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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
2011年に行った第2回福島キャラバンの証言もう1ついきます。
11月23日(水・祝)に伺った証言です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

◎阿部一郎さん(91)
取材日:平成二十三年十一月二十三日
所属:歩兵第29連隊~歩兵第65連隊第8中隊~独立歩兵第46大隊(矛2317)第5中隊~歩兵第407連隊(護仙22205)第2中隊
歩兵(擲弾筒)
戦地:中支
――――――――――

○1919年(大正8年)11月2日、福島県生まれ。

・実家は農家。

○1939年(昭和14年)、徴兵検査

・第一乙種だった。今思えばおかしな話だが、福島の連隊区司令部の陸軍大佐に、ぜひ兵隊にしてくださいと血判を押した手紙を送った。その甲斐あってか、この年の十二月に入営となった。
・あの当時はやはり二十歳なので、自分は国のためになるんだ、兵役は国民の義務であるからということで、軍隊に行くことに対してはむしろ誇りに感じていた。国全体の雰囲気、また教育環境の中おいて、日本は今東洋の平和のために中国と戦争状態になっているんだと、だからというような状態で意識されて、「そういうわけならば一生懸命やらなくちゃならん」というわけで、自分の命というものを国にささげることには何の抵抗感もなく、むしろ誇りにすら感じた。一生懸命やることにおいて求めることはやはり国の平和であり、自分の家庭も平和になることだった。

○1939年(昭和14年)12月、現役兵として若松歩兵第29連隊に入営

・人事係の金沢准尉の当番になった。先輩から「金沢准尉は朝にあったかいお茶を飲ますと機嫌がいいからな」と教えられたが、お湯を沸かすための石炭がなかった。そこで盗み方を覚える。医務室に石炭があるので夜盗みに行ったら見つかってビンタをとられた。それからなんとか薪を手に入れてお湯を沸かした。

○1940年(昭和15年)3月24日、第13師団歩兵第65連隊要員として若松出発。
○1940年(昭和15年)3月27日、大阪港より出帆。
○1940年(昭和15年)4月5日、揚子に上陸。
○1940年(昭和15年)4月10日、歩兵第65連隊第8中隊に編入。

