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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大学生1人旅2012秋、10月27日(土)に、静岡県静岡市で伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。

◎近藤軍八郎さん(87)
取材日:平成二十四年十月二十七日
所属:横須賀海兵団~「摩耶」~海軍工機学校~第五十五警備隊加瀬隊【※四十五警備隊】
機関科
戦地:サイパン島
―――――――――――――

○大正十四年一月十日、静岡県生まれ。

・農家も農家で兄弟十二人。
・とにかく自分で身を立てる以外にないと思って選んだのが軍人だった。
・親が一人は軍人にしたいと、東郷平八郎にあやかって軍八郎と名前をつけた。この名前で苦労した。今でも学校でちょっと名前がおかしいといじめるが昔もそう。
・軍隊に入っても名前で絞られた。でも、なにくそなにくそふんばって我慢して来たから現在がある。

○昭和十六年、海軍へ志願。

○昭和十七年、横須賀第一海兵団入団。

・兵籍番号:横志機二五一二七。
・三か月間で卒業。卒業した一個分隊500、600人のうち船へ乗ったのがたったの三人だった。
・海軍の兵隊だとみんな船に乗ると思ったがそうでもない。一人が比叡、一人が砲艦、そして自分が摩耶に乗ることになった。
・このとき「摩耶」はガダルカナルの方にいたので、卒業すると汽車で港まで行って、船でトラック島に行って乗った。

○昭和十七年八月十七日、「摩耶」乗艦。

・第十一分隊。

○昭和十七年十一月十四日、ガダルカナルの砲撃に参加。

・爆撃で船がやられた。二人乗りの飛行機が甲板につっこんで、戦死者がずいぶん出た。
・機関部にいたので外の様子はわからない。

○昭和十八年一月、横須賀へ帰還。

・船を直して、北方勤務についた。

○昭和十八年三月~、アッツ島沖海戦。

○昭和十八年九月一日、海軍上等機関兵拝命。

○昭和十八年九月、掌発電機練習生として海軍工機学校に入学。

・艦ではボイラーだったが、学校では電気をやった。罐よりは電気と思っていた。
・艦からきたので事業服が他の練習生の白ではなくカーキ色で、なおさら目をつけられた

○昭和十九年一月、工機学校卒業。

○昭和十九年二月、アメリカ丸(6000トン)乗船。

○昭和十九年二月二十八日、サイパン島上陸。

・送られたところがサイパン島。ガラパンにいた。
・委任統治領で、日本人がいっぱいいた。全然引き揚げげていない。
・第一番目の引き揚げがはじまり、乗って来たアメリカ丸を使ったが、硫黄島の方でボカチンをくらってしまった。
・配属されたのは第四十五警備隊、加瀬部隊機関科。もともとはパラオへ補充される予定だったが、結局行かずにサイパンに上陸することになった。
・機関科は二十人くらいで発電機と電動機にわかれていた。まだ兵長だったが学校を出たので掌発電機長になった。
・部下には国民兵がいた。召集された親くらいのじいさんで、電気でしびれることも知らないような人達。
・中には自分の名前も書けない人がいた。そんな人たちが大事な電機にきたので弱ったなあと思った。なんとかしなきゃなあと思って、帳面を買ってきて、「お前、字が書けないんだったら絵を描いて覚えろ」といって、丸や三角や四角を書かせたりしていた。
・大きな貝が木にたかっている。デンデン虫。平たくない。びっくりした。後にこのおかげで生きのびることが出来た。
・カエルもどこへいってもいっぱいいる。叩くと白い汁がでるが、お腹を壊してしまうので、つけないようにして食べた。

○昭和十九年六月十一日、爆撃が始まる。

・空がまっ黒くなるくらいの飛行機。
・毎日ずーっと。

○昭和十九年六月十三日、艦砲射撃が始まる。

○昭和十九年六月十五日、米軍上陸。

・まさかこんな早く来るとは思っていなかった。
・それからずーっと戦闘。兵舎を出たっきり、屋根の下で寝ることは出来ない。

○昭和十九年六月十六日、最初の戦闘。ガラパン砲台付近へ夜襲に。

・その帰り、山田と言う召集兵が一番最初に足をやられて負傷した。泣かれて泣かれて偉い苦労した。今でも顔が忘れられない。結局野戦病院まで送って、とうとう帰って来なかった。

