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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大阪キャラバン後半、10月17日(木)に伺った証言の概要です。
だいぶ長いですが、メーリングリストより転載します。

◎河野宏(かわの・ひろし)さん(82)
収録日:平成25年10月17日
所属:文部省が募集した整備士の養成所〜八路軍の輸送部隊
戦地:満州(安東・新京)〜朝鮮(水豊ダム・興南)
――――――――――

○1931年(昭和6)年3月28日、徳島県生まれ。

・徳島の記憶ってのはあんまりないね、うん。あの、昭和3年に、あの、室戸台風っちゅうのがあったんよ。あの、大阪なんかもやられたんだけどねえ、うん。その時に、家の味噌工場の煙突が、レンガ造りのごっつい煙突が倒れてやなあ、まあそれがまた、運がいいのか、悪いのか、自分とこの工場を、真っ二つに、切ってしまってやね、あんまり、外へ被害がでなかったからね、うん、もう、ぜんぜん、自分とこだけでおさまったから。でまあそれで、あ、昭和9年かあれ。だから、もうその当時すでに、あの、大豆がねえ、統制にかかってたの、戦時統制、あの、味噌の、を作るのに、もう配給、一般の、では配給制度になってないけども、もう当時、そういう、業務用の、分についてはもう配給、に入ってた
みたいやね。で、親父がもうこんな状態で、味噌つくっとったって将来性ないっていうんでやね、もうそこで閉めてしもうたわけやな。それで、すぐ、たぶん満州行ったんだと思うんや。

○小学校一年生の頃、満州へ。

・小学校1年までは徳島におったんや。で、親が、満州へ、もうすでに行って、満鉄のバス部門になるのかな、あの、通化言うて、あの〜、通化はたぶん今も通化やと思うんやけどなあ、あの、通るに化、あの、北朝鮮に近い、側ですわ。で、終戦になる時に、えー、なんていうの、関東軍が、司令部を、そこへ移した、あの〜、日本に一番近い側にもってったわけや。あの〜、通化っていう、そこへ、司令部移してやなあ、徹底抗戦する、とかなんか言うとったけどねえ、結局、もう、主だった、将校連中っていうのは、参謀部なんていうのは、もうさっさと飛行機乗って逃げてしもうたからな。
・(父親は)通化っていうとこの、田舎の所長ってんかな、やっててやな。満鉄のバス部門やね。当時、あの、ベンツのバス使ってたからね。ベンツの大型バス、に乗ってたから、もう、当時なあ、国産のバスなんかおおよそ使いもんにならなかったんや、うん。あの、トヨタとね、日産とね、フォードが、少し入ってたんかな、当時。フォードはよかった。だけど、日本のバスっちゅうのは、あの、バスというか、日本の車っちゅうのはもうおおよそ使いものにならなかったな。今みたいにセル、ついてるのはついてるけど、危なくて使えない。もう使ったら、すぐに潰れるという、うん、もう非常用に置いとくようなもんや、うん。もうねあの、それから、当時の工業力っちゅうのはものすごく弱い。やっぱり、
ドイツなんか、戦争する時にもうすでに相当な工業力を持ってた、うん、まあヨーロッパなんちゅうのはなあ、だけど、日本の、当時の国力と、あの程度の工業力で戦争やるというのは、どだい無理な話やな。
・あの、家は安東にあった。うん。安東って今の丹東って言うんかな、うん。あの、いわゆる、鴨緑江に鉄橋が架かっとる、うん、とこでねえ、もうすぐ河っぺりに家があってねえ、あの、二階の、二階建てやったんけども、あの洪水で、一回、あの、床下浸水ぐらいまでいったことがあったけどな、うん。
・丹東の小学校におったんやけどね、あの、レンガ造りのとてつもない学校でね、あの、当時の、あの、満州国って、帝王かあれは、皇帝か。あれが視察に来るぐらいの学校やったからなあ、小学校としては馬鹿でかい、20、25メータープールが二面あるという、もうとんでもない学校。当時で、プールがあるような学校なんてほんま、それも二面や。うん。レンガ造りの二階建てでね、あれ、なんぼあったんだろ、部屋の数覚えてないけども、一学年やっぱり、六学級ぐらいあったんちゃうかなあ、あの当時で。日本人ばっかりでねえ。
・当時は、安東は、丹東は、非常に安定しておった。やっぱりあの、日本から、朝鮮半島を鉄道で縦断してやね、満州に入ってやね、あの、奉天新京と、上がっていく、鉄道の拠点やからねえ、だから、ほんで、鴨緑江に橋が架かったのもあそこ一ヶ所だからね。当時の、鉄橋でねえ、あの、横に歩道がついた、鉄橋でねえ、あの、朝鮮、で戦争やってね、戦後すぐね、二十何年やったんかな。あれで、だから、アメリカとのあれで、かなり、攻め上がって、あの国境まで一回、攻め上がんのかな。それで、そん時に、爆撃で、アメリカがあの、中国から援助が入ってやね、中国の、義勇兵が、かなりあの、入ったわけよ。だからそれを、軍需物資が、入るのを止めるためにあの、爆撃してね。それであの、だいたい
、最初の鉄橋ってのは、破壊されてね、今で、あの、真ん中あたりがつぶれたままで放ってあるんかな。それで新しく、もう一本、今ついとるんだと思うわたしか。あの、橋が二つならんどるような感じするから。
・慰安所なんていうのはもう町でもゴロゴロあってやね、村、というか町に、なんぼでもあったよ。それで、そこら行ったら、あの、兵隊がもう、ずらーっと、行列で並んでなあ、
行っとったわけやからな。そんなもん、「おーいまだかー」とか言って、やっとるんやから。そんなん俺ら目にしとるからなあ。子供ん時に、えらい、何しとんのかなあっていって。
・だから、まあ、安東は非常に安全な街やったけれども、そこから、奥、西の方へ、シベリアの方へ向って、まあ入るわけやなあ、国境沿いに。そのあれは、もう非常に、まだ危ない地域、金日成、“きむいるそん“やな、初代、うん。あの中に非常にピストルがうまいやつがおってなあ、あの、モーゼル一号ってあの、ドイツ製の、木のサックに入った、大型のピストル、小銃の弾が入ってる。普通、あの、ピストルの弾っていうのはあの、小さい弾やけどねえ、あれ、あの、モーゼル一号ってのは、あの、小銃の弾使える。うん。それで、木のサックに、その、ピストルを、こうガチャンと入れると、こう肩にあててねえ、狙って撃てるように、これぐらいで撃てるような、大型のピストルやね。それを片手撃ち
でね、あの、電話線、ぶち切る。それぐらいの名人がおってね、なかなか、あれやね、関東軍もだから、それを、追い回すけど、殺せなかった、うん。それで、まあ終いは、まあシベリアに逃げ込んでね、あの、ずっと、もう行くとこなくなってしもうて。で終戦の時は、終戦、何年ごろかなあ、17、8年ぐらいから、シベリアに、逃げ込んだんちがうかなあ。
・でまあ、6年行って、次は尋常高等小学校って言うんか、当時、それの1年、が終わって、2年の時に飛行機の学校へ入ったかな、うん。今で言えば飛び級、みたいな形やなあ、まあ出たら専門学校の、なんや、資格かなんかって言うとったからなあ、今の、短大、みたいなもんか。
・学校は、奉天、瀋陽に、あの入学したわけやけども、飛行機の学校で、んー、だけど、十九年の、秋に、えー、延吉てねえ、これももう、あの延吉いうのはたぶん今も延吉いうんやと思うんやけどなあ、あの、延長、ん〜、北朝鮮に近いところで要はあの、北朝鮮の脱走、者なんか今でもよく問題になる、そこらですわ。そこらまだ結構、あの、金日成の、あの、勢力範囲、で、時々まだ、あの、抵抗運動であの、かなり、荒らされとった。むこうにすれば、荒らしにきてるやつを、レジスタンス、運動をやってたわけやからなあ。で、あの、関東軍が、結構あの、だから匪賊討伐いうてやねえ、その、金日成のあれを、この、攻めて来たとこをまた攻め返すわけやなあ、それで、えー、まあ匪賊討伐という名前で
こう行きよるわけやけどなあ、だからもう、部落襲う時にはもうすでに全部逃げておらんわけよ。もうそんな、あの、抵抗運動しとるような連中が、そんなグズグズしとるわけないんや、そんだから裏を襲って、あの、何人か、あの、村の若いやつを、くくって、連れて来てはな、首はねちゃねえ、あの員数合わせで、なんかやらないと、勝ったことにならんからなあ、まあ言うたらインチキや、あんなもんは。軍隊なんちゅうのは。もう明らかな、あんなもん違反行為や。で、家の親父なんかだから、村の人間からやなあ、あの、だれだれが捕まってから、その、首切られそうなんで、その、首切られそうなんで、あの、助けてくれって助命運動に来るわけよねえ、うん、助けてくれって。そしたら親父行って、あ
、それはうちの従業員やから返してくれって、で取り返してくる。うん。だから、あの、首、切っとる写真とかねえ、あの、さらし首、木の枝にねえ、髪の毛、こう、髪の毛の長いやつをこう、そのまま木の枝にこうくくりつけてねえ、くくりつけたやつをこう吊る、こう吊るすんやね。まあもう残酷な写真やで?そんなん家に、いっぱいあったけどなあ。親父がこんなことは、あの、反対だって言ってた。だいたい親父は、もともとは京大に、その当時のあの、三高?京都大学のなあ。あれ出てやなあ、そんで、味噌の醸造やってやなあ、あの、国際博覧会とかあんなんにも出品したりなんかしとったからなあ、だからかなり、国際派。それで、人種差別の反対とかねえ、うん、かなり、今でも京大、まあ、かなり
、左、まあ終戦当時の京大なんか、かなり左がかっとったからなあ、うん。だから、その伝統が残っとるんやな。おじさんなんかでやっぱり、あの、特高に捕まって、やられて、あの、墓があるけどねえ、もうあの、伝来の墓の横にやなあ、小さい、ほんまに、もう、ほんまに小さい、石がポーンと立ってだけの墓なんちゅうのも残っとる。それで結局、墓も作ってもらえんかったんやなあ、ああいう、農民運動とかあんなんやるとな。

