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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大阪キャラバン後半、10月19日(土)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎正田信夫(しょうだ・のぶお)さん(※旧姓:織田)
収録日:平成25年10月19日
所属:中部第131部隊【※第1気象連隊】~中支派遣隼9880部隊【※第4気象連隊】新垣隊中西班~北支派遣隼1622部隊【※第1航空教育隊】赤間隊若松班~隼9880部隊椎屋隊
戦地:中支(南京)~北支(石家荘【※石門とも】)~朝鮮(京城)
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○1923年(大正14)3月8日、京都府生まれ。

・中学校を卒業後、川崎の日立工作機に勤めていた。
・当時小学校の集会などに出ると予科練に入った下級生がいた。彼らが「僕は飛行機乗りでね、織田さん、飛行機はよろしいで」、と言うのを聞くと苛立ってくる。後輩がこういうことをしているのに、自分たちは呑気にしすぎではないかと思い、軍隊へ志願することにした。
・当時は同じ兵隊になるのなら花形の飛行兵になって最期は自爆するという気持ちだった。早く飛行兵になるには、海軍がいいのか陸軍がいいのか探し、最初に予科練を申し込んだ。
・予科練は学科試験を通ると、広島の大竹海兵団で三日間かけて二次検査が行われた。二次検査は息をどこまで止められるかなど、飛行兵になれるかどうかの適性検査。この検査が終わり、自宅へ帰った後に合格通知が届き、岡崎海軍航空隊へ昭和19年7月20日に入隊が決まっていた。
・予科練に合格が決まった後も、入隊が早いほうに行きたいと考えていたので陸軍の特別幹部候補生にも受験。身体検査や学科試験の一次試験を通り、二次試験も予科練のように適性検査を行うものだと思っていたが、四日市の第1気象連隊に出頭するとそのまま軍服に着替えさせられ入隊することになってしまった。

○1944年(昭和19)4月20日、中部第131部隊【第1気象連隊】に入隊。

・上官に「話が違う」と言ったが、ハガキの下に「入隊することはありうる」ということがちょろっと書いてあった。「帰らしてくれ。私は海軍に7月20日に入隊通知が来ていて待ってるぐらいや。陸軍も適性検査やっていうて僕は来て、なんの書くものもせんと来てるさかい、帰らしてくれ」、「陸軍はもうやめさしてくれ、詐欺や」と訴えたところ、ひどく怒られた。
・一期の検閲が終わる7月30日までは、軍隊では散々、「国賊」とまで言われた。「そうやない、私は海軍へ行くんや。軍隊を忌避して逃げてるのと違う。それをお宅のほうは二次検査や言うてやな、その日に軍服着せられて入隊や言われたらな、覚悟もできへん」と言ってぐれていた。
・軍隊の中にも同情する上官と馬鹿者にする上官がいた。同情するほうは「なんとか国に言うて、君の言うてるとおりのことを、正しいさかいに、なんとかする」、もう一方は「人を馬鹿にしとるのか!」と殴る蹴る。もう散々な目に遭った。
・「なんとか息子さんを改心して、この事件はもう納めてほしい」ということで、両親が部隊に呼ばれたことがあった。「信夫もいいかげんにしとけ」、「いやいやこれは絶対わしはおかしい、二次検査や言うといてやなあ、軍服着せてやなあ、潔く僕らはなあ、国のために尽くそう思ってんのにやなあ、こんなやり方はあかん」。父親も依願書を書いたりしていた。
・最後に連隊副官の泉少佐に呼び出され、「お前裸になれ」と褌一丁にならされて、副官も褌一丁になり、「男同士、裸で話しよう」と、いろいろこんこんと話をして、「お前の言うてることは正しい」。そして嘘かどうかは知らないが、「飛行機があらへんのや、そやから操縦士はいらんのや。そんで君は気象兵の部隊に入ったんや」と言われ、飛行機もないのなら操縦もできないだろうと泉少佐にほだされて、「わかりました。海軍は断ります。陸軍へ行きます」。それでもうその事件はその日で一件落着。
・中学校では軍事教練があった。現役の将校が来て戦闘訓練を教える。その時に学生でありながら、この男は下士官であるか士官であるかを見極めている。その記録を見て、士官適であれば軍隊の中で試験を受けて、だいたいは士官になれる。その時には下士官の適任者であると選別されていた。
・6月ごろに幹部候補生の試験があった。その時は揉めていたので、別に士官になる気もなく、早く陸軍から出してほしいと思っていた。試験当日になって、「織田候補生!」と名前を呼ばれると、「貴様!幹部候補生の試験を受ける資格なし!」と言われたが、自分も「はい!私ももともとそう思ってません!」と逆らった。試験を受けさせてくれないし、こっちもする気がないという状況。しかし、気象兵というのは勉強をしているとおもしろかった。

