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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ほぼ福岡キャラバン2日目、4月29日(月・祝)の様子と証言概要です。
レポートが上がったばかりのメーリングリストより転載します。

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今日は福岡市西区、地元の公民館で収録。
公民館の書類の手続きなども未だだったのでお約束の50分ぐらい前に着いたのですが、事務室にはすでに満州の写真を開いた先客が館長さんらしき方と話しこんでいました。

そんなわけで公民館の方には聞き取りの間に何度もお茶を出して頂いたり、コーヒーまで入れて頂いて恐縮することしきり。

葛根廟事件を最初に聞いたのは、1日違いでその場所を通ったという、普段お世話になっている加藤正寿さん達の部隊の方たちからだったと思います。
普段の戦場の話以上に今日はジェノサイドの話なので少し重い気持ちで向かったのですが、それを経験して仕舞ったがために、経験したから分かる訳でもない事件の全貌を明らかにするために人生の多くの時間を費やされた大櫛さんのお話は却って独特の価値観があり印象深いものでした。

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大櫛戊辰(おおくしつちや)さん

生年月日 1928(昭和3)年3月15日

1942(昭和17)年春 17歳で満州電信電話株式会社に就職して渡満
〇母が幼い時に亡くなり生育が悪かった。
 軍国少年で航空兵に憧れ、貧弱な身体で家にいるのが嫌だった。
〇満州電電の仕事は職安で紹介された。
 満州に行くことは当時そんなに大それた事ではなく家族は特に反対しなかった。
〇興安(こうあん、=大爺廟(おおやびょう))で通信士として働く。
 職場は泥屋根で民家を改造した簡易なもの。
 通信の内容は半分以上は軍・官庁関係のやりとりで、部隊同士の連絡は軍の通信兵がやっているが、武器や軍の移動など広範囲の連絡は満州電電でやっていた。
 乱数字があり内容自体は分からなかった。
〇給与は国境近くの街であるため危険手当などがついて結構良かった。
 天草などから渡満した人が同僚で日本へ送金していた。
 満州の人も主に配達夫などで雇われ、通信士も2名いたが、給料は日本人とかなり格差があった。

1945(昭和20)年
〇春ごろまでは王道楽土、食べ物も不自由はしなかった。
〇7月根こそぎ動員があり、興安街にいた約4000人の日本人のうち約1000人の男性が召集された。
〇興安は西は興蒙工作用の興安総省が置かれその官庁街になっていた。
 一方東は土地で暮らしてきた商売人たちが中心の街で東西の気風がまるで違っていた。

〇部署柄、興安の参事官はソ連の動きをキャッチしているようで情報を新京に提供していたが、新京は国境とは意識が違って反応は鈍いようだった。
 戦況が悪くなるにしたがって内容は分からなかったが送信電報はどんどん多くなり、反対に受信電報は少なくなっていった。

同年8月9日 ソ連参戦
〇夜中の3時ごろ宿直をしていると国境のハロンアルシャンの支局からソ連参戦を伝える緊急電話があり、どうなるか分からないと言ったまま切れた。
 朝6時に今度は新京から全国的な広報の形でソ連参戦が告げられた。
〇いよいよ来るものが来たかと戦意が高揚した、怖いとかそういう気持ちはなかった。

同年8月10、11日 興安の爆撃
〇職場は焼失、街は殆ど燃えてしまった。
〇参戦前はソ連が参戦した場合は北東100キロのジャライトに行く計画が立てられていたが、その最終打ち合わせのため興安総省の参事官達中心メンバーが興安を離れている時に開戦して仕舞った。
 この計画は軍と一体に動くことを前提としていたが、車も馬車もなく、家族連れの多い東側の人間は徒歩でジャライトまで歩くことは無理だった。
 そのため東側は浅野参事官ら県の役員が引率して、危険は大きくても葛根廟を通り、白子城から列車で南下する計画が立てられた。

同年11日 1キロ東の寒村・ウランハタに集結。
〇街中はもう原住民の動きが危ないと言う事でウラハタに集結しそこから出発となっていた。
〇しかしウラハタも東京開拓団のために土地を追われた人たちが移住させられた土地で、決して対日感情は良くなかった。
〇情報が全然入らないまま13日まで漫然とここに留まって仕舞った。