○1944年(昭和19)3月ごろ、整備士の学校に入る。

・満州でねえ、満州、結局文部省が、募集して、で、関東軍に、関東軍が支援、で食い物、食い物と、食い物はだから、関東軍が出してたんかな。で、満州航空、今のあの、日本航空と、まあ同じもんやなあ、満州航空へお預け、という、なんか教授連中は全部もう満州航空の、学者連中やなあ、が教えて。だから、機械構造だとか、材料強弱だとかねえ、もう基本は叩き込まれたなあ。それから、なんていうの、あの、洗面器とかねえ、そんなんも自分で、アルミ板もらって、自分で叩いて、洗面器作る。まあ、皆もう器用さだけで来とるやつが多いからねえ、うん、まあ出来へんというやつはおらんわ、そんなに。あの、なんていうの、金属板に、あの、使う、コンパスってのはあの、んー、コンパスて、普通鉛
筆をつけてやるわけやけど、もうあの、鉄に、鉄板に、こう描く場合は全部、あの、もうそのままが、先が歯になった、あの、コンパスっうのが、ごついやつがあるわけよ、そんなのが全部、自分で、あの、火作り、あの、鍛冶屋、鍛冶屋で、自分で叩いて、削って仕上げてやね、それでコンパスとか、それから、“きやくばり“【※?】ってこう、刺して、サーッと鉄板に線を引く、その、”きやくばり”ってのがあんだけどね、あの、そういうもん、もう道具はほとんど全部使わされた。だからもう基本だけは全部やらされたなあ、うん。で、まあエンジンの整備でも、まあバラして、まあ、かなり、かなり、勉強は厳しかったけどな、食い物はよかったけど。終戦まで、食い物で不自由することはなかったけど
なあ、うん。コーヒーから、カルピス、うん、大量に物があった。日本ではちょっと考えられんような、日本でそんなもんて言われたけどなあ。うん。満州でも、一般にはなかったなあ大して。非常に食い物はよかった、待遇は良かったけどなあ。
・学校の成績が悪かった。40番まで上がれないという、勉強全然しなかったからなあ。ずうっと、模型飛行機作りでもう、小学校の時っちゅうたらもう、遊ぶ方が主で、勉強はしなかったなあ。なんか、数学の、あんな、変な問題は好きやったなあ。つるかめ算だとか、なんかあの、変な、変なやつだけ出来るという。
・工作のあれは、器用だったんで、器用さ、だけで、採ったんかなあ。西日本で、西日本から25人と、全満州で25人ちゅうかなり厳しい試験、ではあったんやけど、なぜそれに通ったのかようわからん。そんで、だからけっこう、沖縄とかなあ、あの、沖縄の人なんか全然言葉わからないのね、あの当時。今でこそ、あの、テレビで、かなりあの、標準語が、あの、通用するようになったからあれやけど、もう鹿児島の言葉なんてもうほとんど、あの、わからない、うん。だから、西日本の人が多かったけども、あの〜、満州の人達は皆あの、標準語、を使っとるからね、今の、あの、NHKの放送なんかに近い、言葉使ってた。だから、ん〜、そこまで行って、九州、九州沖縄なんて言葉、ほんまに、理解する
のにしばらく、あれやったなあ。もう、相当ひどかったなあ。
・給料はねえ、外出するたびに五円くれたなあ。当時、んー、百円で、高給取り言うとったんちゃう?月給。そんで、出てくたびに五円ずつくれたからなあ。五円、もらうと、あれやなあ、そこそこ本買って、映画見て、なんか買物してもなあ、残っとったもんなあ。待遇は良かったけどなあ、厳しいのは厳しかった。
・俺は一期生やったから殴られることはなかったなあ、うん。俺は第一期やから。またあの、んー、関東軍から来とった、あの、教授というのが、これが、あれ、なんでやろうなあ、聞いたことなかったけど、かなりの芸術、文化人やったなあ、うん。そんなあれで、どつくということはしなかったし、んー、服なんかでも、あの、関東軍から将校用の生地を、もらってきてやね、それで、その教授が全部、あの、なんていうの、デザインしてやな、ダブルの、あの、背広、みたいな形の、うん、制服作ってやな、おしゃれやったで?うん。で、あの帽子でも、ええ格好の帽子、作ってねえ、それで、出て行くと、映画館でもたいがい女の子、それで行くと、あの、入ってけっていうんで、タダで入れたという、ええ
格好やったなああれは。終戦まではだから、よかった。
・で、まあ、まあ、卒業すれば、何年間かなあれ、なんか二年、か三年かなんか、軍に入るというなんかあれが、条件がついとったなあ。うん。そんで、まあその間だから、軍用の、旅客機、とか爆撃機、に乗っていくわけやろうなあ、うん。乗ってったら、たいがい、沈むわな。だから、その、どっかで不時着しても、自分で直して帰ってこいというような、非常に、もう、機転の、回る、ような訓練、うん。非常事態になったらどうするかという、危機意識と言うかなあ、予測するというのは、まあ非常に、厳しいあれやったなあ。だからもちろん、だから不時着なんかしたらエンジン自分で直して帰ってこなきゃいかんわけや。
・やっぱり、飛行機乗っていくんで、万が一の時の訓練でやなあ。あれ、飛行機っていうのはねえ、非常に、酔う。あの、乗り物酔いのもう極限やからなあ、あの、体育館にね、マットをざーっと、あの、体操用のマットあるやん?あれを、ズラーッと、真っすぐに並べてねえ、それで、前転で行って後転でかえってくる。うん最初はもう、二枚とか三枚でこう、落ちるわなあ、それがやっぱり、十五メーターや二十枚、パーって前転して行っても、そのままで、パーッとなって、「終わりました!」って言ったら、帰りその、今度、後転で帰って来る、ってもうとんでもないあれやったけどなあ。それから、あの、こう、パイプでできたあの、輪っか、でこう、体操なんかで今使うとるのかなあ、あの、大の字でこ
う、ぐるぐる回るやつあるんや。あれもね、そのままこう転がると別にどうってことない。あの、ところがね、あれをこう回転しよる途中でね、あの、教授が、バーンと、こう、ひねるわけよ。だからこういっとたったやつがいきなり、こう、あの、方向が変わんのやな。そうすっと、三半規管がカーンと狂ってやねえ、グラーッとくるわけよ。うん。そんなことずいぶんやらされたよ。
・一品生産、ていうのはやっぱ日本人ていうのはうまいんやな。だけど、あの、大量生産ていうのは、あの、体制がまったくできてない。当時の飛行機、でもね、戦闘機、送ってくんだけどね、無線機、が操縦席に付いてるんやけどね、同じ戦闘機にね、無線機が、あの、適当についてんのやな。設計図通りにここへって、その程度の、無線機が飛行機によってついとるとこがなんてのも、どだい、そんなものありえない、今の、あれから言ったらな、設計から言ったら。その程度のレベルで戦争やるなんちゅうのは、無理や。
・無線機なんか適当やなあ、後からつけるもんは適当についとったなあ、もうその飛行機ごとに、なんか、違う感じやったなあ。微妙に、あれだ、適当に、ここへつけるのが、適当にそこへ、そのままつけてしまうっていう、使い勝手とかなんとか関係なし。うん。もう非常に変な、まああの程度の、工業、水準?ネジなんかも非常に悪かったしなあ。ネジなんか、もう、あの、うかうか締めると、すぐに潰れるような、やっぱりあの、工業技術、のレベルっちゅうのはやっぱりネジで決まるんじゃないかなあ。
・あの、その当時のあの、飛行機の乗りは相当、分類されとったよ。操縦士ってのは非常にあの、やっぱ頭がいるんでねえ、あの、レベル高かった。そんで、その中で、上何人が戦闘機乗り。戦闘機乗りってのはもうあの、全然別格。あの、というのはもう一人で、操縦しながらやね、あの、地形を見て、その、地図、をほとんど頭に入れとってやなあ、どこを飛んどるのか、その、太陽とあれとで、コンパスがついとったってやなあ、どう、どっち向いて飛んどるっちゅうのがわからないとあかんわけやからな、航法から、あの、天気、もうああいうのが、頭に入ってる、だからもう、戦闘機乗りっちゅうのは全然別格やな。あの旅客機なんかの場合は、操縦なら操縦、うん、あの、機関士と別に航法とかね、そん
なのが、通信士とか別々に乗るからね、だから、もう、戦闘機乗る場合は、もう一人で、もう、五百ぐらいは、やらなあかんわけやからね。だから、もう、全然あいつらは別格や。
・一期は50人やったけどなあ、西日本から25人と、全満州から25人やったからなあ。うん。奉天、瀋陽のあの、医科大学、んー、の大講堂で、試験、あのすり鉢の。当時やっぱり大学の、あの、講堂っちゅうのはすばらしかったなあ。前に演壇がついとってやなあ、「すごいなあ」思って、うん。