○1944年(昭和19)7月20日、一期の検閲終了
○1944年(昭和19)7月22日、転属命令受領、在南京第4気象連隊へ。

・一期の検閲が終わると命令が出て南京へ行った。
・軍隊の内務班は35人ぐらいで、班長が各部屋に寝泊まりする。班長はだいたい下士官の伍長か軍曹で、古参兵が2人ぐらいつく。鈴鹿では散々に殴られて、もうイの一番に自分。目の敵にされて、「貴様そんな精神持っとったらあかーんッ!」と言って殴られた。
・南京に行ったら人が足りないのか、1班の班長が准尉、入った2班は曹長が班長だった。その人達は軍隊の裏も表も知っているので殴って矯正することはない。3班と4班は軍曹伍長の班長で、毎晩のように叩かれていたが、こちらは「はい、終わり」、「勉強しとけよ~」、「今度はこれが試験に出るかもわからんで~」と言うだけだった。
・給料は日本円にして、ひと月十円程だったと思う。野戦郵便局へ振り込まれ、自分で出したい時には、班長に言っていた。
・儲備券、いわゆる軍票を使っていた。それが値打ちがどんどんどんどん下がっていった。
・内地では四日市までは遊びに出ることが出来た。中支では引率外出があったが、単独外出はなかった。現地まで行って、「何時までここへ帰って来い」ということで解散する。その時に軍人専用の喫茶店があったが値段が高かった、カレーでも食べたら月給が飛んでしまうくらい。インフレで毎週値段が上がっていった。
・父親と親しかった領事館警察の人からお金を貸してもらっては、父親が日本円でその人に返していた。
・気象兵の仕事は、1時間おきと4時間おきに、気圧、温度、湿度、風向風速、晴れ、視角、視界などを定期的に計り、すぐに無線で、東京なら東京、南京なら中支の、気象隊本部へ連絡をする。本部はその情報を受け取り、集めた情報を今度は発信する。自分のところで計った情報だけでは天気予報にならないので、その情報を記入して天気図を描く。今でこそアメダスがあるが、自分たちは鉛筆で、等圧線といったら同じ気圧をたどり、それの中心はどこかというようなことを拾いあげていった。そして4時間前の天気図と比べて、この高気圧はどこへ行くか判断をして、それで天気予報をしていた。
・実戦にはあんまり使っていなかったが、風船飛ばしというものがあった。赤い風船にヘリウムガスを入れて、一分間に100メートル上昇するというもとに飛ばし、それを陸上で測量する。その風船は、風がない時はすーっとまっすぐ上がり、風がある時は横に飛ぶので、それを逃がさないように、見て追いかける。そして一分ごとに一人の兵隊が、緯度、高度、を言っては書いていく。それによって、高空の風向などを見極めていた。
・その次に高空の温度と湿度を計るため、2メートルの風船にラジオゾンデという発信器を付けて4時間おきに飛ばしていた。発信器は自動で湿度と温度を計って電波を発信する。
・夜は風船にロウソクや電池をいれ、明かりをたよりに観測し、気圧と湿度を計って記録をとっていた。
・勤務は交代で24時間勤務。
・陸軍では天皇陛下から下賜された兵器なので、銃をおろそかにすると殴られることがあるが、気象隊は銃ではなくガラス製の温度計を割ってしまうと殴られた。