・戦闘と言っても日本の武器は三八式歩兵銃。やつらのもっている小銃は自動小銃だから問題にならない。ところがそんな銃でも持っていればいい方。途中でボカチン食らって遭難した兵隊ばっかりで、靴を履いている兵隊が少ないくらい。
・竹やりもない。ただ殺されにいったようなもの。
・とてもじゃないが話になるってものじゃない。
・機関兵なので機関銃をもってけといわれても使い方がわからない。弾の入れ方のと引き金をひいて、あとはとにかく備え付けて、弾倉をありったけ撃ったらそのまま帰って行く。
・中でもすごいのは唐島部隊(落下傘部隊:横須賀第一特別陸戦隊)。第一線でやっていて、やられて帰ってきて、はらわたがぶらさがっている。それで「手榴弾をくれ」という。「もうそれじゃだめだから後へ戻れ」というと、「俺はこれでもって何時間生きられるかわからない。とにかく一人でも殺すんだから、手榴弾をくれよ」といって、それを持ってまた前進していった。戦争ってのはすごいもの。
・民間人も一緒。民間人はいい洞窟など、いろいろなものを知っていたが、いよいよ戦争になると、兵隊達がその洞窟をとって民間人は入ることができない。戦争ってそんなもん。
・本当は民間人を守るのが兵隊の任務。ところが違う。兵隊の偉いものが安全なところへいって、民間人は隠れるところがない。
・決死隊にもでた。最初は破甲爆雷を持って敵戦車にやるだけだったが、そんなもの新しい戦車にはビクともしない。それから威力の強い棒地雷を持って行って体に縛って戦車の下敷きになるという任務に。戦車の近くまで行って穴を掘って隠れていたが、道具がないので穴が掘れない。ゴボウ剣でなんとか掘っても、上半身が出てしまう。そのうち見つかって逃げて、成功しなかった。ほとんどの人が途中でやられちゃって、失敗したから助かった。
・やつらの戦車、新しい戦車はちっとばかりじゃいかない。キャタピラもはずれない。

○昭和十九年七月三・四日、後退した極楽谷で戦闘。

・機関科はここの戦闘でほとんど死んでしまった。
・一番仲がよかった小豆畑兵長も地雷を抱えて戦車に飛び込んで戦死。

○昭和十九年七月七日、玉砕。

・武器もないので自殺に行くようなもの。
・めちゃくちゃ。
・マタンシャ海岸の奴らのほうにむかっていたら、そんな決められたわけではないので、結局弾があたらなくて、逃げて帰って来た。
・そのあとは大掃討。
・子供のころからじっとして何か工作をするのが好きだったので、ジャングルの中にいてもいつもじっとして、あちこち友軍のいたところへ行って薬や衛生材料を拾って、負傷した人に分けてあげたり、そんなことをずーっとやった。
・服はボロボロになってしまったので、アメリカのものを拾って着ていた。
・まず最初に食べ物。ヤギが草を食べているのを見付けると、ヤギがいなくなってからその草を食べてみる。からかったり、にがかったりして、「これはアクがあるから茹でて食えばいいや」。調味料もなんにもない。
・いろんなものを食べた。製糞機械。ただ食って糞に出す。敗残兵同士で「糞を作る機械だ」なんて馬鹿を言いあった。
・手榴弾もいろいろ。手榴弾を持っていて奴らがきたから投げようとして、日本の手榴弾は安全栓を抜いてを信管を叩く。アメリカの手榴弾はバネで発火する。日本の手榴弾を奴らがきたから叩いて、投げてしまえばいいのに、奴らが通り過ぎて、火を消そうする。消えるわけがない。そこでバーンとはぜる。手が木の枝につら下がって、死んでしまった。
・何のためにこんな苦労をしなくちゃならないのかと思って死にたくなる。
・みんな狂っちゃって、きちがいの多いこと。やることがそんなことになっちゃう。
・女の人が子供を殺したから、素っ裸になっちゃって、踊っちゃって歩いている。そんなのいると邪魔になるから、撃って殺しちゃう。
・敗残兵になってから糧秣のとりっこ。自分が行かないでいて、たんともっていると、途中で横取りしてしまうのが結構いた。
・水は雨水。
・小便も飲んだことがある。小便は本当に飲めない。でも、水。だから飲んじゃった。
・水のかわりに酒をのんだり。
・弾がどんどん来るので、小さい子供が泣く。泣くと「その子供を泣かせるな」という。「音波探知機で探知されるとここにいる兵隊がやられてしまうから、その子供を泣かせないようにしろ」。ということはその子供を殺してしまえってこと。それで親がその子供を殺して、気が狂って。子供を殺してしまうと正気でいられない。そういう人がどれだけいたか。だから戦争をしたくない。撃ちあいやるだけが戦争じゃない。そのあとが戦争。同じ同士の殺し合いだよ。最後には敵より味方のが恐い場合がある。人間ってそんなもん。だからいろいろある。サイパン島のことは絶対話したくないって人もいる。だけど俺にはそういう人の気持ちが分からないだよ。自分がそれだけの思いをしているなら、こういうこと
があるから戦争はしちゃいけないってことを語りつないで行かないといけないと思う。自分がおかしなことをやってるとそれがばれると悪いってことで、戦争のことを話したくないって人が結構いるの。自分が何かやったもんで、ねえ。わからんねえその気持ち。自分がやってなければ何でもいえるけど、やったがために言うことができない。取り方ひとつだけどねえ。そういう人もいるだよ。
・知ってる中でも友達を殺したのがいる。一丁の拳銃があって、糧秣のことで喧嘩して、その拳銃を持っていた奴が殺される。また糧秣のことで喧嘩があると、今度は他の奴が、その拳銃で殺される。五人続けてそういうことがあって、その拳銃は捨ててしまえといって捨てさせた。人間ていうか、なんていうか考えられないようなことが、戦争にはいろいろある。とにかく戦争はしてはいけない。
・女の人がマッピの断崖から飛び降りるのをみた。最初は「なんだ?」と思っていたら、「あれは自殺しているんだよ」。飛び降りてねえ。