○1944年(昭和19)秋、延吉に移動。

・で、20年のなあ、8月に終戦になったでしょう、だから、20年の、春にはもうまた、関東軍が弱くなったからねえ、あの、戻ってきてやねえ、かなり、また、危なくなってねえ、あの、延吉って、町のあの、そこの飛行場におったんやけどね、これも、非常に大きい飛行場やったけどね、もう、夜中に、歩哨が立っとると、もう、あれよ、歩哨が、消えてなくなる、拉致されて。もう非常に、治安悪くなってきてね。町出る時は、もう、その三人以上とか、単独行動はするな、というねえ、うん、非常に危なくなってきてやな。

○1945年(昭和20)3月末頃、新京へ。

・それで、四月、前かな。三月の末ぐらいに、もう、どうも治安が悪くなってきたんで、あの、北へ移ろうといって、で、その学校自身が、あの、白城子ってね、あの、満州でもずっと、北に、北西に近いかもわからん、だからかなりあの、そこに馬鹿でかい飛行場があったんよ。当時の、旅客機が、あの、二回ぐらい、こう、着陸、着陸失敗してもそのままで、着陸できるという、普通の飛行機やったら、一回失敗したら、一回、上がらんと、あかんのやけど、もう、そのままで、もう一回やりなおしができるくらい、大きい飛行場。そこへ行く予定、で、あの、まあ部隊、部隊っちゅうかなあ、部隊移動したんやけどやなあ。だけど、その途中で、あの、新京、長春の、に着いた時に、えー、あれがまだ四月の末
やけども、なんかあの、シベリアからの、結局それドイツがもう負けたでしょ、だからドイツが負けたんで、国境、近辺は、ソ連の、まあ攻撃が来るおそれがあるんで危ないっていうんでねえ、あの、足止めくらって、それで、そのまま、あの新京の飛行場で、止まってしまった。まあそれがまあ、運がよかったんやなあ、あれ、あの、もとの延吉っていうのはねえ、あの、終戦後、あの、えー、終戦の時のだから八月の十三日、ぐらいだったんと違うんかなあ、あの、ソ連軍が入ったのが、あの、ソ連の、機甲部隊、あの、戦車とか、ああいうので、いっきに攻め込まれた、全滅したとこですわ。そんで、白城子で、行く先も、機甲部隊が、あの、突っ込んできてやねえ、全滅、もう生きて帰ったやつほとんどおら
んという、どっちにおっても、だめだったという、うん。たまたま新京の飛行場で、おってやねえ、で、なんか、女学校がもう閉鎖になって、んー、閉鎖になっとってなあ、でもう、学徒動員かなんかで、だから全部、移ったんちゃうんかなあ。だから、女学校の、なんか二階、の教室、で、終戦までおったのかなあ、そこへ畳とかなんか持ち込んでねえ。うん。で、飛行場へ行っとったんやけど、八月に、入ったらもう、八月に入る前かなあ、当時の記憶があんまりないんで、あれやけども、八月の、もうはじめぐらいから、えー、その、教授連中は、どうも日本は危ないっていうことを、すでに言い始めてたなあ。それで、あの、広島にあの原爆は落ちたやねえ、あのニュースが出た時にねえ、教授連中は、「あ
あこりゃいけん、原子爆弾やられた」って、あの、もうすぐ言うとったね。やっぱりあの、飛行機の教授連中は、相当科学、に強いやつがようけ、おったんでねえ、うん。だから、原子爆弾の、説明してくれたよ、うん、当時。そんで、「あれはもう間違いなしに原子爆弾や」って、うん。で、「もう日本もたんなあ」っちゅうてた。それで、あの、でもう、あちこちで、やっぱり、中国人、の反乱が起き始める、治安がどんどん悪くなっていく。もう
、十三日にはもうあれやったなあ、ほぼ、ほぼあかんなあ、あの、日本負けたなあってのが教授連中言うとったなあ。まああの、あれがねえ、あの、関東軍の、参謀連中がねえ、飛行機で直接、新京から、東京まで、羽田まで、飛行機で、そのまま逃げるわけよ。直行で。あの、燃料、満タンにして、あの、まだ、飛行機なんかに、あの、増量タンク、積んでね、直行便で、逃げちゃう。で、もうだから毎日毎日、燃料、あの、燃料入れ、やらされてやなあ、あの、空襲、もう当時あの、もうすでに、十日ごろからもうあの、ソ連軍の、爆撃機が入ってねえ、あの、爆撃されとったしねえ、そんで、あの、なんていうの、あの、ガソリン、なんかでも、ドラム缶でねえ、全部、その、畑の中に、こう、分散するのよ。
その分散さすのにやなあ、俺らの仕事でなあ、それを、ゴロゴロころがしてやなあ、畑の中へ、こう、隠して行くわけ。それで今度は、飛行機に入れる時にはそれをゴロゴロ転がして、もう毎日、燃料運びばっかりや。ドラム缶運び。それを、もう、ひと月ぐらいあったん違うかなあ、勉強なんて全然やらん。結局燃料入れたやつは、偉いさんが、日本へ帰っちゃう?うん。もうとんでもない、うん。
・おかしいなあと思うよ、こんなに、軍の最高幹部が、なんで日本へぼんぼん行っちゃうのか。あれは非常に、不思議に思ったなあ。あんなもう、飛行機まわって、10人ぐらい、乗って行きよるんだから。そんで、たぶん、一回だけやけど、あれ、銀座の寿司屋の寿司だとか言って、なんか、寿司の、出前、ごっそり積んで、帰ってきてやなあ、ほんで、「皆食え」とか言って、「これは銀座の寿司や」って、食わしてもろうたことあるけどな。当時銀座がどうだったか知らんけどな。直行便やからな。帰り荷物ないんやから。うん。でもあの、教授連中しょっちゅう、南方なんかに飛ぶわけよ。あのー、操縦士足りんかったら。やっぱり帰りしな、あのー、ラックスの石鹸、大量に積んできてやなあ、「おーいや
るわ」ちゅうて。あの、ラックス。だから、あんな、物もないのにラックスの石鹸使うとったで。
○1945年(昭和20)8月15日、終戦。