・国のため男児の本懐だという気持ちで行ったけれども、いざ現地に行ってみるとそれは恐ろしいもの。戦争というものを現地で体験してからはものすごい死との格闘なので、個人的に悩みもしたが、夜に北斗七星というか空を見れば日本も中国もあまり変わらないような感じがして、星を眺めながら故郷を思い出したということもあった。
・夜になれば軍歌などを歌って過ごしたが、軍歌も一つ一つ紐解けば、静かな空気である程度悲しい言葉あるが、自分の士気を鼓舞するために悲しいことを元気な声で歌った。ああした空気というか環境というのはいろんなふうに人間に影響を与えるなあと感じた。
・倒すか殺すか人間の道から離れた中に於いて戦争のなかにおいていかに敵をころすかという訓練。しかし戦地に行ってみると、自分の前も後ろも敵に囲まれた中に於いて、敵襲などもあるし、そんなこと、あの時油断すれば全滅だったなあということもある。
・第一線にいると敵が来る。敵が攻めて来たので早速出動した。夜中暗いところで行動すると、遠くからパンパンパンパン撃ちあいが始まって音が聞こえて、はじめて弾のことを身近に感じた。何か動けなかったことを覚えている。なにか腰が抜けたというか、ほんとうに初めて敵と交戦した時のことはわすれられない。
・あそこを占領するんだという戦闘の時、突撃する前はやっぱりぶるぶる震える。戦友と「ああこれが武者震いかなあ」と語り合った。誰が死ぬかわからないから。第一線はそうしたことの繰り返し。
・ところが、三年もいると今撃った弾が自分を狙って撃った弾なのか、どこに撃ったのかわかるようになっていた。責任感の差は大なりということが戦陣訓の中にあって、責任というものをうんと強く意識した。弾もなにも怖くない。だんだんだんだん恐くなくなって来る。環境というか責任と言うものは人間の気持ちを代変えるんだなあと思った。
・宜昌からちょっと離れた場所にいた。中国はひろいからいろいろな所に部隊が配属されている。
・蔣介石軍と戦う。よく攻撃に来た。
・あちらの作戦こちらの作戦、それが終わったらまた帰ってきて別の作戦。攻めたり攻められたり。それがやっぱり戦争というものだと思う。
・戦死者が出れば土を掘って、マッチを集めて焚いて火葬をする場合もあるが、それはいい方。戦死したままで終わる人もずいぶんいた。戦争の過酷さは話にならない。
・あのころは現地調達でだいたい中国の米を食べていた。一日に二合で過ごしていた。醤油は粉醤油。
・武器は擲弾筒を使っていたが、三発目あたりから正確になるらしい。敵の前線に当たった時はなんともいえない快感というか爽快な変な気持ちでうれしいもの。でもそのかわり敵は死んでいる。あの当時はそんなことをして自分を守るためにいかにして相手を殺すか。心の中にあるのは東洋平和、そのためにそうせざるをえなかったという大きい大義的な精神を植え付けられたので、良いも悪いも相手を殺せばいいんだ、それで上官の命に従って行動したということ。今考えれば地獄の世界で過ごしたようなもの。
・中国で戦っていて、十六年に大東亜戦争が突入したが、そうした情報は全然入らない。もう目先のことをやって、情報は入らないし、敗けた話は教えられないし、日本軍はすばらしいんだということを、連戦連勝の中にいるんだからお前らもがんばれということで、そうだなあと思っていた
・戦友が死ぬことはとても悲しかった。けれども不思議なことで自分が死ぬことにそれほど恐怖は感じなかった。
・戦争で信頼というものを強く意識するようになった。戦争というものは上官と部下との信頼関係にあるということ、また部下を統率するには信頼があってはじめて統率できる。そして結果的にいろいろな成果をあげることができる。だから信頼において人間がつながっていくことが大事だなあと思う。
・軍人精神を中心とした中に人間味を添えて行動する。
・教育のためとはいえ、ビンタを持って部下を制することはいかんなと、ビンタをとらない教育の仕方があるんじゃないか、ビンタをとらない上下関係にしなくちゃいけないと思った。だからビンタは取らなかった。相手を思いやる心が信頼につながると思う。
・戦争中、豚や牛を殺す、そんなことは掠奪だけれども後方ではなくて第一線だから。ご飯は食べるけれども、おかずも味噌汁くらいのものだから、殺して肉を食べる。眠ったほうがいいのか、肉を食べたほうがいいのか、明日の作戦はどうしたらいいのか、そんなことを考えるばかり。
・日本軍は小部隊でポツポツいるから全滅させられることもあった。歩哨がなまけていたりすると全滅してしまう。そのためにはちゃんと一時間交代で番兵にでなければならない。
・夜間の敵からの襲撃は恐い。敵がどこから来るのかわからない。手榴弾で撃退してたすかった。あとちょっとで全滅になりかけたことがある。
・討伐の繰り返し。帰って来て休息の時間は自由気ままに支那の酒を飲みながら過ごしていた。
・手紙のやり取りはたまにしていたが、第一線にはほとんど届かなかった。
・まず飛行機で爆撃して、それから砲兵でドカーンと撃って、その間に歩兵だから進み、近くにきたら砲撃をやめて、だいたい朝方にわあーっと突撃する。
・大きい作戦にいくと何日も帰って来れない。後はだいたい3日くらいの作戦が多い。
・隊長の当番兵になって作戦にいったことがある。2日間の作戦であれば2日分、隊長の分まで米を持たなければいけないから重い。それに弾もある。二人分を持つのは嫌だし、少し減ら余った分を食べようと思っていたら、隊長は全部食べてしまった。それで食べられなくて栄養失調になってしまったのか、歩けなくなってしまった。だが置いて行かれたら捕虜になってしまうから、やっとかっと部隊についていった
・手榴弾は2つ持っていた。一つは相手に投げるため、一つは自爆のため。弾は重いから
・水は泥水も飲むし、よく病気にならなかったなと思う。汚いけれど沸かせばいいということだった。
・水筒は持っていたが、なるたけ飲まないようにしていた。重い荷物をしょっていたので、行軍はきつかった。
・敵に包囲されたとき、「敵がむかいの山に上がっているから夜に15人くらい連れて鉄砲は要らないから手榴弾だけ持っていけ。朝になったら日章旗を振れ」と言われて、山を一晩中あるいて明るくなってみると、すっかり方向音痴で目的を達成できなかったことがあった。この時もずいぶん日本人が亡くなった。敵の中を潜っていくので入り乱れだった。
・中国軍はやっぱり強い。ずいぶん日本人も亡くなった。
・中国の捕虜を捕まえたことがある。共産軍は思想が強かった。
・一番最初に捕虜を柱に縛って、鉄砲の先に帯剣をつけて、「並べ」なんて言われて、はじめて人の殺し方を教えられる。やーっと突いて一発撃って抜いて帰って行く。みんなさせられる。戦争だから、残念ながら軍隊は人を殺すために存在する。そうでなかったら人道でやるはずがない。戦争なんてむちゃくちゃ。
・やーっと刺すとぽすっと入っていく。抜くのも楽。縛っている人間を刺すんだから。度胸試しで、度胸をつけるんだなんて言われて、「みんな並べー!」なんて言われて、殺し方を教えられる。あとは刀で斬ったり、土を掘ったり。
・だいたい日本軍が出て行くと中国軍は逃げて行く。
・作戦をすることになると、最後だから兵隊が慰安所に行く。遊ぶ人もあるけれども、これが最後だから、二十歳前後で女を知らない者もあるから、その中で兵隊は七時までとか、七時から九時までは下士官とか、それ以上は将校とか時間を区切ってやっていた。そうした時お金を出してやる。
・どうせ死ぬんだったら美しい体で死にたいという考えだったので、そうした関係はなかった。
・わたぬきという中隊長に「お前は女を買ったことがあるかね」と聞かれて、「ありません!」と答えたら、「関係したらだめだ。関係しないで通せ」と言われた。
・慰安所は戦地での強姦を防ぐためにあったろうと思うが、それでも日本兵の中にも強姦をする人がいたようで、中国の女の人には髪を剃ったり、男の服を着ている人もいた。
・作戦中の内容にもよるが、中国の村に入った時、家に火を付けて焼く場合もある。第一線では家を焼くことに罪悪感は感じなかった。戦争と言うものはさんさんたるもの。
・日本人の中にも「お前らのために俺はこうして日本から来たんだ」という考えの人もある。
・部隊でクーリーを使っていた。裸足でかわいそうだった。小さいロバもつかっていた。
・中国人と話し合いはあるが、遊ぶようなことはなかった。
・戦地では酒が一番の楽しみかなと思った。高粱酒が中国のどこの家庭にもあった。一線では家に誰もいないので、黙って持っていく。
・牛なんかはパタッとはたくとコロッと死ぬ。豚はなかなか殺すのが大変。かわいそうだったが、肝臓なんかよく食べた
・タバコは飲まなかったが、飲む人は一本のタバコをわけて飲み回していた。
・前線は敵と入り乱れて怖くて疲れるので、後方に行きたいなとは思った。年中弾の中で過ごすので気が張り切ってしまう。
・大きな作戦中は空家の中で寝たり、外で寝る。