○昭和十九年十月ごろ

・もう兵隊も設営隊員もなくて、気の合った者同士でグループをつくっていた。
・設営隊員の三橋君と佐藤君といた。ちょっと年上で東京出身の三橋君は、花札の刺青をしたりしていた。佐藤君は同い年くらい。
・戦闘前によく言っていた菓子屋の職人が負傷して、その面倒を見ていた上原初子という女の子と知り合った。あとで、負傷して置いて行かれて、一人ぼっちでかわいそうだったので、弾片を抜いてあげようとした。太ももを怪我していて、嫌がったが、何とかだまして、道具もないので、舌で舐めて、顔は血だらけになったが、歯で抜いてあげた。
・上原さんは一つか二つくらい年下。サイパンに売られたみたい。両親の話は絶対にしてくれなかった。おじいさんと一緒に大阪にいて、小学校六年生の頃にサイパンに行けといわれたが、サイパンは土人種のいる野蛮なところだから嫌がったところ、柿の木につりさげられてせっかんされ、それでも嫌だと言ったら、「お前が行かなかったら妹をやる」といわれたらしい。それで妹をやるのはかわいそうだからと承諾してサイパンに来たらしい。小学校の読み書きの教科書だけを持って、山城丸とかいう船できたとか。

○昭和十九年十一月三日、やられて負傷。

・明治節で、まさか奴らが掃討をやるとは思わなかった。そういう時にはかならず日本の軍隊がなにかしていて、日本軍がくるから、それを迎え撃つために掃討はしないと思っていた。
・ところが朝、やつらの見える山の上で休んでいると、山の前の道路にいっぱいトラックが並んじゃっている。その日に限って、掃討がないと思っていたので、上原さんを一緒に連れて来ていた。
・しばらくたって、前の山にずーっと兵隊が並んじゃって、掃討だってことがわかって、山の上のほうに逃げた。
・まず、急斜面のところに穴を掘って、体をうめて土をかぶった。
・そこに上原さんがとんできて、一緒に恐いもんで、「初子、お前ここにいると一緒にやられちゃうからお前も上へ行け」と言ったら、上へいってしまった。
・上原さんがいなくなったからいいやと思っていたら、今度は三橋君がやってきた。「三橋君、一緒にやられるとだめだから、お前あっちに行けよ」と、三橋君もよそにやった。
・すると今度は、一番最後に残った佐藤君がやってきた。、そのときは奴らも近づいてきていて、佐藤君に「お前そっちいけよ」とはいえなかった。
・そうしているうちに、たちまちのうちに、奴らが周りをとりまいてしまった。
・目を開けると銃口を佐藤君のところにつきつけている。
・そしてやつらがポケットから紙をだして読んでいる。「武器を捨てて、立て、立って、手を上げろ」。
・なにも言えない。その時間の長いこと。
・すると、三橋君の方で我慢できなくなって、ガサガサっと動いてしまった。
・そこでもって三橋君が我慢できなくなって、奴らをバーンと撃ってしまった。
・銃声がしたと思ったら、ガチャガチャっとして、またバーン。二回撃った。
・すると、俺のところにいた銃口が一斉に火を噴いて、ダダダダダダ。
・そのときに三発。負傷した。
・佐藤君は頭をけっとばされて、斜面の下のほうに滑って行く。
・奴らは佐藤君をおいかけて、それっきり奴らはのぼってこなかった。
・何時間かたって、頭から出血してぼやけちゃったが、基本はしっかりしていて、他の奴らがどうなったかみると、蠅がきて、すーごい。真っ黒。
