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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大阪キャラバン後半、10月19日(土)に伺った証言の概要です。
麗によって詳細版をメーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎福原陽平(ふくはら・ようへい)さん(86)
収録日:平成25年10月19日
所属:陸軍加古川航空通信学校尾上教育隊【※特幹1期】~天津飛行場の部隊
戦地:北支(天津)
――――――――――――

○1927年(昭和2)12月12日、島根県生まれ。

・鳥取県立米子工業学校機械科に入学。
・戦争中はねえ、エンジニアいうたらねえ、軍事、えー、軍需物資作るからねえ、もうすごくもてはやされて、工業学校卒業したら、大学生を、全部、大学卒を全部使うて、仕事をして、できてねえ。こっは技術あるから、大学卒は技術ないから、だから、ええ思うて、機械科へ入ったんですわ。
・僕は米子工業学校の時に、下宿しておったのが、米子の時計屋でしたよ。で時計屋に下宿して、おった時に、あの、今、今でいうたら韓国の、朝鮮の、作業員が、あの、米子のほうへ来てましたよ。境港とか飛行場があったからね。そこへ作業に来た者が、あの、時計屋に、時計の修理に来たんですわ。それで修理してやったら、持って帰って、から後から、その、作業員が、「あそこの時計屋で修理したら、時計換えられた」言うてねえ、あの、上のほうに言うたらしいですわ、作業のねえ。それから、そっから、そこの時計屋へ、電話がかかって、「お前のところはこの作業員の、時計換えてはないか」言うて、あの、言うとる言うてねえ、それで、そんなことはしてない、ことは事実で、そんな、交換したっ
てどういうこともないからねえ、「換えてない」言うて、そうしたら「ちょっと来い」言うて、交番所にちょうど、おばさんが呼ばれて行きましたわ、僕のおばですけども。そこ行って、あの、この話した時に、「うちはそんなことしません。うちの息子は、陸軍士官学校に今行ってます」言うたら、コロッと変わってねえ、「ああ、そうですか、それは絶対にそんなことありません」言うて、すぐ、帰された言うて。で、僕のいとこでして、ちょっと上やったけどねえ、米子中学から、士官学校出て、士官学校入って、おったから、言うてましたなあ、それがちょっと成績良かったから、陸士、受けたから、合格してねえ、それで、「息子は士官学校行ってます」言うたら、巡査の態度がコロッと変わって、もう帰
ってもいい。帰りおったです。そんなこともありましたわ。戦争中のねえ、話やけど。
・やっぱり、日本の国を思うて、少しでも早く、軍隊に、入って、奉公しよう思って、入ったんです。私はもう子供の時から、もう、軍国、少年でしたからね。だから、そんな具合で、軍隊入ったほうがええやろ思うて、入ったんです。
・試験は、作文と数学がある。それでまた、僕はどうかしらんけど、よかったみたいですわ。うん。工業学校で何人か受けたけど、僕一人ぐらいしか入らなかったし、その時、米子中学いうて中学校があったけど、そこでも、一人しか、入らなかってねえ、それと一緒に、行ったんですわ。
・大津に行って、二次試験いうのが、あるんですわ。それで、操縦に行くか、なにか、操縦士やろうねえ、うん、飛行機の操縦士の、二次試験があって、それを、は、落ちたんですわ。軍隊もそのつもりで、通ったんやろうねえ、操縦士になろう思うて。そやけどとうとう、胸囲が小そうて、体が、合わんかったから。で、通ったものは、大刀洗に行って、特攻隊に、まわされたかわからんです。そこで落ちとってよかったかもわからんです。
・両親には、ちょっと、島根県から、米子はちょっと離れてるんで、下宿してましたんで、両親には内緒で、あの、受験はしたんです。ええ。それで、甲種合格になってから、はじめて両親に打ち明けて、行って来いということで、それから、あの、出征しました。学校からみんな、同級生に、歓呼の声で送られて、行ったんです。

