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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
ときどきメーリングリストに証言概要も上がってきているのですが、久しぶりの掲載となります。
大学生1人旅2012秋、11月3日(土)に、山梨県南アルプス市で伺った証言の概要です。
これは、旅の直後に上がっていました。
メーリングリストより転載します。

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◎今津茂さん(91)
取材日:平成二十四年十一月三日
所属:東部62部隊~独立混成第九旅団独立歩兵第三十八大隊(谷4204)第一中隊~北支那特別警備隊第七大隊
衛生兵
戦地:北支
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○大正十年一月四日、山梨県生まれ。

・農家に生まれる。
・小学校の高等科を卒業して、あとは農業にたずさわる。
・徴兵検査に甲種合格。

○昭和十七年二月、現役兵として東京赤坂の東部62部隊へ入営。

・入ってすぐ中国へ出発。原隊が第二次長沙作戦に参加していて、そこに入隊するべく追って行った。

○昭和十七年二月二十日、東京出発。

・長沙についたときは敗けて引き上げる最中で、そこに合流。長沙には半月くらいしかいなかった。
・そこから揚子江を下り、南京から鉄道に乗って、原隊の駐屯地である北京についた。

○昭和十七年四月初め、北京の駐屯地へ。

・部隊は独立混成第九旅団独立歩兵第三十八大隊(谷4204)第一中隊。
・いわゆる鉄砲のドンパチの兵隊の訓練でなく、部隊の中から衛生兵に選ばれた。
・鉄砲をもってバンバンやるのが兵隊だと思っていたのに、衛生兵なんてどうも兵隊らしくないから嫌だと思った。まだ入りたててで、反抗するわけではないけれど、「私は衛生兵教育にいきたくありません」と教官に言ったところ、「じゃあとにかく中隊長のところに顔をだすように」。
・中隊長の官舎へ行ったところ、事務室で中隊長が「そこにかけろ」といい、ストレートに衛生兵の教育に行けとはいわなかった。話をしていると、突然中隊長が「お前は山梨県の出身だそうだな」というので、「はい、そうです」「俺も山梨県だ」。
・中隊長の出身地が近所だったので、話がなごやかにすすんできて、「衛生兵教育に指名されたが、お前は行きたくないそうじゃないか」「はい、本当は行きたくありません」「軍隊ってのはそういうわけにはいかないんだ。とにかく命令を受けたら命令を受けろ」。このときもはっきり返事をしなかったが、中隊長が「悪いようにはしないから、俺の言うことを聞いて教育へ行け」というので、これ以上抵抗するわけにもいかないし、しょうがないかなと思って、「はい、教育へ行きます」。それで衛生兵になった。

・石家荘の陸軍病院で衛生兵教育を受ける。
・だいたい一年間教育するはずだったが、戦雲が急になってきたので、突貫教育みたいなものだった。
・基礎教育から叩き込まれる。十教科あり、一番最初に人体外部の名称を覚えさせられる。普段は足や頭だが、術語では下肢だ大腿部などになる。それから今度は内臓の名称。胃とか腎臓とか肺臓とか。それから今度は機能。胃はどういうふうに機能をもつか。肺はどうか。そういう教育を受ける。
・人体の模型を使って、これが肺とか、内臓を覚える。
・百姓のせがれがそういう中に入ったので、本当は戸惑った。