同年13日夜 避難開始
〇土砂降りで馬車は泥にはまり捨てなければならなく小さな子供も歩かせた。
〇この時すでにソ連軍は興安に入っていた事は知らなかった。

同年13日深夜 30キロほど南のバインテブスクへ
〇この村は親日派で馬車や食料の補給をしようと思っていた。
 顔見知りもいたが行くと様子が一変していた。
 家々は門を開けてくれず土塀にもたれて泥まみれで路上で寝た。
〇状況が変わったからかぐらいに思って深く考える余裕も無かったが、戦後知ったのは、先発隊の5~6名が村民を殺害していた事だった。
 満軍が解散して帰ってきた男性が拳銃を持って歩いていたのを日本兵を殺して奪ったのだろうと嫌疑をかけ、川沿いまで連れて行って村民の見ている前で日本刀で切り殺していた。
 (殺された村民の甥が日本への留学経験もあり詳細を手紙に書いて大櫛さんに送ってくれた)
 浅野参事が深謝し、女性子供がいたので関係者を引き渡さず村を出ることを許してくれたらしい。

同年14日11時半 ソ連軍戦車による攻撃
〇その前にソ連軍の偵察機が頭上をゆっくり飛び回っていた。
〇バインテブスクでそんな事があったので報復を恐れたのとソ連軍に追いつかれる事を恐れたのだろう。
 隊列は7中隊に分かれていたが、最後尾に小銃を持った男性たちと県職員が集められていた。
 一方大櫛さんたち電電職員数名の男性は、一番先頭を歩いていた。
〇11時半、ソ連軍の戦車部隊が隊列の後ろから襲いかかり、一番後ろのグループは一瞬にして殲滅された。
 全滅してしまったので何かきっかけがあったのかは分からない。
 一人だけ生存者がいるが彼は決して話をしようとはしなかった。
〇前を歩いていた者は後ろが騒がしいので振り返ったら、戦車が撃ちながら迫ってきていた。
〇そのあとの事はなぜ自分が生き残ったか分からない。
 とにかく本能的に動くだけ、走り回った事と恐怖だけを覚えている。
 戦車は山の上から一定間隔で並んで追いかけてきて戦車砲、機銃を撃ちまくった。
〇伏せていて泥水をかぶったと思って横を見たら母親と子供が戦車に轢き殺されていた。
 瞬間身体を反転して遠ざかった。
 畑に飛び込み機銃が波のように追いかけてきた。
 痛い、やられたっと思ったが、後でみたらくるぶしを銃をかすっただけで済んでいた。

〇戦車が1時間ぐらい追いかけまわしたあと各戦車の上に3人ずつぐらい乗っている歩兵が降りてきて、しらみつぶしに生き残っている者を探しては機関銃で撃ち殺していった。
 子供で目こぼしされた者もいれば子供でも殺された者もいた。
 それが戦車の後さらに1時間ぐらい。
〇浅野隊全体で幾人いたかも明らかではないが千人以上がいて生存者は140~150名ぐらい。
〇体験を本にした時1キロほど離れたところからそれを見ていたと言う斥候隊の兵隊が連絡をくれた。
 ソ連戦車が20台ほど並んでいて動けなくなり隠れていたら目の前で事件が起きたらしい。
 彼によれば戦車は浅野隊を待っていた、戦車同士が相うちしないように指揮をとっている戦車もあり、偶発的な出来事ではないように見えたと言う。

〇攻撃が収まった後はその場で泥酔したように眠った。
 夕方気温が下がってきて目をさますとうつぶせになって寝ていた。
 あたりは賽の河原のよう。
〇お互い呼び合う訳ではなくても自然と生きている者のグループが出来ていった。
 私がいたのは一番大きな40~50名ほどのグループで男性は10名ぐらい、あとは女性だった。

〇そういう時は悲しみとかは無い、ほおけたようになっている。
 生存者からも自決者がどんどん出始めた。
 母親の遺体の上で泣いていた子供や赤ん坊の声も次第に聞こえなくなっていった。
 草原で水が無く遺体の水筒を見て廻ったが何故か誰の水筒も空だった。
〇それでも脱出しようとなったのは復讐心、日本が負けたとは思ってもいなくて、この様子を日本軍に伝えて敵を取ってもらおうと思っていた。
 一人がそういうと俺もそうだ、私もそうだとなった。
〇出て行ったのはグループの中で30人ぐらい。
 負傷していたり、子供やご主人を亡くした人は自決する者が多かった。
 自決は連鎖反応ですよ、そういう時は残されていく不安の方が大きい。
 自決は青酸カリや(保存が悪かったが)、洋カミソリで頸動脈を切ったり、銃で撃って下さいとか刀で切って貰ったり。
〇その後更に現地の農民に襲われたグループもあった。
 最初は死体から衣服をはぎ取っていたのが段々エスカレートし生きている人の物を奪った。
 殆どの遺体が裸で転がっていた。
 自分たちのグループはトウモロコシ畑の中にいて誰も来なかった。
〇遺された子供たちは残留孤児となった。
 慈愛に満ちた養父母もいたし、売られたり家畜のように扱われた子もいた。
 文革を契機に帰国した者は多い。