・気象情報でも暗号が使われていた。暗号書は赤い表紙で当時4冊あった。乱数表といって、4冊とも全部数字ばかり。そして今日は何冊目の何ページの何行目のところからはじまるということが前もって知らされる。数字は1、2、3、4ではなく、勝手に印刷されて、各部隊が持っている。それをあらかじめ暗号の下の欄に書く。天気予報も数字の暗号で送られてくるので、その暗号に乱数表の数を足し、末端の数字だけを書いていく。そこで出た数字の○番目が、地点名であったり、何ミリバールの気圧であったり、温度や湿度であったりと決まりがあり、それを訳していかなければならない。発送するほうは反対に、情報を暗号で送っていく。気象兵は送信はできないが、聞く方の勉強は入隊した時からする
。まず最初に数字から覚えていき、後のほうになるとだいたいの文章がわかった。
・暗号を受け取った紙は、だいたい部隊で集めて燃やすなどしていた。ある日、仲間が便所に紙を落としてしまい、班全員で便所を探して、出てきた紙を水で洗って干して返したということもあった。
・乱数の暗号がなぜアメリカにわかったのか、絶対にむこうにわかりっこないはずやと思っていた。
・食事は一日おきにパンと、それから高粱飯。おかわりはないが量は足りていた。
・おかずは魚のフライが一番のごちそうで、あとは南瓜を炊いたものと小豆と炊いたものが多かった。
・毎日一人一個ずつ与えられる饅頭が楽しみだった。饅頭は炊事場を出てから炊事当番やいろんな使役を通って行く間に盗まれてしまい、班で40人いたら40個になるのが、25個や35個になっていた。すると今日は25個までで、翌日はまたその後の人からもらえる。饅頭と早朝の不寝番を取引することもあった。
・私的制裁は禁じられていたが、平気で行われていた。班長が殴ると自分の手が痛いので、巻脚絆を巻いたもので殴られた。他にも最初は平手、それから拳、それからあの、皮のスリッパでバチーンとやられる。軍靴の底や竹刀、木銃で尻を突かれたり、それから帯革で叩かれる。制裁を受けたあくる日に、身体検査が行われたことがあり、そこで裸になると傷がみんなについていた。軍医に「この傷はなんや」といわれても、「○○班長にやられました」とは言えないので。「いえ、なんでもありません!」と答えていたが、そのことが問題になり、結局ばれてその班長は怒られていた。
・南京は連日40℃越えだったと思うが、電線に止まったすずめが落ちるというぐらいの暑さ。今年の暑さでもみな暑いと言うけども、あの時のことを思ったらましだと思う。
・おもしろいことに南京の兵舎は急造の兵舎だったので、風呂は15人程しか入れなないものだった。夏の間は水道でシャワーを浴びたりして、お互いに石鹸をつけて外で洗っていたが、10月ごろになるとそんなことをしていられない。15人で入ると、7人か8人、湯船へ入る者と体を洗う者とに別れる。それを待っていると寒い。そして「もうこんなやったらやめやー」と言って、10月の半ばごろから風呂に入ることをやめてしまった。「人間は風呂に入らなくても絶対死なない、かえって風邪をひいて死ぬよりはましや」ということで、12月の卒業まで風呂に入ることはなかった。北支に転属になる時にはじめて軍服を洗い、みんな立つ鳥あとを濁さずということで風呂に入ったらもうなんともいえずよかった。