○1944年(昭和19年)4月、陸軍加古川航空通信学校尾上教育隊に入隊。
【※特別幹部候補生第1期】

・九州から東京から、いろんなところから、集まって来とんのやな。で九州の兵隊はよう、やったんですわ。使役いうて、ちょっと、あの、部隊の中で、用事が、ある場合、内務班から、「3人出てこーい!」いうて、言われたら、20人ぐらいおる中から、一番先に出るのは九州の人間が出てました。一番、出ないのは大阪の人間でした。トイレ行ったりなんかするのは、大阪の人間で、九州の人間っちゅうのよう行ってましたなあ、私はその中間ぐらいでしたけれども。
・中隊があって、えー、3中隊ぐらいあって、1中隊にまた、班が、あるからねえなんぼか。はっきり覚えてなかったけどねえ。で、上官は、少年航空兵の、志願兵が、上官になってましたねえ、班長になってましたなあ、それが伍長ぐらいになってねえ、それが班長でした。それは、陸軍の少年兵いうので、志願したのが多いですなあ、やっぱり。中隊長なんかは、陸軍の幹部、あの、陸軍士官学校出たのが、いましたなあ。中隊長とか、そういうのは。やっぱり士官学校出た者と、それから、今の、幹部候補生、少尉になった者とでは、やっぱり、下の者、見方が違うたもんねえ。「あれは、甲幹や乙幹や」言うようになる。こっちは、「陸士や」いうたら、「へえー」、やっぱり陸士は違うなあ。だから昔はね
え、陸士とか海軍兵学校、入りにくかったもんね。
・親に見舞いに来てもらって、それで、あの、加古川の、民家にねえ、ちょっと、よせてもらってねえ、家からぼた餅やごちそうを持って来たんですわ。それを民家の人にちょっとあげて、私も食べたけど、食べ切れない程持って来とるからねえ、どないするかいうたって、親父は持って帰ってもつまらんし、私持って入るんだったら、兵営入る時に、検査があるから、持って、入れないですわ、食べ物はね。それで、親父は持って帰れんから、これはちょっと違反やけど、この、垣根から、渡してくれいうてねえ、あの、ぼた餅かなんか、ちょっと、ある程度ねえ、垣根、もらいにいきましたんや、やっぱり親子やからねえ。で、もろうて、受け取った後、誰か上官かみたいな者に、ちょっと見られちゃったから、
内務班へ持って帰って、からみんなに、僕は腹いっぱい食べとるから、「みんな食べ、上官が来るかわからん」というてねえ、みんなに、食べさせてことあります。もう家にない、砂糖や小豆全部使うてねえ、親持って来てくれた。それから、やっぱり、これも心配やったんやろうねえ、面会に来てくれてね、食べ物みんなに分けてね、食べました。それで別に、上官から咎めなかったからねえ、よかったですけどね、ええ。上官はわかったかもわからんけど、見逃してくれた。そんな、こともありましたわ。親は、兵隊に行くの反対しておったけどねえ、やっぱり行ったからにはねえ、子供のことを思うたんやろねえ。
・大阪空襲で自分の家が焼かれたから、加古川の、この教育隊に、自分の息子がおるから、あの、会いに来たいうて、私が歩哨に立っとる時に、おかあさんが来たので、中へ、通したけど、兵営の中へ入ったけど、どうされたかは、わかりませんけど、やっぱり、頼る者がおらんかったから、もう空襲でやられたらもう自分一人になったからねえ、で、加古川まで、近いから、やってきましたんやねえ。そんなことと思いますが、それが、3月、昭和20年の3月ぐらいです。僕らちょうど出る前の話ですなあ。加古川からも見えたんですわ、空がばーっと焼けるのがねえ。「ああこれは大阪やられてるわぁ」。加古川にも、アメリカ軍の、飛行機が来たことはあるんですわ。その空襲警報やられたけど、まあでも、
撃ちあいとか、爆弾とか、焼夷弾とか、ぜんぜん落ちてこなかったけどなあ、うん。
・航空無線やから、トートーツー、ツートーツーツー、モールス信号の、打つ文や、聞く文、それから、それの、暗号とか、そういうような、一生懸命習いましたな。それで、一年を、が、加古川で、終わったから、あの、天津の方へ、中国の方へ、行け言われて、それから一応、上海まで、ずっと列車で、行ったんですけど、「お前は、天津の飛行場や」言われて、天津の飛行場、あの、駅まで汽車で帰ったら、飛行場から、上官がタクシーで、車で、迎えに来てくれまして、それで、天津の、駅から、飛行場へ行って、そこで、飛行場生活がはじまりましたですね。