・そんで、十五日に、終戦なった時にはもうあの、ラジオ放送でまあ聞いてまあ、あの放送っちゅうのはぜんぜん、意味不明。聞いとっても、わからんけど、もうその前から、もう、負けたという情報が入ってたんで、たぶん、負けたという放送だろう、という、あれで聞いとったけどなあ。それで、もう、十、十何日かなあ、終戦になってもうじきに、ソ連の、ソ連から、旅客機が一台とねえ、あの、んー、旅客機にまあ、ソ連の、特使なのかな、あの、んー、将校が、何人か乗ってやな、来て、そしてまあ、終戦交渉、あの、停戦交渉やるんやろうなあ、それ、やって、メッサーシュミット?あの、ドイツからとったやつ【※?ヤコブレフとかの間違い?】、が、六機、一緒に、こう飛んで来とって、あの、三機
が上で、こう、旋回しとる?それで、三機休んじゃ、燃料入れてまた、上で、うん。やっぱり、恐いわけだ。そんなもん、占領地とはいえ、自分とこの、軍隊なんか、全然おらんわけやからなあ。それで、昼、朝来て、昼、食堂へ、飯食いに行くと、入口の二人、将校が、こう、入口の両側におってやな、それでウイスキー、ウイスキーじゃない、あの、ウォッカやな、ウォッカと、あのグラス持っとってやな、飲めっちゅうてやな、食堂入っていくといきなり、あのあれや、ウォッカ一杯飲めいうて、あの、グラス、入れてやね。ずいぶん、あれやったけどなあ、むこうも相当恐いんやなあと思うて。
・で、じきに、帰りよったけどなあ、うん、帰ったような気するわ、はっきり覚えてないけど。そんでもまだ、終戦になっても、あの、戦闘機、かなりようけ残っておったし、あの、戦闘機乗りはやっぱり、かなり、気の荒いのがようけ、おって、終戦になってもまだ、出て行って、なんかあちこち、どっかで、ちょっと、ドンパチやってきたっちゅうような、なんか、ことを言うとったなあ、終戦になってからでも。まだ、あの、あそこに残っとった飛行機は皆、最新鋭の、あの、四式戦とかそれから、司令部偵察機の、最新型、がまだ、かなり残っとったからなあ。あの、新司偵いうてあの、もうあの、なんていうのあの、エンジン二つ、でねえ、あの、あれ、あの当時で、なんぼ900キロぐらい出とったん違
うんかなあ。もうあの、メッサーシュミットに追いかけられても、あの、あれ見えてから、パーンと反転して逃げても、絶対追いつかれんと言うとったからなあ。あの、相当な、スピード、を持っとった。そのかわり、あの、操縦席と、後ろの通信士、との間が、あの、1メーターぐらいあんのかなあ、そこに、横に、小さい、こう、筒が通っとってそれで、こう、やりとりしよるわけや。無線があれへんからなあ。で、その間何があるったら、燃料タンク。操縦士と通信士の間が、燃料タンク、あの、飛行機そのまま、胴体そのままの形で。だから、横にこう、三角に、こう、燃料タンク、こう、削ってやなあ、そっからこう、顔覗かして、あの、話やりとりするという、うん、もうとんでもない飛行機や。うん。
あの、操縦室でももうぺったんこでね、もうあの、覗くのが非常に、操縦すんのに、難しい、着陸なんか、前が見えない、うん、もうあの、ほとんどこう、首がでないわけやな、あの、胴体からな。もう、あんまりようけ、上に、出てない、もうほんまに、極限に、空気抵抗減らしとったから。そんな飛行機、まだだいぶ、残っとったよ。俺は、あの、まあ一応整備士の卵やから、ずいぶんと、乗ったりなんかしたけどなあ。もうあの、大型の輸送機なんかでも、よう乗せてもろうたけどなあ、あの、あれで、わざと、あの、急降下やんのやねえ、だから、普通、あの、ああいう、輸送機でねえ、急降下やることはないわけやなあ、うん、で、戦闘機なんかの場合は、こう行っとって、こう反転して、こう、遠心力が
、あの、頭に行かんようにね、うん、こうひねって、急降下やんのやけどね、それを、輸送機でね、わざとね、そのままこう、首つっこむわけよ。そうすっと、あの、体中の血が全部頭に来んのやなあ、もう、あっぷあっぷするよ。もう胃袋も何も、全部こう上がって来るからねえ。もう、よう金玉がのどに詰まったとかって表現やったけどなあ。ほんまに、ひどい、それも訓練のうちでやなあ。落下傘降下、の訓練とか、あの、こう階段がずーっとあって、そんで前が砂場になっててやねえ、そんで、砂場からこう階段上がって砂場へ、飛ぶわけよ、階段をこう。で、だから、飛んで、あの、反転して、あの、背中から落ちて、一回転、あの、とんぼ、とんぼ切ってやなあ、そんで、あの、なんていうの、スピード
殺す?うん、そのまま行ったら、足、がもたないんでな、うん。当時の、落下傘が、秒速2メートル、秒速2メーターやっとったんちゃうかなあ、なんか、はっきり覚えてないけどなあ。あの、こないだ、あそこに、あの、展示してあったやん、落下傘。落下傘はあの、たしかにあの、ちょっとさわったら絹やったわ。うん。だけど、あの、ベルトは、なんか、かなり、あの、木綿のかなり入った、ベルトやったなあ、あのこの、飛行服のなあ、ベルト。俺らのとこにあったやつは全部絹やったで。もう、あの、ベルト、いい、ほんまに、ピカピカの、絹の、ベルトでなあ。で、終戦になってからすぐに、落下傘、潰して、で、あの、こう、ハンカチ、あれ三角に縫ってあんのやなあ、それであの、マフラーにちょう
どええ。そんで、あの、ベルトなんかもそのまま、こう護身用になあ、ここにごつい、バックルがあんねやな。で、バチッとやると全部バーンと飛ぶようなっとる。あれ、落ちた時に、こう、バーンと反転してすぐにバチンとやって、バーンと、やる訓練やらされるわけよ。だからそれを、他のやつ全部切ってしもうて、この、胴のとこだけ、残してな、それで、なんていうの、バンドにしておった、終戦後。あれなんてバチンとやって、バーンと振り回したら、護身用につかえるんでね、ごつい金属のかたまりやからね。メッキされたきれいなあれやったけどなあ。あんな、あの、あそこに展示してあったんとは、全然、うん。
・19年の3月に入って、瀋陽におったんが、9月、9月までやったかなあ。で、えー、10月から延吉、んー、で4月から、今度は新京、新京で止まってほんまによかったわ、もうあれはそのまま行っとったらもう死んでるわ。悪運だけはものすごく強いなあ。
・まあええ面もあったけど、そのかわり終戦、になって、解散して、日本に、日本から来とった連中は、どうも大連のほう、に向って、行ったけどな、日本に帰ったのかなあ。
・結局まああの、終戦になって、まあ、日本から来とった連中は、別行動で、あの団体で、行ったけど、ほんとに日本へ帰れたかどうか、もうこれもう不明やけどなあ。満州組は全部そこで解散して、ばらばらに、自分の家向かって帰ったけども、まあ、あの、新京からね、あの安東っていう線はまだ、わりと、汽車は動いてた。んで、あれ、新京安東間つったら何時間かかったんかなあ、十何時間、かかったん違うかなあ。それも、まあ、すでにもうその時には、あの、ソ連軍が入っておって、ソ連軍と日本軍とがまだ、半々ぐらいの警備やっとったん違うかな。うん。だから、あの、その、日本軍の警備が入っとるとこは安全なんやな。だけどもうそれ以外のとこはもう、非常に危ない、特にあの瀋陽は、あの、
