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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
7月30日(金)の西東北チームの様子、宮城県岩沼市の別働隊からの報告です。
体験者の方のお話の概要です。

◆◆◆

◎大野隆 さん
○昭和19年3月 甲種合格で近衛歩兵第2連隊第1大隊第1中隊第1小隊入隊。
班長の世話をやらされたために私的制裁をされなかった。
・同年5月門司から1万トン級の輸送船(にっぽう丸)にて南方(行き先はしらされず)へ。
第1小隊だけが送られた。潜水艦対策で蛇行しながら船は進む。
・途中ビンタン島付近で大野さんが対潜監視員として、午前零時に前任者と交代した途端に敵潜水艦の魚雷が二本命中。船は横転し轟沈。
大野さんは対潜監視員として救命胴衣(十二時間はしずまないといわれた)を貸し出されていたために助かる。サメよけに赤い長いフンドシをつけていたが、足に絡み付いて邪魔なので破る。船の中ではシラミに悩まされたが漂流して全部とれた。
八時間漂流した後、駆逐艦に助けられ、シンガポールセレター軍港へ。
ブキテマ高地の兵営で1ヶ月すごす。この間、藤山一郎が慰問団としてきたのを大東亜劇場で見た。
・その後パレンバンの貨物廠で警備任務に。主にマラッカ海峡の海賊相手に警戒に当たる。
パレンバンは食事にも困らず楽しかった。また三八式ではなくオランダ銃(鹵獲品)が支給された。
アメーバ赤痢にかかかったが、貨物廠から炭をもらってきて回復した。アメーバ赤痢を克服したためか、それ以降はマラリアやデング熱には一切かからなかった。ダチョウの卵を茹でたりしてよく食べた。
・パレンバンの後はマレーのポートディクソン教育隊へ下士官教育を受けるため志願。
ポートディクソンには予備士官学校もあった。教育隊では水上訓練と称して敵前上陸の訓練や、刺突訓練といって爆雷を戦車に刺す訓練や急増爆雷をキャタピラが踏むように仕掛ける訓練を、日本の戦車をつかって行った。
結構朝鮮兵が教育隊にいた。別にいじめとかはなかったけど、びっくりした。板垣中将が視察に来たこともあった。
食料に困ることはなく、パパイヤやバナナなどは現地の商人(華僑もいたけど、仲良かった)がタバコと交換してくれた。タバコがお金みたいなものだった。南方のドリアンは最高。
○終戦後、シンガポールのチャンギー刑務所で武装解除。マレー半島のレンガモやクルアンなど五、六ヶ所を歩かされた後にレンパン島へ。
レンパン島は椰子もパパイヤも何もない島で、タピオカを作るなどしてしのいだ。食料には困ったが、1ヶ月後くらいに英軍が食料をくれるようになった。レンパンには英軍はおらず、船で来るので大発でとりにいった。
Kレーションなどが配給され、配給係になったので、わざと落として中身を拾ったり、夜中に集積場所を漁れた。チョコレートとタバコは必需品。ここでも食事に困ることは無かった。
○昭和21年10月、七千トン級の船(リバティ船?)で下関へと向かい復員。途中で恨まれていた人が海に投げ込まれることが何度かあった。

◆◆◆

西東北チームが出発してすぐ、河北新報をご覧になって、お電話くださった方です。
陸軍ですが、戦地に向かう途中船が沈んで漂流された体験をお持ちということですね。かなり具体的なお話が聞けたようです。

別働隊は、すでに帰途についています。再び青春18切符ローカル線の旅です。
携帯電話からこの報告を送ってくれたのですが、そのころにはもう列車の中だったのでしょうか。
仙台から離れた宮城県沿海部での聞き取りのため、急きょ送られた別働隊。お疲れさまでした。
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