○昭和十七年末、、講堂に集合するように呼ばれる。

・教育が最終段階にはいり、教科書を見ても大体これで終わったなと見当がつくようになってきた頃。
・「あと一週間かなにかすれば元の部隊へ帰れる」という気分で、ウキウキしたり安堵したような感じだった
・講堂には、真ん中に板張りの手術台があり、その周りにひな壇式に椅子が並んでいる、そこに兵隊が座る。教育を受けた時は、手術台で包帯を巻いたりするのを勉強していた。
・最後の仕上げだと聞かされていたので、「なんのあれがあるんだろう」と思っていた。講堂に集まって待っていると、どうも今までの実技をうけるときの雰囲気と違う。兵隊がみんな変な気持ち。
・すると入口から伍長くらいの下士官が入って来た。
・「講義が始まるな」と思っていると、一階級上くらいの下士官が、目隠しされた若い中国人の青年(捕虜)を連れてやってきた。
・「とんでもないことがはじまるな」、本当に異様な雰囲気が一瞬でバーッとひろまった。周りの者と顔を見合わせて、「何が始まるんだろう」。恐ろしくなった顔というか、恐怖心になった顔になったのを覚えている。
・二十歳代の中国人で、下士官がペラペラではないが中国語を話せて、手術台の脇に立って、下士官が火を付けた煙草を自分でちょっとふかして、「最後のタバコだから飲め」と中国語で言ったらしいが、私達は知る由もない。
・たばこをくわえさせようとしたら、その青年は下士官の方へプッとふきだした。この時の気持ちは表せないが、もう観念したらしく手術台に自分から寝転がった。
・網目状のマスクで、クロロホルムというのかガス体の麻酔薬があって、それをかけると脳へ麻酔がきいてくる。くくりつけられるので動けない。体を動かすが、弓なりになって硬直する。麻酔が効いてくると動けなくなっていく。メスでついても動かなくなり、これで効いたなというところで解剖が始まった。
・解剖が始まるときは、見てる方があんまりあれで、なんというか気も動転したというか、正気の沙汰では見ていられなかった。ああいう光景を思い出したくない。
・下士官が連れてきて準備して、軍医が執刀する。
・足の先から解剖が始まる。捕虜に着せていたものをはさみで切って、素っ裸な体を現してはじまる。
・足の先からメスをいれて、その時連れて来た下士官が、「これから解剖が始まる。指名されて、質問された者は大きな声で答えよ」。周りを見ても青くなっちゃってまともな顔をしていない。自分自身の気持ちで、質問されないよう念じていたのはよく覚えている。まともに答えられる自信はなかった。その時は「来ないでくれ」というのが正直な気持ち。
・足の先から切っていくと、生きているので血がずんずんずんずん出て来る。血管も切らなければならない。鉗子というはさみがあって、パチッと固くとめて、腋を開きながらやっていく。もうはっきりいって、まともにはみていられなかった。
・開きながらだんだんだんだん内臓の方に行く。「これは小腸だ」「これは大腸」とか、脾臓腎臓膵臓と、ひっぱりだすようにして見せて、「これは何かわかるか」と聞く。
・その時は病院と各部隊から教育兵が全部集められて百何十人か兵隊がいたと思う。皆名札をつけていたが、名前で指名できるわけではないので、番号で一番から何番まであって、「五十番!これは何だか答えて見ろ」と呼ぶ。「はい!」と返事をするが、わかっているのかわかっていないのか、頭があれしてわからない。
・「貴様ら意気地がねえぞ!はっきり返答しろ!」と言われて怒られたことを覚えている。
・まず地獄絵。その時は冷静に考える余裕はなかったが、今考えて見れば。
・最終的にお腹をひらいてずっといって、小腸大腸と開いていって、膀胱を切り裂いて説明していく。
・鮮明に覚えているのは、胸を切って、その中で肺が息をするためにふくらんでいて、そうして今度は「これが器官だ。これが右肺、左肺」。片方は息をするために動いていて、切り取られた方は血液やなにかで息をするたびに泡と血で。それが鮮烈に目に焼き付いている。この世のありさまじゃないようなひどかった。
・結局、気管支を切って肺を見せて、最終的に執刀軍医が心臓を手のひらの上にのせる。それがピクッピクッと脈をうつあれがでている。心臓を説明するには切ってしまわなければいけない。大動脈を説明して、切って、そして息が止まる。結局死んでしまう。
・死んでから取り出した心臓を割って、「これは右心室」「これが左心室」と説明して、そうなれば学術的に勉強して聞こうという気はなくなって、「早くなんとか終わってくれ、見たくない」ってことで頭が一杯。後で聞くとみんなそう思っていた。
・解剖実験が終わると、取り出したものを全部中へ納めて、真似だけみたいなものだけど、縫い合わせて、一応礼をつくすというかきちっと直して、包帯を巻いて、荼毘に持って行く。
・「お前たちの教育のお役にたったのだから、せめての償いで、お前たちが包帯してやれ」。「だれだれは大腿部」と指名されていくが、だれもでていかなかった。すると「そうだろうと思ったからいいや」と、助手の下士官がだいたいぜんぶ包帯で簡単に覆って、荼毘へ持って行った。
・本当にこの世の地獄。正直思い出したくないし、後味が悪くていや。
・この解剖が終わって衛生兵の教育が終わった。

