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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大阪キャラバン後半1日目、10月17日(木)の様子です。
今日の聞き取りの内容速報が届きましたので転載します。

◆◆◆

◎河野宏さん

昭和六年生まれ。

小学校1年の時に渡満。北鮮国境付近の町「たんとう」へ。父は通化で満鉄のバス部門の営業所長。通化付近は金日成の抗日パルチザンが頻繁に出没し、関東軍が討伐に出るもほとんど捕まえられず、員数あわせで近くの村を襲う。その村民が父に助けを求めに来て、父は「うちの従業員だ」といって助けてあげていた。18年に父親が酒の飲み過ぎで脳溢血を起こし死去

19年
整備士の学校へ。逓信省航空機乗員養成所的なもの?満州航空から教官がきていた。場所は延○

20年初頭
治安が悪化。飛行場の歩哨が拉致されるようになる。

同年3月
白城子へ移動命令がでるが、さらに新京の飛行場へ移動。延○も白城子もあとでソ連が入って全滅したから運が良かった。

同年8月まで
高級将校が飛行機で内地に逃げていく。おかしいなあと思った。
内地から飛行機が寿司を運んできて、「銀座の寿司だ!食え!」と言われて食べた。
終戦
ソ連の大使が輸送機でやってきた。
学校は解散し、たんとうへ帰る。蒋介石軍は程度が悪く、途中で支配地のほうてんを通ったが、日本人はほんとに身ぐるみをはがされていてホームから出れなかった。


たんとうにつく。
八路軍のおかげで治安はすごくいい。
母親は引き揚げはあぶないからまだここに残ろうと言うので残った。食料は父親のおかげで中国人がくれたり。警官だったりいじめた日本人はよく殺されていた。
そのうち八路軍が自動車の運転手をさがしていたので、兄と入ることに。

21年3月
日本人がだいぶひきあげてさびしくなったのか母親が帰ろうと言い出す。兄が漁船をチャーターして、波止場にのりに行こうとしたら、八路軍が一個小隊待っていた。輸送隊にのこってほしいということで、兄ともう一人と残った。家族は無事に帰国。

国共内戦
12月、あぶないので3人で脱走を計画。が、兄だけ逃げられず。兄はなんとその後、ディエンビエンフーの戦いに参加し、昭和35年に帰国。今もがん気味だが健在。

22年1月、北朝鮮こうなんへ。
日本人が集まってきて、3000人くらいいた。食べ物がなくてやばかった。栄養失笑でどんどん人が死んだ。

3月、帰国。
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