たぶん、蔣介石側の、あれが入ってたんちがうかなあすでに。蔣介石の入ったとこは非常に治安悪かったな。うん。もう、あーやっぱり、なんていうか、志願で入るよりも、大概徴用で、日本軍と一緒で、適当に、んー、徴用して入って来た、だから、程度悪いなあ。あの、反対に、あの毛沢東のあの、八路軍ちゅうのは志願で入るやつが多いんで、これは、非常に真面目、やねえ。それで特にあの、治安はよかった。あの、だから、新京の帰り奉天で、まああのホーム、で、しばらく、乗継で、待ってたんやけどねえ、もう危なくてねえ、もうホームからもうぜんぜん出られない。もうホームから出たらもう、強奪に、会う状態やねえ、もうホームから見とるともう、出てった人間がもう、流れ作業でもう、脱がさ
れていくのねえ。両側からもう、掠奪、そらもうしょうがないわな。今まで日本人さんざん悪いことしたんやから。まあ悪いことしてないやつもおるんだろうけども、まあ、たいがいのやつが悪いことしとるからしゃあないわな。もう見とって、「うわあーおそろしいなあー」と思った。だからホームからもうぜんぜん動けない、うん。で、乗りついで、安東帰って、安東帰ると、もう、なんにもない。あそこ安東は、丹東は、なんていうの、あの、一番に、あの、八路軍が入ってたからね。もうだからもう、治安はぜんぜん。もう町普通に歩いて、どうってことなかったもんね、うん。そんで、駅から家まで遠かったんで、二人で一緒に帰って来たんやけども、安東から二人、行っておったんや。で、二人で、ヤン
チョっていって、今の人力車、に乗ってよ、家まで帰ったよ。それで、あの、夜中でもねえ、あの、そんなに、あの、ピストルの音とかねえ、あんな、ほとんど、鉄砲の音しなかったしなあ、安東は非常に治安良かったねえ、うん。で、安東に帰って、まあ親、なんか、まだ、親父は、親父は、何年やあれ、18年に死んだんか、うん。これ脳溢血で、うん、酒の飲み過ぎやな、脳溢血で死んで。そんでお袋、と兄弟はおったんやけど、親父が、まあ、ずいぶん、その中国人助けておったんでねえ、うちの家は別に、なんの心配もない。うん。食い物は適当に、あの、買出しに行っても心配ないし、ある程度は、んー、近所の、なんか中国人が、こう、持って来てくれる、という、まあ、非常に安全な状態。だからお
袋も別に、あんまり、強いて、日本に帰る、気はしなかったみたいやなあ。帰る道中が非常に、あぶないんで、こんな危ない目して帰るぐらいやったらもうしばらく、落ち着くまでおったほうが安全かあという。そうこうしとる間に、あの、八路軍から、その、車を触れる、整備できる人間、が、まあ要るっちゅうわけやなあ。それで、すぐ上の兄貴が、あの、やっぱりバス、会社に、おったんでやなあ、それでそれの、なんか、んー、どっかで、聞いてきたんやろなあ、あの、兄貴が先に、その、整備、毛沢東の、輸送隊の、整備、に入ったんや。そんで、まあ、安全やから、来いやって、むこうへすぐ入ってやね、で、結構ね給料もきちっと、払ってくれるしね、あれなんぼくらいだったかわからんけど、かなり
の金額、の給料もらってね、で、朝昼晩、あの、一二三食米の飯でね、あの、八路の“かんぶさい”ってのは、かんぶのおかず、っていうあの、格言やけどね、“かんぶさい“っていう、あの、食糧を、だから、あの、肉とか玉子とかね、もう、ちゃんと野菜のねえ、けっこうええ料理、毎日、食ってねえ、もう、あの、終戦後だから、それで、まああれやろうなあ、この人間は大丈夫だっていう、親父のなんか、あれがやっぱり、話が通っとるんやろうなあ、だからぜんぜん、なにもなし。かなり大事にしてもらってやなあ、あの、やっとったけどなあ。まあ、警察の関係とかねえ、そんなんはもう夜中に、襲撃されて、あの、引っぱって行かれてそのまま、死体で出て来るっちゅうのは、けっこうようけあったよ
、うん。やっぱり、あの、恨まれとったやつはようけ殺されたよ。そりゃねえ、当時の中国人てのはあの、非常に悲惨な生活やったで。あの、家の近くにねえ、あの、大豆を絞るねえ、あの、絞って油を採る、あの、いわゆる、製油工場やなあ、食糧油を採る、あの絞る会社、かなり大きい、会社があってねえ、そこの、排水が川に流れるんよ。だからその、そこの、工場の排水の中にねえ、その、油がやっぱり、あの、掃除した油とかあの、やっぱ、掃除した時の油やろなあ、こう、油が大量に流れるんよ、その大豆油がねえ。だからそれをねえ、中国の鍋ってのはこうごつい、あの、80センチぐらいあるのかな、なんか、大きい、あの平鍋、それに木の蓋が、こう、あるわけよ。だからその蓋をね、その水面に
パッとこう、浮かべるんやな。そんで、持ち上げて、あの、表面の、油がぺたっとその板に、つくわけやなあ、それを、さーっとあれして、こう、採るわけよ。それを、だからそんな油、を使わないと、やっぱ生活できなかった。でも今の中国でも、なんか、最近、新聞紙なんかで読むと、おんなじことをやっとるみたいやなあ。だから、あの当時の油は、完全に純粋の、大豆油やけど、なんかどぶの、あれをやっとるとかなんか言うから、もっとひどいのかもわからんなあ、今のほうが。だから、それ見て、ああかわいそうやなあと、子供の、時に、やっぱり、こんなことをしてはいかんなあという、あれは、親父からもずいぶん言われたしあれやけど、自分でもやっぱあれは、悲惨やなあと思うたなあ、あんな油
まで食べないかんのやなあと。だからねえ、あの、日本はね、その、満州国を作るためにね、五族協和とかいってね、あの、満州族、中国、それから蒙古族、それから朝鮮族、日本か。なんか、五族協和とか言うてやねえ、やんのはいいんだけどその、ぜんぜん違う、その、日本人だけが良かったらええようなね、政策とったらやっぱあれはダメやねえやっぱり。もっとやっぱり、あんな、だから南方でもやったみたいにあの、占領してすぐに、独立さすとか言うてね、適当に、使っときながら結局独立させずにやなあ、それで結局だから、負け戦になると、反乱起こされて、やられてしまう。あんなやっぱり、さっさと独立さしてやねえ、協力してやったら、むこうも協力してくんのやな。やっぱりだから、日本の
軍部、の上のほうっていうのはもうまったく、そういう意識がないやな、うん。それだけでも戦犯ものやで。
・うちの家が、ごつかったんで、八路軍が、あの、司令部を置くのになあ、くれ言うてやなあ、八路軍にうちの家接収されてしもうた。それでその時に、あの、「追い出すのか」っていうたら、「いやそんなことない、ちゃんと家確保します」言うてやな、で結局日本へ逃げて帰った空家が、あってやなあ、で、あそこ移ってくれへんか言うてやあ。で、「移るいうたっておまえ、そんなん、どないす、荷物どないすんねん」っていうたら、「いや、運ばせます」言うてやなあ。それで、あの、馬車、馬に、こう後ろに、なあ荷台付けた、車じゃなしに、自動車やなしに、いわゆるバスやなあ、大八車に馬つけたやつで、あんなんで、はじめ、なんか、「二、三十台あったらいけるか」とか言うて、あんなもん積んだ
ってなんぼも載れへん。全然減れへん。むこうもあきれてもうて、行ったらなんぼ、なんぼ持って来たいうて。大事なもんだけ持って、移ったけどなあ。そんな日本人が帰る時に、うちのお袋、ようけ、餞別やて、なんかよう着物持って来てなあ、もう、八畳の間のなあ、床下に、びっしり、あの、茶箱、いわゆる、茶箱ってあの、お茶の葉入れる箱あるやん、あれ、もうびっしり詰めて、八畳間の床下びっしり入っとったんちがう。うん、全部、持ってきたんやなあ。おふくろもよくあんだけ、よう餞別やったなあ。

