあって、台風だと思いますがね、で、バシー海峡は無事に渡れました。かえって、台風、来てたんで、潜水艦むこう、来なかったと思う。
・戦地へ行く時は、もう、特に、そういう感慨うってる暇がなかったと思いますのでね、もう、自然の流れだなっていうような感じで、いました。ただ、内地はお参りするやら、武運長久を祈るような、ところだけが、最後の見納めだと思って回って行った。その程度ですね。で、戦地行く時はね、一番やっぱ印象に残るのは、門司の港、関門海峡出る時にね、船団ずーっと、海ゆかばという、あの、ねえ、あのありますね、あれをみんな合唱して、出て行ったのが印象的です。

○1944年(昭和19)10月5日、北サンフェルナンド・ポロ港に入港。

・で、最初に見えたのが、ルソン島のアパリという港がね、遠くに見えまして、昼また着いたら「ああ、あれアパリだよ」ってみんなが言いだして、それからずーっと、北側から、西へまわり込んで、リンガエン湾に、ポロという港が、サンフェルナンド、市の、あのサンフェルナンド、という、北サンフェルナンドっちゅう、あの、町があって、そこの外港ですか、港、ポロというね、きれいなところですがそこへ着いたら、ここでもう降りるんだって、降ろされちゃって、で、次の船を待ってたらなかなか来ない。で、そのうちに、マニラ経由で、あの、コレヒドール島の横を通って、シンガポールに向かったわけですね。で、ちょうどマニラへ行くころは、あの、レイテ島でね、戦闘がはじまったところなんです。だから、「おお、こら早く行かないといかんな」と思ってたら、なんとか、マニラから乗船できて、あの、レイテ、あの、ボルネオ、ですか、パラワン、島と、ボルネオの沖を通って、それで11月3日に、明治節といいますかね、今では文化の日かなんかですが、その時に、シンガポールの、岸壁へ、着船しました。そうしたら、むこうの経理学校から、迎えがちゃんと来てまして、トラックに、乗って、岸壁で、しるこかなんか、ふるまってくれて、で、むこうの経理学校へ着いた。フィリピンはね、あの、2週間ぐらい滞在したと思いますが、あの、非常に、レイテ、島付近へ、アメリカが、くるということを待ってて、どんどんどんどん、あの、あそこ、関東軍の兵隊がね、その、リンガエン湾というのはね、ポロという港が、サンフェルナンドとも言いますが、そこへ上陸をダーッとして、そっから歩いて、レイテ島へ向かってた。それはすごい、兵力だったと思いますが、でそこで、まあ民家、あの、やることないからね、私共は。そこで、あの、住民との交流がいろいろあってね、下手な英語でしゃべったりみんな、学生上がりばっかりですから、しゃべったり、物をやったりもらったりして、楽しい、ちょっと楽しかったです。
・もう、えーっと、あそこはペソですか、軍票ね。ペソですが、内地で、コーヒーが、あのころ、高くなってたかも知れんけど、25円とか30、あ、25銭ですね、銭です、25銭とか30銭ぐらい、東京ではね。あそこへ行ったら単位が一つ違って、25円、30円とか、50円とか、それだけ、軍票の価値が下がってた。それで、内地から持っていったお金、日本円ですね、軍票でなしに。我々は、着いた時は、軍票なかったですからね、で、日本円持ってって、あの、家でちょっと、いくらくれたか知らん、千円ぐらいもらってったかもしれんけど、どっかに書いたかもしれん、持って行ったお金、瞬く間にね、もう、20円とか25円でしょう、100倍も違いますので、あの、びっくりしたですけどね。
それでも、あそこで、フィリピンでは、もう、レイテ湾へ、アメリカが来るということを、わかってる、始まるというところだったのでね、インフレがダァーっときてはったです。日本円の価値が無くなってる。それでも、内地の、日本銀行券と、現地の軍票では、100倍までの差があった、10倍とか。まだ日本銀行券がましだった、軍票よりは。もう、戦争はじまるとそんなもん。それで、シンガポールへ着いたですね、シンガポール行ったら、内地よりちょっと高い程度で、コーヒーでもなんでも、飲めたし、安定、治安が安定してると、貨幣価値も、日本の信用力ですね、貨幣に対する信頼度という、それはやっぱりね、治安が悪くなり、戦争が始まるいうたら、日本円みたいの持ってたってなんにもならんというようなことで、ダアーッと落ちて。それはやっぱり、あの、経理部幹部候補生受ける時には、インフレーションについてって、出てた。やっぱり、ねえ、そういうこと、わかってるんだ、経理部はね。だから、それを心がけてなきゃいかんちゅうことでしょうねえ。
・軍票はフィリピンではじめてですが、軍票は、あの、手に入らなかったです私共。一時的に上陸しただけですから、給料をもらったり金を、あの、もらったりしたことないですね。だから内地から持ってった、日本円で、やってた。だからまだ、値打ちはあったけども、こんな調子やったら家では大金貰って来たつもりやけど、瞬く間になくなってすごいなあと思っとった。