○1944年(昭和19)12月26日、南京発。

・貨車に乗り、揚子江を渡って、北支の石門へ。内地から南京へ来る時も、日本の汽車は客車だったが、釜山から南京までは貨車だった。トイレもなく、秘密だということで貨車の扉は少ししか開けられない。小便だけはその隙間からしていた。昼飯や晩飯が与えられる時には長時間停車するので、大便はその間にしなければならながその途中でもよおす人もいた。すると「かまへんよ!行けー!」と降ろしてその前で大便をさせて、ボオーッと音がしたら「おい走れ!」と引きあげて、そして移動していた。

○1944年(昭和19)12月29日、在石門第一航空教育隊着。

・南京から石家荘へ行く時はもう12月の暮だったが、貨車に暖房はなく、朝起きたら貨車の天井につららが下がっていた。そうした状態で北支へ行ったので、みんな凍傷になっていた。晩の10時ごろに到着して申告すると、みんな手が凍傷になっていたので、「こりゃいかん。温めさせなあかん」と、風呂へ連れて行かれたが、終い風呂だったのでもうお湯がほとんどなかった。浅いところへ横になり、「これがほんとの浅臭湯や」と言っていたが、そのおかげで凍傷にはならなかったと思う。風呂から出て自分の兵舎へ帰る間に手ぬぐいが凍ってしまって棒になっていた。北支はそんな寒さ。
・正月には大きな餅が一個入ったすましと黒豆が出て、ちょっとだけお正月。「軍隊の正月ってこんなんかなあ」と味わった。そして4日ごろからまた訓練始まった。
・軍隊でもどこでもそうだが、上官は部下の性格や出身地などを一人ずつやっぱり知りたい。班長謁見といって、部下が班長に呼ばれることがあった。自分の番がきて、「織田候補生参りました!」と言ったら、「座れ」と言われ、「お前は内地で何をしたんや」、「実はこうですんや」、「おおそうか。わしもお前を見てたらな、そんな悪いことするような人間やないし、今後それを捨てたろう。わしはそんなことお前はする気はないと思う。それよりも成績がやな、内地は端末やったのに、中支ではええ成績を残しとる」。内地にいる時に事件を起こしていたので自分の履歴書には赤い付箋がついていた。班長は「わしはそうは思わん。こんなものをつけてなあ、ずーっと軍隊周ってたんではあかん」と、目の前
でその履歴書をちぎってストーブで燃やしてしまった。「そのかわりお前がんばれよ。わしも応援するさかい」。あの時はびっくりした。それからその班長に対しては、もう一生この人には仕えていかんとなあと思った。
・北支では気象の勉強と合わせて下士官の教育を受けた。
・石家荘の部隊の炊事場では中国人を使っていた。うどんなどをうまく作っておいしかった。朝、出勤して行く時に「おはよう」と言ったら、「ニイハオ」。中学校の時に敵性語ということで英語が廃止になって、代わりに中国語を勉強していたことが役にたった。単語だけで発音は知らなかったが通じた。
・北支へ行ってから空襲が激しくなった、部隊にあった飛行機を目がけて、アメリカの戦闘機が攻めてくる。それを撃ち落とせということで、飛行機の周りにタコツボを掘り、むこうは飛行機目がけて来るので、差し違え戦法でその飛行機を撃つ。こっちも飛行機に搭載していた30ミリの機関銃を降ろしてきていたが、当たりっこない。
・考えてみたら実弾を撃ったことは10発ぐらいしかない。石門でアメリカの飛行機を撃ち落とせということで鉄砲の弾を撃ったが、鉄砲を撃つために銃身が火薬で錆びる。最初は撃ったらその晩に一生懸命銃身を掃除しなければならなかった。飛行機にあんな小銃では当たりっこない。「そんなもんやめや。当たりっこないのにそんなもん撃て言うたって撃てへんやないか、やめとこう」となり、壕から「この指【※右手人差し指】だけ出しておけー」と言っていた。軍隊ではこの指がないと小銃が撃てないので兵役免除になる。
・一番怖いのは爆撃。石門の駅を狙って来た。爆弾の落ちた明くる日、線路の修復に駆り出された時にまた空襲があった。飛行機の弾倉が開いてるのが見えて、そして線路に沿って来る。「来たぞー!」「ここやー!目標ここやでー!」「それ逃げろー!」と言って、はじめの間は線路に沿って逃げていたが、後で両側に逃げたほうがいいことがわかった。あの時の心理はやっぱり嫌なもの。銃撃の時はタコツボへ入ったりしたが、爆撃の時は遮蔽するものがなかった。
・飛行場にあったのは戦闘機で、一式戦と三式戦を見た。「あれが三式戦やで」と教えてくれた。三式戦はエンジンが空冷で形が違ったので、覚えてしまった。
・飛行機は置いてあるぐらいのもので、毎日練習してはいなかった。
・米軍機が飛行機を狙ってくるので、三日間か四日間教育をやめて、部隊総出で本物の飛行機にちかい囮の飛行機をアンペラで作った。それを地上に置き、その周辺に機関銃や穴を掘って待つ。その囮を目がけてP51が撃ってきた。

○1945年(昭和20)6月7日、並業検閲。
○1945年(昭和20)6月14日、特業検閲。

・学科試験ののちに、特業(気象)の試験があった。並業は陸軍のいわゆる歩兵のすること。航空兵といえども最後は歩兵だった。
・2人で天気予報を競い、将校が見ている前で無線を打ったり、天気図を描いたり、いろんなことをして時々質問される。それに的確に答えなければならない。天気図が出来ると予報しなければならなかったが、これだけは天気なので、天気図を見て、「これから一時間後に風塵(黄砂の前の風)が起こります」と、ハッタリをかけて言ったら、試験が終って将校が講評している時に本当に風が吹いてきた。それから「お前の予報はなんじゃ!」ということになって、「え~、こんなこともあるもんかなあ」と思った。最終的に軍司令官賞をもらうことになり、内地出る時は成績が端末だったのになあと思った。その時に軍司令官賞で万年筆をもらった。
・検査が終わると元の所属の第五航空軍へ戻ることになった。戦争末期だったので第五航空軍は京城へ移動していた。