○1946年(昭和21)夏、

・21年の夏に、日本人がもう全部、帰ってしもうておらんようになってしもうてやね、もうほとんど、日本人の姿はなくなってしもうて、んー、お袋もなんか、話し相手がなくなって、心細くなってきたんかなあ。そんで、突然なんか帰ろうって言いだしてやなあ、それで、で、あの、なんていうかな、横が河やからねえ、あの、漁船がようけあんのよ。んで、漁船を、と、なんか交渉、誰がやったんかなあ、兄貴がやったのかなあ、なんか交渉して、一隻、あの漁船チャーターしてなあ、で、残った日本人、何人かなあ、二十人か三十人、おったん違うかなあ。それで、あの、乗りに、乗ってやねえ、帰るつもりで全部もう整理してやねえ、整理してって言うのおかしい全部捨てて、捨てて帰ったけどなあ、リュ
ック一つで、結局船に乗りに行ったら、船着き場には、なぜか、一個小隊、あの、八路軍が、剣付鉄砲で、お迎えや。それで兄貴と、俺と、でもう一人、おったんやけどなあ、あの、福島の、いわき市の、網元の息子でなあ、うん。それと三人、が、一緒のとこで働いとったんや。で、ちょうど、蔣介石が、こう、攻め込んできたんでな、これから、あの、八路軍は、まあ逃げるわけよ。あの、絶対に、あの、最初から戦争はやらない、うん、毛沢東は。まず逃げる。だから、あの、逃げるのに車がいるからな、助けてくれっちゅう、うん。そんで結局三人、また車に残ってもうてやなあ。で、だから家族はだから、皆船で、そのまま帰ってしもうたからな、船に何人乗っとったかは、俺は、知らんのや。かなり、す
し詰め状態で、行ったやろなあ。そしてなんか、今の、えー、あれは、んー、朝鮮、えー、今の韓国の、ソウル。あの、ソウルのとこでなあ、あの、船止めてなあ、それで、陸に上がったみたい。うん。それで、その、船頭がだから、上陸地点でなんか、あの、どうやって帰れるかというのを、あの、相談に、しとる間にあそこらの、干満差がねえ、あの、十メーターぐらい、十何メーターあんのやな、あのへんのあの、潮の干満が。だから、船頭がおらん間に、その、船頭降りた時は満たん、満潮で、こっちに行ったら、ざーんと潮が引いていってやね、もう、あの岩と岩の間に、船がぽーんと座った状態で、あのー、それ必死で、うまいことそこに止めたみたいやけどなあ。うん。それで、また、潮が満ちてきた
ら、またこう上がってきて、それで船頭帰ってきてやなあ、非常に喜んどったみたいやけどな、うまいこと、船を、安全に保ってくれた言うて、あの、そんなに干満差があるとは、まあ、思わなくて降りたんやろなあたぶん。あんな十何メーターの干満差っちゅうたらもうむちゃくちゃやからねえ、うん、ちょっと想像できへんあれやから。で、そっからなんか、あの、南朝鮮、を歩いてどうも、まあ、あと、かなり、むこうは、アメリカが入っとったんで、かなり治安よかったんで、帰って来たみたいやけどな。山越すのに、かなり苦労したとか言うとった、うん。
・八路軍の輸送隊、トラック、なんだかんだ百台ぐらいあったん違う?車でなあ、移動しとって、エンジン、この、車のフレームにエンジンが乗ってるわけやけど、その、そこの、フレームに繋がってる、とこがポキンと折れてな、そんで、あの、木で、木は、そこに当てて、針金でくくってなあ、でエンジンが落ちんように、してやなあ、走ったりなあ。途中で、ブレーキ、パイプが破れて、もう、山ん中、ノーブレーキで、うん、走ったりなあ、相当恐い目もしたけどなあ。うん。
・言葉はなんとかカタコトで、言うとったけどなあ。まあむこうが非常に好意的で、あの、日本語がわかるやつを、ある程度つけとる。もう、幹部扱いやからねえ。非常に大事にしてくれたで。日本軍は占領したらすぐにそこの人間をこき使う、ということをしおったけど、むこうは、やっぱり技術者は、大事だというかねえ、あの、民族を超えて技術者は技術者として扱うという、やっぱりあの、中国人てわりとあれやろ、あの、いわゆる昔の支那人ていうのは、わりと、なんていうのかなあ、あの、紳士、紳士というんか、非常に、プライドもあったし、あれやで、うん。今の中国はダメやな、あの、あれ鄧小平になってからか、あの、だいたいあの、紅衛兵運動、毛沢東の最期が悪いんやね、うん。あれで、中
国はダメになったね。だいたい小学生とかね中学生をね、煽動してね、やるようなことしてたらダメや。結局あの、戦前の日本がそうやったんや。戦前の、日本の教育っていうのは、もうあの、小学生から、かなり、あの、終いの方は、学校に、あの、少尉クラス、の将校が、一人入ってきてやね、偉そうに、してねえ、学校の教育を牛耳るというねえ、あれはもう完全に失敗やで。
・で俺らは、そのままずーっと、その、いわゆる通化、を通り越して、えー、もっと奥行くと、水豊ダム言うてあの、国境、鴨緑江の、まあ、もう、ずっと上のほうので、水力発電所がある。非常に大きいやつであれで、あの当時で、30万キロぐらい出とったんちゃうかなあ。あの、ドイツのシーメンス、のタービンと、日本の東芝、と入っとったん違うかなあ。とんでもない水力発電所。そこまで、逃げて、それであの、八路軍の、戦争っちゅうのはねえ、あの、逃げる時はね、徹底的に逃げんのよ。次の拠点まで、まっすぐ逃げて、それで、あの、逃げる途中にね、兵隊全部、両側に伏せて行く。だから、あの、逃げながら、伏せながら、で、拠点、拠点をまた、あの、戦車とあれとで、こう攻められるとな、
またそこ、パッと、逃げんのや。それで、逃げて黙って見とるんやな、うん。そうすると、次の攻撃行くために、蔣介石は、そこへ、武器弾薬、食糧、山積みにするわけや。アメリカからもろうたやつを。で、そこを拠点に、山積み、が出来た状態の時に、急に、総攻撃かけるわけ。うん。それで、とっちゃうわけよ。そしたら、やっぱり、蔣介石も、武器弾薬を全部とられたら、それ抵抗に使われるからな、だからすぐに爆撃、爆撃機もってきて、その、拠点の、その備蓄したやつ、全部爆撃して潰しちゃうわけや。だからその、潰される、寸前でやなあ、全部、とらなあかんわけやなあ。

○1946年(昭和21)12月の満月の夜、八路軍を脱走。

・だけど、俺らはその、備蓄中の時に、どさくさにまぎれて、俺と、その福島の、あの、網元の息子と二人は、だから、あのあれや、そこで逃げたんや。それで、まあ、朝鮮人の家に、あの、かなり、金を渡してやなあ、逃げ込む用意はその、前もってやっぱり段取りつけてあってやなあ、で、そこで落ち合う予定でやなあ、結局だけど兄貴は、あの、もう、監視厳しくて、結局逃げれなくてやなあ、兄貴が一番、あれやったからなあ。
・十二月のなあ、満月の夜やったわ。21年の、12月の満月の夜っちゅうたら、気象庁行って聞いたらわかるんだろうけどなあ、何日か。日にち覚えてないなあ、とにかく満月だったわ。もうあの、野原、何キロ歩いたんかなあ、かなりの距離歩いて、その、その買収してある家まで歩いたんやけど、一人で、別々に動いたからなあ。とにかく、道が一本、スポーンと通ってて、その道歩くんやけど、車が来たら、横の溝んなか、ばーっと飛び込んで隠れる。で、車がぴしゃーん行きすぎたらまた、道出て、歩いて行くという。もう月がこうこうと冴えてなあ、満月の月が冴えて、ほら、昼間みたいに明るいんやな、雪が一面にこう、積もっとるからねえ。そんなにあのへんは、あの雪は積もらない。何センチもな
らない、もううっすらと、さーっと、んー、どちらかというと霜、に近いのかなあ。あの、雪なんて全部、風で飛んじゃうからね。あの、粉雪で、量が少ないと、積もることはないわけや。だからその、どっか行くと、吹き溜まりにあの、ごっつうたまるわけやけどね。何時間か、ほんまに、月夜の夜中に歩くのは、気持ちいいもんではなかったなあ。
・それで、兄貴はそのままずっともう、全満州を周って行って、中国全土、あれしてやなあ、で、あの、ベトナムの、あの、ベトナムがフランス領やったやろあの当時、だから、フランスが持っとったわけよ、あの、終戦後。であの、ディエンビエンフーっていうのかなあ、あそこで、あの、負けてやねえ、あの、フランス逃げるわけやけどなあ、あれの、攻撃の時まで、兄貴はどうも、行っとるんやな。ベトナム、の参戦した。兄貴は、だから、帰って来たのは昭和の35年、うん。だから、あの、非常に、あの、毛沢東には貢献しとんのやけどなあ。