○1942年(昭和17年)3月30日、第60師団(蘇州)編成要員として龍泉舗出発。
○1942年(昭和17年)4月20日、常熟にて独立歩兵第46大隊(矛2317)第5中隊に編入。

・60師団は蘇州が本部。
・この部隊はあちらこちらからいっぱい人を集めていた。入隊した者何人から下士官一名とか上等兵何名かあつめ構成していた。だから長野の人もいたし、四国の人もいたし、全国から集まっていた。
・この部隊の目的は清郷工作。戦いはあるが、こちらは中国と仲良く新しい中国をつくるためにお互いに仲良くやっていきましょうと、あたらしい地域づくり。そのためにあちこちに配置されて、そこを起点として中国の皆さんと会話をしながら、政治のいろいろ、良い人も悪い人もあるので、そうした人達は武力で排除して、住んでいる方に安らかに生活できるようにすることが60師団の任務。
・最初は戦争ということで相手をいかに殺すかというところから、今度は中国の皆さんと仲良くしましょうということに変わった。
・中国人と人間的にいろいろ交流したので、中国人には非常に親しみを感じていた。
・人間では中国も日本も同じだなあと思った。教育の関係上、中国人を軽蔑していたということ今では悪いことだと思うが、優越感は強く持っていた。
・あちらこちらに点在して、住んでいる中国の人と友好関係を築き、そして共産軍を相手にものすごい戦争ではないが戦っていた。
・今思えば懐かしい感じ。田舎に配属されたので、農民の方が非常に多い。中国は日本以上に生活格差が大きく感じる時代だった。裕福な人はすばらしい生活をしているけれども、貧しい一般の庶民は日本人とかけ離れた窮屈で苦しい生活をしていた。なによりも広いから格差が大きいと感じた。
・現地の中国人は敵対意識はなく、日本でも終戦後アメリカと交流を深めたような感じ。