・北京のところの原隊へもどって、衛生兵として勤務。
・大隊本部に勤務もしたし、中隊勤務もした。
・大隊本部勤務だと、病院みたいな医務室ところで勤務。ここにいると作戦に行かないですむ。中隊勤務になると作戦があるごとにいかなければならない。
・万里の長城の方へいったり、作戦のためにほとんど移動。それがしょっちゅうあった。
・八路軍はゲリラ作戦で、兵営にとどまらず根無し草みたいに移動をずっとして、自由闊達に日本軍を襲う。
・日本軍は中国の部落へ作戦で押し入ると、汚い家でもなんでも全部外へおっぽりだして、しらみがたかっちゃ困ると、支那人のふとんでもなんでも放り投げて、野営する。
・ご飯を焚く場合でも、支那人のかまどを使う。机であろうが椅子であろうが家具を叩き壊して薪にする。
・だからすぐ日本軍はわかる。ここへ夕べ日本軍が泊ったなということはどんな素人が見てもわかる。
・八路軍はぜんぜん違う。かまどとかは借りるが、民家へは絶対入らない。糧秣も自分たちで持ってきたもの。薪も部落の外から採ってとってきて、民家の中では絶対に寝ない。馬小屋とか物置で寝かせてもらって、起つ時はきれいにして、元通り以上にして引き上げる。なので夕べ八路軍のいる部落を包囲して、朝日本軍が踏み込んでも姿はなく、部落はきれいになっている。
・衛生兵は鉄砲を持たず、薬品や入ったカバンを持つ。武器は手榴弾だけ。それでも心細いと、拳銃を私物みたいにして持っている場合がある。
・作戦をやると負傷者が出る。その時の合言葉みたいなもので、「衛生兵前ーッ!」という言葉がかかる。そうするとやられたなということで、声のするほうへ飛びつかなければならない。
・一線の場合にはその場で止血したり、骨折している場合には木をとって副木みたいにあてて、包帯をして救出する。
・やっぱり衛生兵ってのは大変。他の兵隊は持っている鉄砲で自分の身を守ることが出来るが、衛生兵はそれがなんにもない。手榴弾だけ。
・普通は一般の兵隊に援護してもらう。「救出するから後を頼むぞ」というと「よしきた」ということで、救い出すときは一生懸命援護してくれる。
・どうにもならない兵隊もある。一年上の先輩の衛生兵が鉄砲の弾で、腹部をやられて、それを収容して、作戦だから民家へとまって寝る。しかし、負傷したからといっても、作戦だからすぐ後方へさげるわけにはいかない。人もすくないし。下手をすればやられて全滅してしまう。
・作戦ごとに苦力を集める。どういう組織になっているのか知らないが、通訳がいて、五十人なら五十人、十名なら十名調達しろと言うと、通訳が苦力のボスみたいなのに連絡をとってひっぱってくる。
・苦力には荷物を運ばせる。日本軍が衣類とか草履とか銀とかを掠奪するので、苦力も一緒になってかっぱらってくる。日当や食料ももらうが、それ以外の余禄みたいなので、火事場泥棒じゃないけれど、一緒にやる。それで苦力が集まったらしい。
・日帰りくらいの作戦もしょっちゅう。
・貫通銃創になると滅菌ガーゼを赤チンやなにかの消毒液をつけて、両側の傷口に押し込んで、包帯を巻く。骨を折った場合は副木を使うが、ない場合はその辺にあるものを利用してあてがって包帯をして三角巾でぶらさげてつれてあるくようなことをやる。
・大きい作戦の時は野戦病院をつれていくので担架もあるが、普通の作戦には担架はない。
・大作戦でない場合、革の鞄で赤十字マークのついたものに、包帯とかガーゼとか薬とか、応急手当の薬、消毒薬、気つけ薬とか、その時の状況くらいはなんとかできるくらいのものを持っている。ちょっと大きい作戦の場合は医柩という箱へ包帯とか薬物を入れたものを運ぶこともある。