○1944年(昭和19)10月27日、マニラ出港。

・で、あとは、ボルネオがねえ、もう高い山ばっかりばあーっと、ねえ、険しい山だと思って、山脈だなと思って、それとあの、石油の櫓がね、海岸から見えたりして、「ああここはボルネオだ」と。その時に、あの、ボルネオ沖ぐらいで、日本の、海軍の、レイテ湾へ突っ込んだ海軍のね、あの、艦隊が、戦艦、なんかずーっと10杯か10何杯ぐらい、すれちがったんです。「あ、これからレイテ行くんだ」って。そこであれやられましたね。

○1944年(昭和19)11月3日、シンガポール上陸。南方軍経理教育部に到着。
                  (第五期生)

・で、まあ、南方の経理学校は、内地の経理学校と、同じような、やっぱり勉強の仕方で、詰め込みで、むこうは暑いですからね、眠たいの、ありましたけど、あの、勉強させられたですね。それが終わったのが、もう、3か月ほど遅れましたからね、内地の経理学校より。
・正式名称は、経理教育部と言いましたかね、南方総軍の経理教育隊、南方総軍の中に、第七方面軍というのが、そこの指揮下で、経理教育。だけど南方総軍の、中では、あの、それしか、経理、経理の将校を、あの、養成する、学校っちゅうのが、なかったですね。
・だいたい、あと、島のちょうどこうひし形の、真ん中付近ですね、ちょうど真ん中ぐらいです。あの、ブキテマ高地っていうのがありましてね、一番高いところは。それはあの、南の方に、あの、政庁といいますかね、市の政庁ですね、政庁、まあ市役所のようなもんですが、あって、そこが、官庁街で、そっから、あのジョホールバルって、マレー半島の、あの、ジョホール州の、あの、州都といいますか首都といいますか、そこ、王様が住んでいる町ですが、その、間に、こう、ひし形のね、島があるんです。それがシンガポールで、その真ん中ぐらい、そこが、あの、ブキテマ高地って一番高いところより、ちょっと町よりの、シンガポールの町より南に寄ったところへ、ブキテマロードと言いまして、第一番の幹線の道路ですね、あの、マレー半島から、政庁のほうへ、向かって行く。そこの、あの、道路わきにありまして、で、それは、もともとは、あの、えーっと、中国人がね、えー、南洋華僑、中学とかいって、ああ高校ですね。高校があったとこです、華僑の。立派な学校でした。で、敷地も広いし、あの、緑も多いし、立派な学校。それを、あの、経理部、経理学校が、あの、使わしてもらってる。