○1947年(昭和22)1月、北朝鮮興南へ。

・で、俺らはだから、水豊ダムのとこ、あそこはだからダムの上こう、車通れるからな、うん。それで、あそこから、北朝鮮側に入ってやな、それで、だから元の、丹東の向かい、だから北朝鮮の、新義州って、今あれなくなっとんのかなあ、新議州そのままちがうんかな。そこまで行って、そっから汽車に乗ってやね、それで、今の、平城が、なんになっとるんや、ピョンヤンか。あそこまで、行ったんやけど、まあーその道中はひどい、汽車はろくに動かない、いつ、乗ってもいつ出るかわからない。それも、あの、客車じゃなしに、もう貨物列車。途中でなあ、日本人、あの、正規に、あの、なんか、通行証かなんか、もらってたなあ。なんか、あの、俺らみたいに脱走したやつじゃなしに、ちゃんと、あの、
まともにどっか、まともな連中が、こう、なんか通行証かなんかもらっててやな、その連中の中へ俺はあの、二人がまぎれこんだんや。だからその連中はまったく、金ない、ほんで結局、その連中の、食いぶち、全部俺らが払っとった、うん、まあまぎれこんどるんやからしょうがないな。金は大量に持ってたからな。日本、日本円と、ロシアの軍票、うん、と、当時の朝鮮の紙幣、あの、朝鮮、まあ一応、朝鮮も、植民地状態やから、朝鮮の紙幣が出とったんや。うん。だから、札も三通りもってやなあ、大量に、逃げる前に、金作ってやな。それで、なんとか、あの、裏日本、裏日本に、あの、日本海側、あの、北朝鮮の、そこは、興南、興南っていう港やったけどなあ、かなり大きい街であの、窒素の工場があ
ってね、で、あの当時、何万トンかの船が横付けになるあの、あれや言うとったわ、あの岸壁や言うとった、うん。もう、とてつもない、たぶん、朝鮮戦争の時に、アメリカ軍、負けて、あの、たぶんあそこから、脱出やったと思うんやけどなあ、あんだけの港ほかにないから、うん、たぶんあそこから脱走したんやと思う、あの、攻められて逃げる時。船で、かなり逃げたみたいやから、でそこへ逃げ込んだんが、だから、21年、ちゃうなあ、22年か、22年の、1月にそこへ逃げ込んだんや、1月のはじめに。だからまだ、その窒素の工場は、どうにか、あの、なんか動いとるみたいやったなあ。それであの、冬で寒いんやけど、あの、暖房、暖房なのか、工場の、んー、なんか設備動かすんかなあ、あの蒸
気が、相当、ごっつい、蒸気が通っとってねえ、だから、内緒で、その市場へ、一人でこう出て行って、で、あの、生きたカニ買うてくんのや。ごっつい、あのー、市場行くとその、カニを山積みにしてあんねやな。その山積みにしてこう逃げるやつをこう、ぐるぐる回りながらね、山、あの逃げるやつを、上へ上へ放り投げて、原始的な、売り方やな。そこ行って金わたして、カニ、とってくるという、うん。そんで、そこの蒸気、のドレーンをあけて、ぶあああっと蒸気ふかしてやねえ、蒸気で、そのカニ、をふかして、内緒で食って、それで、黙って帰るわけや。帰ると、一日二食でやなあ、その、日本人のグループんとこ行く、その、正規のグループに、逃げ込んだとこ行くと、あの、石油、石油缶、あの一
斗缶に、米を、ほんまに、コップに一杯、一杯もない、ほん、ちょびっと、ぱらぱらっと入れて、大豆、コップに一杯くらい、あとは、なんか大根、がまだ、なんかあったなあ。大根刻んだやつと、あとなんかもうそのへん、でほじくってとってきた葉っぱ、放り込んで、冬やからなあ、葉っぱ類はありえへんなあ、なんかもう適当になんか放り込んで、なんか、十何人でその、一斗缶のやつを食うわけよ。だからもうほとんど水飲んどるみたいなあれで、塩サバが、二匹ぐらいか、なんか、塩サバが、その、軍隊が漬けとった、軍用の、なんか、貯蔵やなあ、なんかプールみたいな、コンクリの、ものすごい、あの、サバがびっしり、詰まっとんのや。そっから、二匹ぐらいもろうてきてやなあ、それをまあ、行っ
たら、配給でくれるわけや、うん。それ二匹ぐらい放り込んで、炊いてやなあ、で食っとった。だから、そこで栄養失調でようけ死んだよ。もう、しまいに、三千人ぐらいあつまってたん違うかな、全部で。あちこちから集まったやつが。それで、日本から、船が来て、まあ迎えに来て、乗って帰ったんやけどねえ。だから、三月、おる間に、船乗ったのがもう三月の末やったからねえ。その間にもう、毎日死んでいくのねえ。もう朝、起きてこないとかね、それから、飯食いながらね、あの、なんか動かんなあと思ったら、もう、そのままで、死んどる。多かったよそんなんねえ。もうあの、栄養失調になると、感覚なくなってくんのやな。そんで食欲もなくなんねや。もう完全に、あの、腹減りきってしまうとも
う、おかしなもんやなあれ。それで、みな下痢がはじまる、消化せえへんのやなあもう。もう消化するだけの、もう胃に、胃っていうか胃とか腸に、もう力がないのかなあ。あの、軟便がはじまると、もうあかんな。俺なんかでももう、終い頃は、もうかなり、もう、軟便に近い状態になってた。かなりだから、俺は、生もの食わないと絶対ダメだと思うから、カニをとにかく、カニを、食ってたから助かったなあ。カニまるごと食うと、かなりの栄養価があるからなあ。カニがなかったら、死んでるなあ、うん。もう、あの、朝鮮の餅で、あの、米粉をこう、ついた、なんか蒸かしパンみたいな、餅があんねや。だからそれとか、ちょっと甘味のついたやつとか、あんのやけど、そんなんを、食ってたやつは、もう
、あかんかったな。やっぱり、やっぱり、生きとるやつを食わんとやっぱり、あかんな。極限に、なるとやっぱり、自分の判断で生きないと。
・オンドル、むこうはあの、家の暖房がオンドルいうてねえ、床、床を作る時に、あの、石を、大きい石を積んでね、で、それにこう平べったい、平たい石があんのよ、それを、こう、きれいに並べてね、それでその上に粘土塗って、あの、それで、床作るわけよ。で、床の上にアンペラいうてあの、高粱、ってあの、なんていうんかなあ、日本でキビっていうんかなあ、1メーター50、2メーター近くなんのかな、穂になって、先に、小さい、あの、穂がついて、ちゃいろい、高粱ていうのやけど、それの皮をめくったやつで、こう、竹編んだみたいに、ゴザというんか畳代わりやな、結局その、粘土の上に、織ったやつをひいて、冬になると、薪、を燃やして、煙を通して、床を温める。だから、いろんな木を
全部バンバン切っちゃうわけよ。植林どんどん、すりゃいいんやけど、だから、山がどんどんはげていって、結局洪水、洪水になると流れる。だから、あの、北朝鮮で今でもあの、洪水被害が非常に多いっていうのはそれやね。燃料に木を切っちゃう。もう大きい木がないやね。うん。もう小さい木ばっかり。悪循環やなああれは。
・まあ北朝鮮では、もうほんとに、北朝鮮ていうのは平野が無くて、もう全くの、山、うん。あの、東北地方みたいなもんやな。もう、海からすぐに、山になる。だから、もともと狩猟民族、やから、だから、なんていうんかなあ、やっぱり気が荒い、な。やっぱりあの、南朝鮮側は、やっぱりあの、今の韓国、の側は農村、ほとんど平野で、農村やからなあ。むこうは、ある程度、あの、気が優しい。農耕民族とあの狩猟民族ってのは全然違う。だから、北朝鮮は、非常に、危なかったなあ。うっかりもの言うと、もう日本人とばれたらもう、即、非常に、非常に危険な、もう、よくて重傷。どこで死ぬかわからんという、非常に、危ない、とこ、渡り歩いたなあ。だから、あの、人相っていうのかなあ、こうパッ
と見ただけで、この人は安全か、安全でないかっていうのが分かんのやね直感的にね。あの、今でもかなり、あの、役にはたつねえ。直感で、あ、この人は、大丈夫やっていうのが、ある程度あの時のあれで、感覚で。それ見えなかったら、死につながるわけやからなあ。あれはやっぱり、まああれあの、終戦後なあ、そのお安東に帰ってその、毛沢東のあの、八路に入る前に、ちょっとの間、三月ぐらい、なんか日本人が、そのどんどん日本に帰るために、あの、資金繰り、結局帰る、物持って帰れんわけやからなあ、リュック一つしか持って帰れんわけやからなあ、もう担ぎ、自分で担いどるもんしかもう、財産、持っていけんわけやから、全部放るわけやからなあ。まあそれをやっぱり、あのなんとか、ちょび
っとぐらいでも金に、換えるためにやなあ、その、売ろうとすんのやけど、その、売る方法もないわけよ。それで、俺はかなり安全だったんで、で、売ってくれへんかって、なんか、大量に、持ち込まれてやなあ、で、ずいぶん、市場行って俺、三月ぐらい、委託販売、やったことあるけどなあ。うん。まあ、あの市場で、物売るとねえ、あの、買ってくれる人間とねえ、やっぱあの、強奪していくやつねえ、やっぱり、おるわけよ。ちゃんと、あの、品物、持って行っても、金ろくに払わんやつと、ちゃんと金払うやつねえ。それでやっぱり、こう、ある程度人相でわかんのやねえ、うん。あの、三月ねえ、あの、委託販売でねえ、あの、物、中国人相手に、その物売ったんでねえ、あれでかなり、ああいう、人相
を見る、あれが、勉強にはなったなあ。だからそれがまあ逃げた、脱走してからの、役にたったんやろうなあ。もうなんでもやらないかんのやで、人間て。なんていうんかなあ、パッと見ただけでこの人は大丈夫だっていうのがわかんのかな。極限状態で生きとると、本能やなああれは。だから、昔からあの手相見とか、ああいうのもやっぱり、そこらから、やっぱり、勉強してくるんやろなあ、うん。
・ほとんど、まあ、通行証がなにか、もらってて、団体で行動しとるからな、俺みたいに、二人だけで個人で、動くなんちゅうのは、まずほとんど、そんな、あの、身の安全は、ないからなあ。
・ほとんど、野宿みたいなかたちやったで。着の身着のままで、零下二十度ぐらいで、平気で寝れるようになるで。あれ、最後でなあ、帯状疱疹、あれやってなあ、痛かった覚えあんなあ、割とすんなり治ったけどなあ。うん。まあたぶん、医者も行ってないし、そのままで、勝手に、治ったから、まあよかったあれでなあ、たぶんだけど帯状疱疹やと思うわ。こうずーーっともう、あの、なんていうかなあ、痛いんやあれ、うん。だから、まあ運がいいんやろうな。あれなっても、逃げる時にもちゃんと金の段取りもできたし。もう日本に帰る時にはもうなんぼ、んー、日本円がちょっと残っとっただけやなあ。日本円も結局あれどないしたかなあ、上がった時に、封鎖されとったから、あの、没収、没収であの預
け、で預かり証もらったけど結局は、預かり証、どないしたんやろうなあ。覚えないから、ほんとは、もらいに行ったらくれるんやろうけど、預かり証ないから、結局、終わりやなあ。あんな、もらいに行ったって、何百円もなかったもんな。あの当時何百円てごっつい金やったけどなあ、今にしたら何百円、どうしようもない。当時の値段でということでなあ、倍とか十倍とかに、してくれるんやったらええけども。
・まあ日本に、あれで船で、迎えに来て、乗って、えー、長崎、佐世保に、入ったんかな、うん。