・「初子!初子!」と言ったが、返事がない。ばらくしたら、茂みからガサガサ音がして、はっと思ってみると、上原さんがでてきた。頭の前に長い髪をたらして、おばけみたいで、顔の前にきて、「近藤さん、大丈夫かね」という。
・「俺は大丈夫だけんが、佐藤君がやられてる、三橋君もやられてる。三橋君がどうなったか、見てくんねえかや」といったら、三橋君の方に行って、しばらくたってから「三橋さん、三橋さん」と声がして、まだ三橋君が生きていると思っていたので、動かない体で草につかまって這いずって行くと、座ったような格好で、見ると、左の心臓から血がぽたり、ぽたり。何時間もたっていたが、顔はハチの巣のように撃たれて、血が流れていなかった。
・「佐藤君もやられちゃったし、三橋君もやられちゃったし、俺も一人じゃしょうがない」と思って、上原さんに「初子、三橋君も佐藤君も死んじゃったから、俺もここで自決するから、お前ちょっとよけててくんないかなあ」といったところ、上原さんが手榴弾をとって、「私が生きているのも、近藤さんのおかげだから、近藤さんの面倒を見るから絶対に死なないで」。
・面倒をみてもらうことになって山を下った。
・下る途中、佐藤君の死体を見つけた。あれだけ撃たれたが、手榴弾で自決したと見えて、両腕がなかった。

○昭和十九年十一月四日、

・菊池さんの洞窟をみつけて、許可をとって、一斗缶を二本洞窟の中にいれて、六十キロの爆弾箱のふたをのせて寝台にした。爆弾箱のふたは小さくて、負傷して体を丸めているからのっかるようなもの。
・頭にぶつかるといけないので、上からたれてくる鍾乳石を、上原さんがおっことしてくれた。
・この上に三か月間寝かされた。
・最初のころはつらくて、何のためにこんなつらい思いをしなければならないのか、死んでしまえば楽だと思って、夕方、皆が外に食糧を探しに行っている間を見計らって、死ぬつもりで手榴弾を持って洞窟の入り口でやろうと思って出た。しかし、せっかく一晩でも世話になった洞窟にいる人に申し訳ないと思って、なるべく離れたところへ行って自決しようとすると、途中で足を踏み外してひっくり返って気絶してしまった。気を失っているところに上原さんが帰ってきて、探して見つけてくれた。「私はね、あなたのために命をかけてやるんだから、そんなことでどうするの。あんたは海軍の兵隊でしょ」と怒られた。この時は本当に申し訳ないと思った。
・水を汲んできて熱湯を沸かして、それを布きれにつけて傷口をふいてくれた。

○昭和二十年、すこしずつあるけるようになった。

・昔の船乗りの菊池さんの洞窟にいた。
・菊池さんは暦のような人で、月や星を見れば、何時だとか、今日は何月何日だとわかる人だった。

○昭和二十年二月四日ごろ、

・菊池さんが「ちょうど今日は節分だ。豆まきだ」と言う。その時ちょうど豆を隠したのを思い出し、「おい菊池さん、俺豆を拾って隠してあるよ。あれを炒って豆まきやるか」「ああいい」。皆喜んじゃって、みんなで炒り始めた。
・ジャングルではできないので、晩に洞窟の中で菊池さんが豆を撒いた。「友軍はうちー」「ヤンキーはそとー」。
・朝になると、それが聞こえたわけではないだろうが、米兵に洞窟が見つかって、銃でパパーンとやられてしまった。
・どうせ死ぬなら洞窟の中で死のうとなった。