○1945年(昭和20)1月31日、南方軍経理教育部卒業。見習士官。
                  第7方面軍野戦貨物廠(総務部輸送科)に配属。

・一月の、末、ですね、卒業で、最初配属になったのが、えー、野戦貨物廠、第七方面軍野戦貨物廠でシンガポールにある、あの、物資を集めたり、補給したりする部隊、そういう仕事をやってました。で倉庫と、あの、トラックもって、運んで、そういう仕事なんです。で、船の積み下ろし、で私はそこで、船からの積み下ろしの仕事をやってた。そこで、の状況と言うか、いろいろありまして、港も、あの、B29の爆撃機が来てやられましてね、えー、あれはインドのほうから来るんですね、あの、あそこは正論島ですか、セイロンとか、それから、ベンガル湾の、あの辺から、B29が来てね、100機とか100何十機とか、いっぺんに、港がやられてしまいまして、焼夷弾でね、もう、二日三日、毎日ごうごう燃えて、燃やしてしもうて。それでも、徹夜で積み下ろししてね、これは、非常に、やりがいのある仕事でしたですね。その、状況が悪くなって、貨物廠も、洞窟掘りを、シンガポールで、はじめたんです。これは、あの、総軍の、命令でしょうね、あの、作戦命令というのがでまして、で、貨物廠の割り当てが来て、ブキテマの、高地の、一番高いところですが、そこの、北側の、マンダイという、マンダイ・ヒルと言いますかね、マンダイ山とも言ってます。そこで、洞窟を私ら、掘りまして、3つ、1、2、3、4つ掘ったですか、3つか4つ掘りました。だいたい、ね、500キロか1トン爆弾でも耐えるような、洞窟を作れって、奥へ奥へと、それで、洞窟掘りの、技術も覚えました。
・輸送船の、荷降ろしと積み込み。内地やとか、南方各地へ。あの物資はね、内地からは、弾薬とか、これは私ら貨物廠の、あの、管轄じゃないです兵器ですからね。弾薬とか、ああの、そういうようなもの以外だと、主に、内地からあんまり入らなかったかな、それでもいろいろ入った、たばこはジャワ、ジャワ島から来たりね、お米はビルマから来たり、あの、集めて行ったんです。それで錫はマレー半島からと。それで、そういうものは内地へ送るんです主として。生ゴムとかね。で埠頭の、あの、岸壁のところにある倉庫へ集めといて、船が着いたら、あの、積み込むと。だいたい、岸壁に沿って、あの、上屋という、倉庫ですね簡単な屋根だけある。それが一列二列あって、この二列目の、奥には、あの、鉄道、マレー半島から来た鉄道が入って、で、そっから、一列目の倉庫は、船から降ろしたら、すぐそこへ入れると。あの、屋根ありますよね、上屋というか。で、主に、むこうから内地へは、生ゴム、錫、それからキニーネ、あの、医薬品ですね、生ゴム、錫、キニーネ、錫はインゴットですねこういう。砂糖、お米、そういうものを内地へ、送り込んで、で内地からは、お菓子とか、あの、缶詰類とか、そういうものを、どんどんいれて、で、徹夜で、岸壁の、下ろしたら、ただちにトラックに積んで送る倉庫へ送る、それが輸送科の仕事なんです。で、船の中の、作業ね、あの、フックにかけて、網を、網に乗せて、で、積み下ろしすると、それも、貨物廠の仕事なんで、で船の中の、下ろすまでは、こちらだけど、中は、あの、船のほうで、あの、あの、チーフメイトっつって、あの、一等航海士ですか、積み付けを、やるんですね、傾かないようにいろいろ、あの、重さを、調整しながら、そういうことをやるチーフメイトに、引き渡すと、チーフメイトは、ここへ積め、ここへ積めって、あの、ハッチプランつって、これを積みたい言うと、ここへ、あの、船倉ですか、一番二番三番四番五番とかいって、あるもんで、船の中仕切ってあるんです。あの、片寄ると、船片寄っちゃいますからね。だから仕切ってあって、この、一番の戦争、二番三番四番て、そこをむこうが指示してくるから、チーフメイトが、そこへあの、クリーとか兵隊を入れて、あの、もっこいうやつですね。あの、大きな、網です。このぐらいの、家ぐらいある、そこへ、あの、貨物をね、梱包したやつをダーッと入れて、あの船の中に吊り上げて、下ろすと。で、中は中で、また、あの、しっかり積むことをね、専門の、傾かないように船が動いても、移らないように、やる人がいて、そういう人が、やって、それが積み下ろしの、あの、現場まで、持って行く、トラックで、そういう仕事ですね、それと、上げたら、あの、倉庫に保管するんですね、貨物を、それをあの、保管の業務。倉庫をだからたくさん持ってる、貨物廠。それは、お菓子から食糧から、被服から、そういう物をいっぱい持ってる。
