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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ほぼ福岡キャラバン3日目、4月30日(火)午後に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◆◆◆

昨日は福岡市内でお二人のお話を伺いました。
午前中の太田さんが何駅か離れた午後の会場前まで送って下さって午後もスタート。

キャラバンもこの時期になると良くも悪くも一点狙いと言うか、この話は記録をしておかなければという撮り残しを集めている趣になってきているのですが、今回のキャラバンは最初この方に会いたくて企画したと言って良い東野先生の取材報告です

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東野利夫(とおのとしお)さん

生年月日 1926(大正15)年2月18日

1945(昭和20)年4月 九州大学医学部専門部入学
〇戦争の末期で、将来医者になりたいとかそういう状況ではなかった。
旧制中学で軍事教練はあったが嫌いで、行き当たりばったりで進学した。
〇合格通知が来ただけで授業は行われず、多くの学生は軍事工場に動員されていたが、私は解剖学教室第2講座に配属された。
平光(ひらこう)教授の研究補助員という事だったが教室の研究員は出征していなかったので雑用係。

同年5月17日午後
〇私は解剖学教室の一番奥にトイレがありその行きに何の気なしに覗いて目撃することになった。
〇軍用トラックが来て解剖実習室の裏庭に目隠しをしたB29の搭乗員の捕虜が2名降ろされた。
 実習室は空き家みたいになっていて、外科の医局員が6~7人来ていた。
 捕虜は解剖実習の更衣室に連れて行かれ麻酔を皮下注射された。
〇西部軍の高級参謀2名が入って来た。
 第1外科の石山教授と西部軍の見習士官の小森軍医(一外出身)が来た。
〇捕虜を上着も下着も剥ぎ取るようにして手術台に載せた。
 捕虜は基礎麻酔でよろよろしていた、エーテルの吸入麻酔を無理やりにかけ、はじめ麻酔が効いてくるまでは捕虜はとても怖がっていた。
〇石山教授は小森軍医と主になって執刀した。
 1人目は日本の戦闘機にエンジンを撃たれ落下傘で降下するとき地元民に竹槍でつかれていた。
 少し傷があったが大した傷ではなかったが、それを治療すると連れて来られてきていた。
 肺の手術で片肺を切除し「人間は片肺だけでも生きていかれるぞ」と教授が言っていた。
 当時は肺結核の空洞化による死亡率が高く、その手術実験と思えた。
〇高級参謀は「名古屋を爆撃したB29の連中である」銃殺刑が相当するという口ぶりだった。

〇肺を摘出した後、小森軍医が血液を取って捕虜は死んだ。
 血液は西部軍の兵営に南京虫がいるので殺虫剤に混ぜて使うと言っていた。
〇2人目も同様に手術が行われ血が抜かれて亡くなった。
〇海の水を生理的食塩水の濃度に調合して代用血液にならないかという実験もしていた。
 本土決戦になると血液不足になるからそのための実験だった。
〇2時過ぎに始まり4時過ぎには終わった。

〇医局員の態度は荒々しく皆が敵愾心に燃えていた。服も足で蹴って脱がした。
 見ている私も戦争中は罪悪感は起こらなかった。
 連日連夜B29の空襲で都市がやられていた時期なのでB29の捕虜には特別に敵愾心が強かった。
 あの時台を登りながら捕虜が震えていた事が忘れられない。
〇実験手術と言いながら最初から雰囲気が生かそうと言う感じではなかった。
 殺す事自体は石山教授と参謀の合意事項で医局員は追随したのだと思う。
 参謀は監視のために来たのではないかと感じている。
〇捕虜の靴や衣類や持ち物は、皆で分けて持ち帰った。
 百姓さんに渡すとお米5升に変えられるよとかそういう話をしていた。
 自分も革の手袋を貰ったが終戦後すぐに捨てた。

〇解剖室には遺体が残された。
 第3講座の助教授がこの時とばかりに標本を採った。
 目の玉を採るので私にぐらぐらする頭を持っとけと。
〇一番怖かったのは背が高くて棺桶に入らないのを首を切った。
 後で考えて本当に恐ろしかったけれどその時は緊張しているばかりだった。
〇遺体は数日放置されていたが解剖学の小間使いの人が医学部の焼却炉で焼いた。
 第3講座の助教授が指示を出したのか、小間使いの人が気をきかせたのかは分からない。