○1945年(昭和20)4月、天津飛行場の部隊へ転属。

・その時はもう、あの、位は兵長になってたからね、あの、古参の上等兵なんかが、うらやましがっとったけど、やっぱり、こっちは少年兵やから、はいはい言うて、従うしかしょうがなかったんですわ。それでまだ、今のところ、天津では、戦争なかったし、たまに、米軍の、戦闘機が来たけど、なにも攻撃も、撃ちあいもなくて、ええ、平和な、半分平和なところで、生活をしておったら、8月終戦、15日終戦になりましたね。それまでは、あの、飛行場でずっと訓練はあったけど、激しい訓練はないし、天津甘栗とか天津羊羹食べて、生活してましたけれどね。そこは、それ、あの、書いていた通り、たばことか、天津甘栗とかを交換したりなんかして、少年兵やから、たばこ、配給があっても、たばこ吸わ
んかったからね、そやから、甘栗と交換して食べたんですわ。おいしかったです。中国の、小ハイは、「兵隊さん、甘栗甘栗」言うけど、新聞紙で包んでる中のほうには、南京豆が入っとったんですわ。上のだけ、甘栗しとってねえ、中国人、子供の時から、そういうようなことは、ありましたやなあ。
・僕らがおる時に、あの、少年兵で、僕らよりちょっと、2つか3つ上の者が少年兵で、特攻隊があってねえ、10人ぐらいおりましたんかなあ、それから、特別、特攻隊行く者は特別生活でねえ、あの、畳の部屋へ、寝してもろうて、食糧は、わしらと全然違う、あの、ええ食糧、運んで、行ってね、特攻扱いで、特攻食特攻食いうて、食糧食べ物も違うてねえ、それで、行って、それから、あの、見送りましたなあ、特攻隊に行く者を、飛行機で行く者を。見送りましたけど、そのあとのは、どないか、はっきりわからないです。そういうことはありました、特攻隊見送りました。だからそうです、あの、行くまでの生活も、やっぱりその今、畳の部屋でねえ、あの、日本の、ベッドじゃなしに、軍隊のベッドじ
ゃなく畳の部屋で、食糧も、ちょっとええもん食べさせてもろうてねえ、特攻隊扱いねえ。それ行ってみんな死んだんか、帰って来た者おるのか、そういうところはあんまり、つまびらかじゃないですけども。
・『ト号』、『ト号』いうてました、特攻隊のこと言わずにね。もう『ト号』。「ト号さんの飯や」いうて、あの、ご飯も別やったからね、特攻隊員の飯。あ、『ト号、ト号』言うてましたなあ、今思い出した。わしらの同級生、同期生でないけどやっぱり、少年兵の先輩やろうけどねえ、あれ。
・天津の飛行場は、大きいけども、飛行機が、なかったんですわあんまり。飛行機の、入れる格納庫みたいなとこが、山ん中へ入れて隠す、ところが、場所はあったけどねえ、あんまり飛行機、なかったです。うん。なんか、藁で作ったような飛行機が、飛行場に置いてあったぐらいのもんでね、それでごまかしとくんでね、そんなんで。それからあと、特攻隊が出てからはあんまり、飛行機、なかったですね。それやから、それ知ってるから、アメリカかて、もう、空襲に来なかったんですわ。うん。
・あまり、重要な仕事は、してなかったみたいですなあ。はっきり覚えてないですけどね。無線機で、あの、飛行機との通信とか、するけど、あまり、実質的には、してないんですわ、うん。