・僕は、ハッチプランちゅうて、プランをもらって、ね、ここへあの、運べ、っていって、渡すと、みんなやるだけです。
・そこで働くのは、捕虜と英軍の捕虜と、クリーです。クリーって、中国人のね、あの、労働者です。これはまた、クリーっていうのは力持ちですね。100キロぐらいのね、お砂糖や米の袋を、担いでトントントントンと歩いて、あの、行きますからね、倉庫の中でも向こうはサーッと、積み付けやってきます。中国人ですね、力持ちやっぱし中国人、力持ちやで。中国系が、7割ぐらいが中国人、中国人の町です。それで、あの、3割を、インド人とマレー人と、まあ白人は少しですけど、そういう町ですね。
・ドウフメン、洞窟掘りの時にね、英国の捕虜が、もう、日本軍がシンガポール落としたころからの、捕虜ですね。伍長でした、ねえ、日本語が、上手なんです。で、イギリス、ロンドンとパリか知らんが、で、貨物の、輸送会社みたいなのやってると言ってましたが、そういう人で、大学も、やっぱり、2つぐらいでてるようなこと言ってました。で、日本語がね、上手なんですよ。で、日本語が上手でねえ、あの、私がしゃべること、みんな英語に直して、むこうの捕虜に伝えるもんでね、私は便利で、英語習わなくて、済んだっちゅうような感じで、それが今、ねえ、その時に苦労して覚えりゃよかったなあと思う、そういう、あれ、インテリですね、むこうの。で、だから、私はいつもドウフメン伍長を置いといて、あの、仕事を命令しておった。
・終戦近くなってね、イタリアが降伏しましたでしょ、そしたら、あの、シンガポールに潜水艦が来ておったんです。それがみんな捕虜になって。捕虜として使うようになって。で、イタリアの捕虜は、仕事、さしても、ちょっと、僕もね、先入観があったかもしれんけど、乞食の国だっていうような、ことを聞いてたんで、やっぱりあの、日本の兵隊がたばこ吸うと、吸い殻ほかるでしょ、そうするとそれ拾って、また吸っとると、それは、イタリアの捕虜で、イギリスの捕虜はそういうこと絶対しないですね。やっぱり、誇りを持ってる、民族だなあという、イタリア乞食だなあというような感じ、そのくらいの感じで、でした。
・捕虜を殴ったり、そういうことはしなかったです。あの、私の部隊長は、“とが“部隊長という部隊長ですが、捕虜にはあの、博愛心をもってあたれと、殴ったりそういうことはしてはいけないということを、こんこんと最初に言われとるんです。だからうちの部隊は、そういうことはやってないからね、だから戦犯も出てないはずです。立派な隊長でした。大佐ですけれど、よかったです。誰も殴ったりね、虐待したりすることはなかった。
・台湾の軍属はほんとに、日本人と同じ感じで、働いてくれた、仕事やってくれた。で、朝鮮は、朝鮮の軍属は直接使ったことないです。台湾はいっぱりおりましたけれど、うちの部隊の中にも、入ってましたけど。朝鮮はね、空襲警報が、出ると、ね、みんなあの、持ち場をほかって逃げてってまうという、話を聞いてたんです。それで、しかも、あの、捕虜の、支給する、あの、食べ物とかいろんなものをね、それはうわさだけども、ピンハネして使ってる。で、全部行き渡らない、それでね。ピンハネするとかいう話を聞いてる。台湾の人はそういうことなかったですね。うん。それだけ、違ってたわけです。台湾はほんとに、いい方が、来てましたね。
・まあ、いい悪いというよりも、日本が、勝って、くれるということは、あの、嬉しいことだと思ってましたもんね、うん。世界に伸びるチャンスだと思ってますね、羽ばたくね。そういうような気持ちは、もう自然に起きてましたね。まあ、イギリスに勝つ勝たんとか、そういうことではなしに、戦争に勝って、あの、海外で、働けるというのは、いいことだと思ってましたね。旅行したりすることができるんだろうから、そういうようなぐらいの気持ちですね。だから関心はありましたけどね。えー、悪く、今のような、悪い印象を持たれるようなことは、しない、してないし、そういう考えもなかった。
・終り頃は負けると思いましたよ。もうシンガポール、それから、あの、レイテやられるころはね、もう危ないかなと思ってた。それは、感じてましたね。もうシンガポールで捕虜と働いてると、ねえ、日本はもうすぐ負けるよっつって、いうのが耳に入る、捕虜たちからね。だけどまあ、それは、我々としては、あの、快いものではないけども、そうなんだなというね、ことは思ってました。いづれは勝てないんだろうという、もう2月3月前から、捕虜の間では、そんなことはささやかれていたようですね。