○1945年(昭和20)7月8日、京城着。原隊復帰。

・京城では小学校か女学校が兵舎になっていた。教室はノミだらけで、足に纏いつくのがわかる。寝る時には屋上へふとん持って上がっていた。
・ここでまた転属して南満州や北朝鮮に行った人が多かったが、自分の名前は出なかった。連隊本部勤務でえらい人に敬礼してばかりだったので、転属したかった。
・気象兵は飛行場に部隊があって、下士官が5、6名で測候所を開く。そこで無線を聞き天気図を作る。日本と中国の地図があり、それに天気を描いていくことが気象兵のだいたいの仕事。
・食事は飛行場大隊からもらうことができる。飛行場大隊や航空部隊は、一般の部隊の食事よりよかったのでみんな転属を喜ぶ。先輩に聞くと、朝4時間おきにと1時間おきの温度や気圧を計る仕事を、勘で報告する時もあるということや、蒙古あたりでは起きても外へ出ずに家の中から計って報告し、それでうまいものを食べていたということで、「転属すんのが一番ええんやで」言っていた。
・結局自分たち10人は、転属しないで京城の測候所に勤務することになった。だから敬礼ばかりしていた
・転属して満州へ行った人の中には、その後に戦死した人もいた。
・天気の情報を受けとるため、アメリカのRCA社のラジオを使っていた。このラジオのダイヤルを回すとアメリカのニュースを聞くことが出来る。知らん顔をして回すと、「日本軍はまもなくポツダム宣言を受諾して、戦争は終わります」と日本語で言っているのが聞こえた。本当はいけないがみんな波数を覚えいて、戦況についてもこのラジオでだいたいわかっていた。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・日本は負けたことがないと教えられていたので、「えらいことになりおったで」というのが、まず第一印象。そして「これから先、どないしていったらええんやろ」、「日本はどないしていくんやろ」ということが頭に浮かんだ。
・測候所から帰ろうと思ったら、ロシアの領事館にはロシアの国旗が上がり、朝鮮は朝鮮の国旗上がり、中国も上がっている。「ほんまに日本軍が負けたんやなあ」。その時そういう感じを受けた。
・あの時に一番暴れたのが朝鮮。どんな恨みがあったのか知らないが、日本の家へ押し込んで掠奪や嫌がらせをするので、「兵隊さん、すんませんけれども、出られるか出られへんかわからんけども、一人でおるさかい家で泊まってくれ」という要請があった。軍人が一人いるとその家には来ない。その頼みにこたえて内緒で行った者や、外出すると言って行った者など、いろいろあった。
・戦争に負けたので、インドシナ、ビルマ、タイなど南方にいた軍隊から歩いて中国、満州を通り朝鮮へ入って、そして内地へ帰るという計画が全軍で出た。朝鮮にいた兵隊は、朝鮮で農業をして、引きあげて来る軍人の食糧の増産にあたることになり、帰国が一番遅れることになった。内地が目と鼻に見えて泳いで帰れるのに。「ええ!4年間もわしらここで百姓せんならんのか」。
・すると蔣介石の報恩のおかげなのか、その計画が急に変更になり、「もうじき、船に乗って帰れるぞ!」と言われて帰る準備をした。それから釜山へ船がつかないということで、蔚山まで退避させられた。
・蔚山で約一ヶ月待機。
・韓国人と野球をした。その土地の野球の好きな韓国人が集まったと思う。「兵隊さん、野球の試合をしよう」ということでやって、結局韓国人が勝った。その時に突き指をしたが今も治っていない。
・下士官になると軍刀もらえる。普通はいわゆる軍隊支給の下士官軍刀だが、内地の親元から日本刀を送ってもらって使ってもよかった。しかし結局任官までに時間がかり、終戦になってしまったので、持っていた人は、せっかく送ってもらったんだから使おうじゃないかと山へ木を切りにいった。その時に剣道を知らないので、木を切ってそのまま自分の足を切ってしまった人もいた。
・蔚山で米軍の私物検査があり、時計を盗られたてしまった。出せと言われて、みんなが出さんないと、あとで発見された場合は部隊全部が帰れなくなるとお達しがあって、人によっては石鹸をくり抜いて時計を中に入れようかとか、靴下に米を入れてその中に秘密書類を入れようかなどと考える人もいたが、「とにかく帰らして、気持ちよく帰るんや!」ということでそうしたことはしなかった。
・トラックもなければなんにもないので、雨の中を夜行軍で、蔚山から釜山まで歩いて船に乗った。
・船に乗のると台風が来ていたため一晩待ち、あくる日に出港。

○1945年(昭和20)10月3日、釜山出港。
○1945年(昭和20)10月4日、仙崎港入港。

・上陸後、復員式して解散。あとはもう自由に自分のお金を使って帰ってくれということだったので、そこから汽車を乗り継ぎ帰宅。

●最終階級:陸軍伍長。
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