○1943年(昭和18年)12月5日、召集解除要因として蘇州出発

・除隊をするときは半分うれしいけれども、半分は何となく同僚を置いていくのでさびしさもあった。戦友同士のつながりは強い。

○1943年(昭和18年)12月17日、南京より出帆
○1943年(昭和18年)12月27日、門司港上陸
○1943年(昭和18年)12月31日、東部64部隊(佐倉)にて解除

・除隊してから一年間、家で農業をしていた。

○1945年(昭和20年)4月、召集。歩兵第407連隊(護仙22205)第2中隊編入。

・石巻の護仙部隊へ。震災で水浸しになったところ。
・仙台の長町にいた時、空襲に遭う。
・すごい空襲。戦地で空爆は経験していたが、アメリカの爆撃機ははじめてみたので驚いてしまった。帽子なんか反対にかぶって集合してしまったこともある。経験していたので恐いことはないが、身近なので。
・仙台には2回ほど空襲があった。
・爆撃があるのでもったいないけれど、火災になるから家の打ちこわしをやった。石巻の家をずいぶん壊した。

・○1945年(昭和20年)8月15日、集まれといわれて、なんのことかと思って集まったらラジオを聞かされた。

・ラジオだから受諾したんだか何だかわからなかった。後で敗けたということを初めて教えられた。
・もう信じられなかった。戦況を知らされていなかったから、後で状況を聞いてそうかと思った。
・そんなことで終戦を知らされて、家に帰ってきた
・二、三日部隊にいて帰って来た。
・戦争が終結して帰ってきたら、行くときは誇りに感じたものが、終戦後の国民の感情というものは、軍隊は何か悪いことをしたみたいな感じがして、自分たちが精いっぱい命をかけてやったことが、誇りにも感じない何ともいえない気まずい思いをした。だから今振り返ってみると、あの戦争は一体なんだったんだろうかな、あの当時は国のためだ、自分が精いっぱい働くということは大きく役に立つんだなということが、人生の目標の中に置いてきたが、終わってみると軍隊は何をやってきたんだろ、戦争はなんだったのか、あの当時は日本は神の国であり、相手が悪いから平和のために戦うんだ、そして聖戦という言葉を聞かされて、振り返ってみると、なんだかやっぱり正しい戦争なんかないんだなあという
ことを今感じるし、帰っては来たもののずうっと時代は変わり、何か戦争の体験を誰も聞く耳を持たない風潮になったと感じる。
・戦争というものに対して認識はしたが、あの苦しい中において命がけでやったということは、やっぱり家に帰っても精神的にはいろいろ鍛えられた面がある。
・自分が生きて帰ったということは、何か一度死んだ自分が第二の人生を踏み出した感じ。亡くなられた戦友を思うと、亡くなられた方の分も一生懸命やらなきゃなあということを、社会的な責任というのを感じた。
・今元気で生きていることは過去の亡くなった戦友のことが頭から離れない。しかし、そのぶん何かやらなくちゃならないなということを年中はなれない。だから自分の農業という中において一生懸命やった。
・戦争でさびれたので、非常にさびしいから、いかにして自分の農業、花作りを通して自分の夢というもの生きがい感じるかを七十年かけて裏山を切り開いて花見山公園を作り上げる。目的は自分の人生のやすらぎを求めるために作り上げた。自分の人生の集大成。皆さんがみたいというから解放した。お金がほしいからじゃない、戦争を体験して安らぎがいかに人間に大事か感じた。地獄の世界の戦争を経験したからこんなことができたんだなあと感じる。苦しい体験も役に立つんだなあというふうに感じる。

●終戦時、陸軍軍曹。

※阿部さんが鍬一本で作った花見山公園は、年間三十万人の観光客が訪れる福島市の観光名所となり、原発事故後もすぐに除染作業を行ったので、2011年度にも十万人近い観光客が訪れているということでした。
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