○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・そんなかんやあって、そういうことしとるうちに、8月15日に、軍隊の、総司令部の前に集まれいうことで、集まったら、天皇陛下の、終戦の、あれが、御言葉があったから、それで、戦争は、終わったんです。
・やっぱり、負けたかあ思うて、残念な気がしました、一応ね。みんな同じですなあ、残念がって泣いた者もおるけど、ホッとした者もおるかわからんし。
・蔣介石と八路軍と、戦争してますなあ。あの、終戦、なった時に、えー、あの、中国の部落から、あの、私が飛行場へ、電話があって、「今、八路軍が来るから、日本の兵隊さん助けてくれ」いうて電話がありましたよ。終戦おわってからですよ。で、まだ武器あったからねえ、あそこの部落へ行こう言うて、あの、あの、トラックに乗って、銃持って、わーっと、その部落行きまして、その、八路軍をやっつけないかん思うてね、そしたら、わしらが行ったら、それ知っとってねえ、もう八路軍来なかったですなあ。そしたらあの部落が、「日本の兵隊さんに助けてもらった」いうてね、ニワトリの首こう、切って、殺してやね、ごちそうしてね、あの、くれました。それで、「ああよかったよかった」いうてね
、感謝してね、わしら、帰りましたけどなあ。あの時も、馬できたんかなあ、むこうの、中国人が、部隊へ来て、「助けてくれ」いうて、来たんですわ。八路軍が。それが今の、毛沢東の蔣介石軍やね、あ、蔣介石やなしに、共産党のほうで、こっちは蔣介石の、わしら、武装解除は蔣介石やから、それとまた、あと、なにかありましたんやな。で、蔣介石は、台湾、追いやられた。それは、僕らが、帰った、あとの出来事ですけれども。その時まだ武器あってねえ、「助けてくれえ」いうてねえ、中国が、その部落から、部落の、代表が来てね、来ました。で、やっぱり行ったら日本が来たこと知ってるからねえ、出てこんかったですな。そやから戦争の撃ちあいしてないですな。
・それで、銃の、兵器の、返納せんといかんから、兵器撤収には、蔣介石の兵隊、中国の兵隊が来たんですわ。鉄砲取りにね。そうしたら、もう渡さんといかんから渡しましたけど、その時は、せっかく来たんやから、カルピスでも、飲ましたれ言うて、カルピスの、薄い、水みたいなカルピスを、飲ましてやったら、中国の兵隊喜んでねえ、「おいしいおいしい」言うてなあ、ようけ飲みましたわ。だから中国こんなんやなあ思うて、思ったけど。それから飛行場へ出されて、天津の、兵器廠へ行って、日本の軍隊の、小屋があんですわ、倉庫が。そこで生活しとったら、アメリカのトラックが、兵隊のトラックが来て、それで「これに乗れ」いうて、それからトラックに乗せられて、「今から仕事に行くんや」い
うことで、こっちは、一応、捕虜みたいなもんやけど、捕虜ってあれ、縛られてないけど、あの、アメリカの言うこと聞かんといかんから、あの、トラックに乗って、行こうと思ったら、わしらがおった元の飛行場へ、行ったんですわ。でそこへ飛行場へ行って、あ~懐かしいなあ思うて行ったら、あの、トイレは全部縄が張ってねえ、あの、入られんようになっとって、それから自分たちのトイレは、飛行場に穴掘って、そこへ箱をすえて、そこをトイレになっとったみたいやねえ。それで滑走路の、修理で、レンガ運びなんかがそんなことを、した時に、あの、「お前らには、昼飯やる」言うて、昼飯くれたけど、それが、四角な、あの、弁当箱くらいの大きさで、それが全部、蝋で固めた、紙箱で、中開けたら
、サンドイッチや、それから、スープや、コーヒーが入っとるし、たばこが三本入っとるし、こんな、アメリカは、やっぱり、ええんやなあと思って、こんなんと戦争したから、日本負けるわ思うてねえ。日本そのころ、携行食糧いうたら、乾パンに金平糖がはいっとったら、いいほうでしたんや。うん。南方ではそんなもん、なかったやろうけど、まだ、北支の天津では、あったんですわ。そんなん食べたけどねえ。それとアメリカのその、携行食糧と比べたら、えらい違いやから、これでは、戦争負けるわ、ということ思って、それで、8月の終戦で、11月に、帰ることになったわけです。だから、終戦後としては帰るの早いですわねえ、3カ月ぐらいで帰れるんやから、それで、帰る時は、アメリカの、上陸
用舟艇に乗せられて、それから中では、あの、食糧は、おかゆ炊いてもらって。働かんから、おかゆで十分やからね。
・それから、帰る時に、品物を全部没収、中国が没収したんですわ。写真やなんかもみんなねえ。それやから写真も持ってかえられなかったですわ。それだから写真もたくさんあったけどねえ。それから地下足袋があったら地下足袋も取り上げられてねえ、それやから中国の、スリッパみたいなのがあったから、それは持って帰ってもええ言うて、それは持って帰りましたけども、地下足袋はねえ、とられました。やっぱりむこうにしたら、いい品物やったろうねえ。

○1945年(昭和20)11月、博多上陸。

・まあそれで、無事に、あの、博多へ帰ってきました。それが、終戦の、おわりで、戦争のおわりですわ。それから今言ったように、戦争の時に、戦争終わった時に、将校は、「おまえらどこ行くねんなあ」言うてたら、「帰ってまた勉強します」言うたら、「ええなあ」言うてねえ。官費で修学旅行したみたいや、そうやないけどねえ、そんなことして、やっぱり将校は、もう、あの、どないもしょうがないもんねえ、戦争終わったら、帰っても使い物にならないから。でも、私らまだ、学校へ行くことが、望があったから、よかったです。まあそういうことで、無事に帰って、両親も喜んでくれました。ええ。
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