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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
山梨(甲府)キャラバンが、4月29日(月・祝)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

永関さんは、天理教の大きな「教会」(天理教はお寺と言わないんですね)を運営されています。今は息子さんが継がれています。
娘さん、お孫さん、ひ孫さんも普通に同居していて、非常に幸せそうな方でした。
お孫さんが、取材風景をお爺ちゃんの指示でカメラを取っていたのが印象的でした。


◎永関 慶博さん
大正12年10月29日生
東部9部隊 通称 習志野戦車隊⇒特別操縦見習い士官応募⇒振武128隊


昭和18年4月 
国学院大学入学


昭和18年12月 
学徒出陣。「ペンを銃に銃に変えて国難にあたる」。東部9部隊習志野戦車隊に配属。戦車兵として、一通り動かせるところまで訓練は受ける。


●昭和19年2月
特別操縦見習い士官に応募、合格。第二期生となる。
操縦へ。
グライダー訓練などを経験。
栃木県全丸原飛行場で「赤とんぼ」(九三式中間練習機)に搭乗、訓練。
教官が後部に搭乗して基礎訓練。やがて、単独飛行。早い人は20日
ほどで単独飛行できるようになる。
高等訓練も実施。「宙返り」等も習得。一番難しいのは「上昇反転」


●昭和19年6月末 台湾へ
一式戦闘機(隼)を授与する前に、九七式戦闘機に搭乗した。足が引っ込まない飛行機。単座式で訓練に励む。


●昭和19年8月
一式戦闘機(隼)で訓練開始。台湾は上がればすぐに海だった。ここでも高等訓練を実施。9月末くらいから射撃訓練。吹流しを引っ張っている飛行機がいて、吹流しに向かって着色されている弾を当てる。


●昭和19年10月中旬
台湾航空戦。朝から敵の航空母艦からグラマン等がきて、飛行場に機銃掃射。
2日間きた。ひたすら逃げるしかなかった。直径10メートルくらいの穴がいくつも空いて、飛行訓練もできなくなった。2ヶ月間訓練できなかった。
部隊は南方へ行く者、内地へ行く者と分かれた。


●昭和20年1月
一番最後の異動で、水戸の航空師団の飛行場になった。飛行機の修理も整備もできる大きな部隊だった。訓練もガソリン不足と搭乗する機の不足から遅々として進まず。


●昭和20年4月
正式に特攻隊命令を受ける。千葉県松戸市印旛沼基地へ異動。
戦闘部隊の基地だったので、特攻隊は居候扱いだった。訓練もままならず、ひたすら待機を強いられる日々だった。
何かしたくても、居候だし、ただ待つしかなくて、苦しかった。


●昭和20年7月
自分を含む一個隊(6機)のみが本土決戦隊に編成。正式に一式戦闘機(隼)を受け取り、初めて、愛機を手に入れた。B-29で本土は空襲を受け、それに対抗するために基地には二式単座戦闘機(鍾馗(しょうき))が配備されていた。戦闘部隊はある意味華々しく戦っていたが、特攻隊はただ命令があるそのときまで、逃げるだけ。


●昭和20年8月10日前後
昼飯時に、同僚の石山さんに呼ばれて飛行場を歩いていたら、グラマンが機銃掃射にきた。グラマンはかならず2機で行動する。これに石山さんがやられた。


●昭和20年8月15日
玉音放送。飛行場のピスト(滑走路)で集会。敗戦を知る。今まで、死んでいった戦友を思うと、やりきれなかった。何のために特攻の訓練をしたのかと自問した。どうやって自決をしようかと考えていた。その間に、勝手にいなくなる人も結構いた。
自決を思いとどめたのは、自分が生まれるときに、体が弱くて、死んでしまうかもしれないときに両親が願掛けで冷水を浴びたりした話が頭に突然よぎった。これだけ生まれるのに苦労して、両親の心配をかけたのを思って、自決を思いとどめた。
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