○1945年(昭和20)8月10日、独立砲兵第13連隊に転属。
【※独立重砲兵第13連隊か】

・そんなことで、終戦になって、終戦になる時に、今度は、あの、ボルネオとか、あボルネオじゃない、あの、スマトラとかね、小スンダ列島とかねあの、あのへんから寄せ集めて来た、砲兵隊、で、あの、砲兵第十三連隊という、あの、連隊が編成されて、そこの大隊附主計になって、そこで、終戦、もうずうっと、復員まで、やりました。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・終戦の時はね、あの、私は砲兵部隊へ転属したばっかりです。そこで、あの、終戦の、まあ勅諭というかね、御言葉があるということで、将校は全部、あの、砲兵の部隊ですから、あの、全部集まりまして1ヶ所に。で、玉音放送を、聞くという。ただラジオは、あの、なかなか、聞き取りにくいことだったけど、負けたなっちゅうことはわかりまして、だけどその時に、本ちゃんの将校ですね。連隊長とかいう、あの、士官学校出たような、将校は、ほんと涙流して、あの、聞いてましたけど、まあ私は、もうそのへんは、あの、涙流すということはなかったです。もう、まあ、前もって、前々から聞いていたしね、捕虜からもね、それやからまあ、来る時が来たという感じで、あの、みとっておったという感じ
です。

○1945年(昭和20)8月20日、少尉任官。

・で、あの、終戦後は、英軍が、入ってきましてですね、ですから、英軍に、引き渡す、物資のリストとかなんか作って、英軍で作って渡したりして、やってまして、そのへんが引き継ぎが無事終わって、マレー半島の、あの、南部の方をね、あの、移動させられて、あちこちで、でレンパン島というところへ、あの、最後、送られた。

○1945年(昭和20)11月13日、レンパン島へ上陸。

・でレンパン島へ行く前に、検問、というか検査があるんです、一人一人、英軍将校、と、下士官兵がついて、4、5人で、一つの、あの、単位で、10ぐらいの単位で、動いて、ずーっと並んで、で、持ち物所持品検査やとか、あの、どこへ、あの、戦闘やって来たとか、そういうことを聞いて、戦犯を、そこで捕えたんだと思います、捕まえようとして。だけどまあ、我々の部隊はそういうのはなにも、ひっかからなかったです。そこで、それから、その前にもう全部書類なんか全部焼いてしまって、ないで、もう、裸のような形で、レンパン島へ行きました。ですからもうそこで証拠品になるもの、書類もなんにもなくなったです。で、レンパン島は、11月か12月に着きまして、そこで開墾して、開墾して
タピオカとか、サツマイモとか植えて、野菜とかね、で、自活、ですね、現地自活と言う、で、あの、食物を一緒に、野菜とか食べる物、野菜とか、そういうものを作って生活してたんです。それが、翌年の、3月、4月ごろ、から引き揚げが始まって、私共は、あの、うちの部隊は、一番後でいいっていうようなことで、一番最後のほうで、21年の、6月、6月ぐらいですかね、あの、最後の復員ですね、ほぼね。島中もう空になって。で、島は、道路作ったり畑作ったりして、かなり、開墾された、その状態で。

○1946年(昭和21)6月21日、レンパン島復員船V54号(リバティー型貨物船)にて出港。
○1946年(昭和21)6月28日、宇品上陸。

・で、内地着いたのが、7月の、6月のおわりか7月のおわりだったですね、約、2週間ぐらいかかったですかね、船の足が遅いから。そんなふうで、内地、宇品、広島ですね、あそこへ上陸しまして、あそこでDDTとかなんか、あの、米軍の、あの、消毒や検疫やられて、それで復員しまして、復員の時は、あの、帰る、先までの、切符ですね、鉄道のきっぷと、まあ食糧と、乾パンといっても、芋の、芋を焼いた、ような乾パンをね、一日、二日分か三日分ぐらい、くれて、それで、帰りまして、それでまあ、もう、学校は大学は、休みでしたからね、夏休みになってて。ったら、家のほうに手紙が来てるよっていうね、学校へ来てくれといってきてるよということで。それで、大学行って、手続きして復員。
それでその年の、21年の9月ごろから、両方の大学復学して、またずうっと勉強したんです。その時に、1年生は2か月ぐらいでしょう、正味1ヶ月も勉強してない、その時来たらもう2年生だって、夏休み過ぎてから、あの、下宿するとこもないのに2年生だって、で、2年生終わって、3年1年ぐらいしか勉強してないで、卒業ということでしたから、まあ、あんまり勉強してない、学生になってしまったんです。若いころは一生懸命やるつもりで、もう、その頃は、卒業だけ出来たらええよというような、あの、それでも、勉強としては、陸軍経理学校の勉強方法はね、やっぱり身に着けました。それで、短時間やけども、かなり身についた勉強が出来たと思います。1年足らずで、3年分、勉強したというような感じです。

●最終階級:主計少尉

参考:「私の軍隊手帳」小牧治市
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2014/01/23(木) 11:05 | | #[ 編集]
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