○1947年(昭和22)3月、佐世保上陸。

・佐世保に帰ってきたら三月でねえ、菜の花が咲いて桜が咲いてねえ、「はあ〜日本てきていな国だな〜」と思ったなあ、うん。ほんとにきれいだったなあ。で、なんかあの、汽車がこう走ってるんのがね遠くに見えてね、うん。それで、満州は、あの汽車がごつかったからねえ、だから、日本の汽車見るとねえ、軽便鉄道みたいに見えるんや。「ちっさいあの、汽車走っとんな〜」と言ったら、「いやあれ本線やで」って。「ええ!?」っつって、うん。「ちっこいな〜」とか言って。それで、なんか、上陸するとすぐにあのアメリカ兵がおって、ん〜、あの噴霧器で、DDT、あの粉をなあ、うわあんうわあああんて、やられるんやなあ。俺はなんかうまいこと要領よく逃げてなあ、あんまり、えー、あの、かぶ
らんと、あれしたんや。そうすっと、あれはやっぱ失敗やったなあ、あの、シラミが残ってなあ、家に帰って、あのー、汽車乗って、徳島に帰ったんやけど、家帰ると、服全部脱がされて、シラミがおる言うんで、服、全部、あの、鍋へ放り込んで焚いてやなあ、うん。あれはやっぱり、DDTかぶったほうがよかったのかもわからんなあ。あのシラミっていうのはずいぶんと、強いからなあ、少々では、うん。縫い目にびしっと、縫い目に入んのやあれな。だから少々では見つからんのや、敵もさるもんや、うん。徳島、帰って、結局、男は、長男次男三男、で一人子供の時に死んでて、だから、四人と、四人と、姉と妹、だから、七人か、七人やけども、女だけが、姉はもう結婚して、大阪へきとったんかな、帰
ったら。んで、お袋と妹と二人、徳島におってやな、そこへまあ、親類の家に転がり込んだんやけどなあ、これがまた、非常にきれい好きの、おっちゃんとおばちゃんで、もう、帰ってきて、玄関上がって歩くと、端から、雑巾で、拭いて行かれるという、居候で。おっちゃんは、おじさんは大変によかったけどなあ、おじさんはよう面倒見てくれたけど、おばちゃんは厳しかったなあ、うん。よくお袋の妹のとこが、近くやったんけど、妹んとこがその、もともとは酒蔵やったんやけど、戦時中に結局、まああの爆撃くらって、あの、全部燃えてしまった。で、あとなんか工場やってたけどなあ、だけど、そこに、かなりの、家財預けてあったんやけど、結局全部、焼けて、無かった。だから、もう、帰ってきても
、非常に、悲惨な、あれやったなあ。もう、お袋と、妹二人で、三人で、三人、四人か、四人で、明日の米どころか、ほんま今晩何食おうかって。悲惨なやつを、ひと月ぐらいあったかなあ。それからまあ働いて、なんとか給料もらって、食えるようになって。土方からなんか、もう、何でもやったなあ、うん。で、鉄工所入って、まあ、まああの、飛行機の学校でかなりその、基礎的なことは習ってたんで、あの鉄工所入ってからは、わりと、あの、まったくの素人で入ったわりには仕事したなあ、うん。大概のやつより、あの、ああいう、見習の中ではずば抜けて、よかったんで、まあそこそこ、工場長づきで、やらせてもらったからなあ。かなり優遇されたけどなあ。あの、当時の、焼玉エンジン、あの、船に
積む、焼玉エンジンって、まあディーゼルエンジンに近いんやけどなあ、重油焚いてあれすんのやけど、そのエンジンを作ってる工場に入ってなあ、で、スクリューシャフト、結局エンジンから、スクリューにいく、シャフトなんかでもなあ、あの、十センチぐらいの、こう鉄棒、の、三メーターとか、その、あの、野積みして置いてあるわけよ。もうあの、青空、のとこに、木の台、木の台の上に、木というかもうちょっと枕木みたいにして、その上にゴロゴロ、あの、転がってるわけよ、十センチぐらいの鉄の棒が、どわーっと。それを、あの、普通の鉄ノコあるやんこの、弓、あれで切んのやで。その寸法、なんぼで切って来い、その寸法計って切んのやけど、これは、非常に難しいなあ、あの新米ではもうち
ょっと切られへんな。であの当時のノコの歯ってのは非常に悪かったからな。もう下手な使い方したらすぐにダメになる、それで折れる。それを、うまいこと、あの、表面がぜんぶ、あの、鍛造でこう、製鉄所から出て来てるやつやからなあ、表面がだからこんな黒河言ってねえ、あの、固い。それをうまいこと、ごまかして、その、通化さしてあとの鉄のところうまいこと切って行かないと、こう、ノコの歯がすぐ駄目になる。うん。しかも、その十センチあると、歯の動きが、もう何分間、あんねやな。こう往復すんのに。それを、切るのは非常に、難しかったなあ。もう、抜群に、早く切りおったから、ほとんど、それの切り役、やらされたなあ。まあ、要領なのかあ。なんでも、まあだから、なんでも、勉強
はしとかないかんもんやなあ。
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