○昭和二十年二月七日朝、米兵が大勢やって来た。

・まずガス弾を投げて来た。苦しいが、水筒の水で濡らした布を口にあてて、なんとか我慢した。朦朧としてくる。
・米兵が洞窟の中に入ってきたので、一番奥の方へ逃げた。
・安全だなと思った所に、宮島軍曹、上原さん、高橋上等飛行兵曹がやってきた。ところが高橋兵曹の体が半分陰から出ていて、米軍の照らすライトに映ってしまった。高橋兵曹が小銃を撃ったが、カチンと音がするだけ。弾が出ない。いそいでガチャガチャとまたやったが、カチン。弾はでなかったが、米兵は驚いてライトを消し、ガス弾を投げて洞窟から飛び出てしまった。
・ガス弾は苦しいだなんてもんじゃない。鼻先にきたので、そのまま気を失ってしまった。
・この時、上原さんが湿らせた布きれを口にあてて抱いてくれた。
・何時間かたったかわからないが、ようやく息ができるようになって、「大丈夫だから離してくれ」と言ったが、離してくれなかった。仕方がないので自分で上原さんの手を外してみると、手が冷たい。上原さんは弾に当たって、死んで抱いていた。

・アメリカ兵が負傷していた日本の兵士の足を八番線で牛二頭にしばりつけて、尻をひっぱたく。すると人間の体が裂けちゃう。アメリカの兵隊は紳士的だなんだか言うが、アメリカの兵隊も日本の兵隊もない。
・サイパン島の大掃討があって、マンガンの沢というところで大掃討があって、そこへ逃げたのは女子供が多かった。女を全部殺してしまって、全部裸にして、逆さにおったって、局部に木の板とかを穴に詰めて、五十人くらい。そういうことがある。誰も言う人がいない。見たから言う。その中に知り合いの三日月のトミちゃんという女の子がいたからなおさら忘れられない。
・奴らの掃討の跡の穴の中へ行ってみると、女の下半身が血だらっこになって強姦されていた。
・日本兵の中にも大陸でそういうことをやってきたって、古い兵隊が自慢げに話す。そういう人がいた。
・そんなわけで奴らを一層憎くなって、奴らがくると殺したくなるわけ。いろいろ殺したのがある。
・殺したら兵隊じゃないらしくて、設営隊かなにかだった。飯盒を持っていて、その中に日本人からの金歯が半分くらい入っていた。金歯を集めている。金儲けにする。
・日本人でも、召集兵のじいさんたちは田舎じゃ貧乏していたのか、それが死んだ人の自分たちの戦友とか上官のポケットを探して、銭があると自分のものにしてしまう。サイパンのあんなところで銭を集めったって何にもなりゃしないのに。中にはそういう人がいる。
・日本人のことは言いたくないが、戦争は人間を人間でなくしてしまう。

○昭和二十年八月半ば、終戦を知る。

・自決した人が結構いる。
・負傷も何か所かしていたし、とにかく明るいところで一回のんびりと寝たいくらいに思っていて、出ることにした。
・アメリカが博愛域というところを作っていて、そこへいくと迎えに来てくれた。
・ここでみんな着ていたものを焼いたが、自分だけ持って帰って来た。
・収容所に一年いて帰ってきた。
・健康であれば仕事をして一日八十セントもらえる。帰るときに、赤十字社が募金をしてくれというのでほとんど募金しちゃった。惜しいこと。あのころは一ドル三百六十円だった。
・食堂でも兵器庫でもどんなところでも仕事をする。
・兵器庫に行くと、拳銃をバラして持って帰ってきて、幕舎の中に隠していた。いざという時は武装できるくらい捕虜が武器を持っていた。
・収容所で指輪をつくったりして米兵に十ドルくらいで売っていた。ほかにも絵を描いたり。
・アメリカ兵の中には面倒をみてくれて、帰り際涙を流して別れたものもあった。

○昭和二十一年十二月二十八日、復員。

・せっかく助けてくれた上原さんに申し訳が立たないので、後ろ指をさされるような死に方はしないつもりで生きて来た。
・今考えて見ると、殺したアメリカの兵隊にも、家へ帰れば家族がいただろうなあと思う。もしいい家族だったらかわいそうだなあと思う。取り返しがつかない。
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