数日後
〇また2名の捕虜が目隠しで連れて来られた。
 意味はよく分からなかったが胃と肝臓の手術が行われた。
 自分が見たのはこの2回。
〇全体では4回、8名の捕虜を殺した。
 後で聞いた話や裁判記録ではてんかんなどの治療を脳の手術が行われている。
 4回目頃になると教室員も消極的になってきていた。

〇この経験をしている自分が医者になる事は矛盾をしている。
 医者にはなりたくなかった。何度かやめようと思った。
 目を採る、標本を採る、さっきまで生きていた人をと思うと医者と言うものは冷たいなと思って医者嫌いになった。
 さっきまで生きていた人を物体の様に扱う、その割り切り方が自分には出来なかった。
 産婦人科はインターンの時に先生が面白かったから選んだ。
 多い月だと100人ぐらいが生まれる。
〇戦後事件の経緯を何年もかけて調べた。
 あの捕虜はどこから来たのかと言うのがあって阿蘇山を聞き歩いた。
 ショックが大きくて今でも情景は頭から離れない、それはあとになればなるほど。
〇首謀者は石山教授と西部軍参謀
 大学の教授にも本土決戦にでもなるなら実験手術をしようというものがあった。
 本土決戦を想定して千万人は死ぬだろうと代用血液は真面目に考えられていた。
〇もとは大本営から出ている。
 東京は捕虜が一杯になって居たので情報価値のある機長だけを東京に送り、あとは適当にして良いと無電で出ている。
 それで西部軍参謀が止むを得ず話を持ち込んだ。
 当時内科の屋上には高射砲があり軍関係者は適当に構内に出入りしていた。
〇戦争をしていると医者がどうとか倫理がどうとか考えることがない。
 勝つか負けるか死にもの狂い。
 敗戦の時は本当に本土決戦をやると思っていたのでまさかと思ったがほっとした。
 
〇終戦になってから軍と大学はこの事件を隠し、捕虜たちを広島に送って原爆で殺した事にしようとしたが全部ばれた。
 石山教授はGHQに拘置された夜自殺した。
 「一切軍の命令なり、責任は余にあり、外科の医員を釈放してくれ、平光君すまぬ」と走り書きがあった。
 西部軍の見習士官の軍医は福岡空襲で焼夷弾が当たり運ばれた第1外科で死亡した。
〇平光教授は場所を貸したと言っても勝手に使われたようなもの、一度通りかかっただけ。
 一高東大での学者肌の人でこのことにはタッチしないようにしていた。
 獄中記を書いていたが石山教授が自殺したことで「罪が皆に配分された」と記述している。
 当時他の解剖学講座の教授は欠員や病気で、責任を負う事になった。
 のちに力になれなかった事を詫びたことがあるが、いいよいいよ、大切に思っていた若い研究者たちも戦死したしと言っていた。
〇私は1947年福岡法務部で2日間尋問を受け机を叩かれたりした。
 その後福岡、東京の法廷に検察側の証人で立った。
 日当(交通費?)も出たが行くまで自分が被告なのか証人なのかも知らされてなかった。

〇長く石山教授や小森軍医のせいだと思ってきたが、この5~6年個人の罪ではなく戦争が犯した大きな罪だなと思っている。その時罪悪感を覚えなかった自分も。
 憲法9条の事をずっと考えてそういう風に気持ちが変わった。9条を守らなければいけない。

〇九大の当局者はそれを隠してタブー化する事が今日まで続いている。
 判決が出た時当時の学部長が「医学部としては関与していないが・・・」とコメントし、百年史にもそれが掲載された。
〇医学部で歴史館を作る話がありその時にこの内容を入れる事、慰霊碑を作ることを医学部長に申し入れている。 B29が落ちた阿蘇山には村民が捕虜を猟銃で撃ったり竹槍で突いたりしたところに慰霊碑が作られている。
 お百姓さんですらそういう気持ちがあるのに大学と言うところは誰一人責任を取らない。
〇捕虜は目隠しをされて医学部の正門をくぐる時に、ここはuniversityと聞いて安心してまたうつぶせに寝たと聞く。大学のそれも医学部で捕虜を騙して殺したのは大きな罪だと思う。
〇本を出すときは周りのすべての人が反対をした。
 嫌がらせの電話もあったがセンセーショナルな週刊誌記事が出ていたので本当の事を書いた方が良いと思っていた。
〇6年前生命倫理学会で九大の講堂でこの話をした。
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