○昭和十八年暮、後方じん滅清郷作戦に参加。

・前線ではなく後方の部落を日本軍が全部叩き壊すことが清郷。
・八路軍が出て、それを追っていくといなくなるが、戻るとまた出て来るので、これじゃあ蠅を追っ払うようなものだから、点在している部落を日本軍の目が届くところに全部集めておけば、八路軍が根拠にする民家がなくなるだろうということではじまった。
・その場合、苦力を五十人も百人もつれて、食糧を持って本隊を出発。五日とか十日の覚悟で山の上の方の部落までのぼって行く。そして住民に、食べ物もやるし耕地もやるし、生活も保障するから、ここを畳んで山の下の方に降りて来るように説得する。
・谷あいの部落を登って行って、一番奥地までたどり着いたとき、部落の住民をさげて、火を付けて、更地にしておりてくる。
・このころの民家は日本の民家と違って石積みの民家。屋根は丸太をわたして粟殻とか高粱殻をのっけて住んでいる。だから焼いても石済みの壁だけ残ってしまう。そこに屋根をつければまた住める。それではだめだということで、五十人も百人も連れて来た苦力に丸太なんかを持って行って外壁をどーんどんと突いてきれいにしてしまう。住めないようにして一番奥からはじまって降りてくる作戦。
・それをだいたい北支の万里の長城の山岳地帯はほとんど各部隊がやった。
・じいさんでもばあさんでも、日本軍が住めないとすれば観念するけれども、ある作戦で、集合させる部落に近いところで、できればここにかじりついて自分の部落にいたいと思ったんだろうけれども、家から出ないと言ってそのまま焼き殺されたおばあさんがいた。
・そのおばあさんの「リーペンクイズスラー(日本軍は鬼の子だ、しんでしまえ)」という声を聞いても、その場面では「何言ってやがる」くらいのもの。自分の命がかかったときの叫びというのは全然違うと思う。

○昭和二十年春、

・警備地には、降参して日本軍の言うことをきくようになった帰順兵がいて、日本軍の作戦には使わないが、自治を行っていた。しかし日本軍をかさにきて、徴発をしたり税金だといって金をあつめたり、ひどい時はかっさらいまでやったり、悪いことをしていた。
・そこでその帰順兵を”えんしゅう”に送ることになった。
・”えんしゅう”は孔子生誕の地で、八路軍もはいらない、日本軍も入っていたが表立った作戦はしない、別格であつかっていた場所。聖地だった。
・ここに部隊をうつせば、いくらあいつらでも悪いことはしないだろう、ということだった。
・帰順兵の部隊をつれて”えんしゅう”へ行った。ところが八路軍がそんな奴らを聖地に入れるわけにはいかないと、拒もうとした。日本軍は日本軍で、どうしても聖地へぶちこんで、いわゆる精神的な教育をするんだというようなことでぶつかった。
・それが一番ひどい作戦だった。
・普通は部隊同士が撃ちあいをするのが作戦だと思っていたが、聖地へ集団を移すというのが、ばあさんが鍋釜から家財道具を移すということ。
・帰順兵はニワトリや猫やら家族全員家財道具を引き連れている。
・笑い話みたいに、ロバもある、ニワトリをさげているのもある、鍋釜をさげている集団を押して行く。それを拒もうとしてドンパチがはじまった。
・日本軍は直接ドンパチはやらなかったが、直接援護するというか、究極的には押し返されるのをまた押し込むということだった。
・結局、”えんしゅう”に入れた。

・中国人とずいぶん仲良くなった。
・衛生兵だったので、軍隊だけではなく、中国の住民を順化させるという役目もあった。
・命令で宣撫工作をやる。その時は便衣を着て、安全な部落へ入って医療活動をやる。あぶないから軍医はほとんどいかない。
・一選抜で下士官になって、北京の北支方面軍の直属になって、もっと大変な6301部隊【※731部隊?】みたいなものが計画されて、そこへ行く予定になった。

○昭和二十年四月十五日、北支那特別警備隊第七大隊(甲)第七大隊へ転属。【※八路軍ゲリラの対策に編成された方面軍直轄部隊の模様】

・ここで兵籍がなくなっている。それで恩給なんかが遅かった。
・まだ部隊が編制中で何もすることがなかった。
・訓練も何もしない。北京の総司令部中で、ただ飯をたべているだけ。指揮する人はいるが直接命令する上官もいなかった。

○昭和二十年八月十五日、重大放送があるから下士官以上の者は無線室に集まれということだった。

・ガーガーガーガーいっていて、はっきり覚えているのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」。これが言葉としては良くわかった。それで敗けたんだということがわかった。
・残念ていうか、その時はごく親しい仲間と話をしたが、「帰れるぞ」、「海がなけりゃこのままふっとんで帰るんだけどなあ」。みんなそんなことをいったのを覚えている。

○昭和二十一年四月ごろ、青島から復員船に乗船。

・医柩に顕微鏡や試薬やらいろんなものを入れて持って来た。佐世保について返納すればいいということだった。
・佐世保の港へついて、アメリカ軍があたまからDDTをふっかけて、それからトラックに乗せられ、宿舎みたいなところに向かうことになった。
・その途中でアメリカ兵が医柩について聞いてきた。英語なんかわからないので、身振り手振りで説明すると、「それを下ろせ」という。それでトラックの屋根を叩いて停まると、医柩もかばんも全部取られてしまった。


●終戦時、陸軍衛生伍長。
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