新京を目指すつもりで北上して行った。
〇助け合って行くことはしない、着いて来れる者は着いてこいという感じ。
〇周りはすべて敵、夜歩く。
 北斗七星を背中に見ながら歩いているつもりだったが実際には北上していた。
〇脱水が激しいと幻覚症状が現れ谷川の清水が流れて太陽がキラキラしているのが見える。
 誰かが水だと言って皆飛び込むと岩に顔をぶつけた。
 自分も2回幻覚を見た。
〇村によると危ないので食料は現地民の畑からトウモロコシやジャガイモを盗った。
〇銃が4~5丁あったので一度半ば強奪するように農家に入ったが、「日本は負けているのにどこに行きよるか、早く投降した方が良い」と言われたが信じなかった。
 新京に向かうと言うと年寄りが笑って北に行ってるよと言った。
〇また一度川を渡るために川沿いの一軒家の老人を銃で脅し船で往復して貰ったが、彼を見ていると、文明ははかないもので自分たちは生きていくのも精いっぱいなのに、この老人は戦火を幾つもくぐり悠々と生きている民族の強さを思わずにはいられなかった。

〇武器を持った現地民が馬に乗って襲ってくる事があったが、5~6人で銃を順番に撃ち続け難を逃れた。

同年9月末 ソ連軍に捕まる
〇早朝霧の中でソ連軍に囲まれ、収容所に連れて行かれた。
 収容所には日本兵もいて本当に敗戦していたんだと初めて分かった。
 人によって違うだろうが、もう歩かなくて良いのだと思うとほっとした。
 他の人もそうじゃないだろうか。
〇百人程度の小さな収容所
 食糧は与えられずソ連の馬糧の大麦をかすめて食べていた。
 また30~40人、ハルピンの刑務所に入っていたらしい先住者がいたが、政治犯とかではないけど人情味のある人たちで、どうやっているのか分からないが収容所の外に出入りし皆の食料を調達してくれた。
 夜中にうどんを打ってくれたりもした。
〇線路工夫の使役に出された。
 収容所で亡くなった人は枕木を燃やして火葬した。
〇カリが越冬に飛んでいくのが見えて、八代辺りに行くのだろう、鳥には国境がなくて好きな所に行けて良いなと思った。
〇当初武器を持っていたので兵とみなされたが1か月ぐらいで解放された。

同年12月 新京に
〇ここで銘々のつてを頼って別れた。
 満州電電の庁舎に入りありとあらゆる仕事をした。
 中国人の店の客引きとか葬式の作業とか、お供え物を持ち帰れるのが魅力だった。

1946(昭和21)年8月13日 コロ島を経て長崎に帰国
〇船で日本が見えた時日本の美しさ、緑の美しさに皆が甲板に出て喜んでいたが、隣にみっちゃんという女の子とお兄さんの子供だけの乗客がいて、お兄さんが「みっちゃん、あれが日本だよ」と教えてやっているのに、日本を知らないみっちゃんは「イヤダ、日本に行きたくない」と言っていた。
 港から帰国手続きをする宿舎まで3キロぐらいを背負って歩いてやったが、手続きを終えて離れるとき職員からみっちゃんは死んだこと、お兄さんは1人で施設に行くことになったと聞いて戦争は続いているんだと思った。

昭和50年ごろから生存者を訪ね歩き、亡くなった方の名簿を作った。
空欄も多い簡単なもので判明したのは720名分(この名簿は保存の会にも寄贈頂きました)

戦争が悪かったという言い方をよくするが、あたかも戦争と言う擬人化されたものがあり、全てそのせいという言い方に疑問がある。
個人の欲が社会の欲、国の欲を支えるのではないか。
災害や事故なら民間人の死は皆騒ぎ心を寄せるが、戦争による民間人の死を戦争だから仕方ないと軽く思い過ぎていると思う。
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