FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大学生1人旅2012秋、10月28日(日)に静岡県静岡市で伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。

◎望月芳郎さん(91)
取材日:平成二十四年十月二十八日
所属:海軍砲術学校~戦艦「長門」~横須賀海軍病院薬剤部~戸塚海軍衛生学校
薬剤科
戦地:本土
――――――――――――――

○大正十年二月十一日、静岡県生まれ。

・小さいころは安倍川のそばの沼でよく釣りをしていた。
・小学校五、六年生のころは野球の選手でよく他校と試合をしていた。
・昔は家伝薬というものがあって、薬剤師になって家伝薬を売ろうと考えた。
・小学校卒業後、静岡中学に入学。
・部活に入らないでもっぱら勉強。
・五年になった時に千葉医科大学付属薬学専門学校(現在は千葉大学薬学部)の試験を受けて合格。私立はお金がかかるので千葉薬専しか受けなかった
・千葉薬専は国立だったので、三年いると国家試験を受けることなく薬剤師の免状がもらえた。明治薬学専門学校や東京薬学専門学校などの私立の場合は国家試験を受ける必要があった。

○昭和十五年秋、海軍二年現役薬剤科士官採用試験を受け合格。

・これに受かると最初から少尉で採用される。(大学では中尉)。
・陸軍にいくと新兵でひっぱたかれて教育を受けて、三ヶ月の内に幹部候補生の試験を受けて、それからまた薬剤科士官の試験を受けなければならないので、ほとんどみんな海軍の二年現役薬剤下士官の試験を受けた。
・受かるか受からないかは自分でもわからなかったが、試験の検査官が「中学校の時は何番だったか」と聞くので、優等賞状と五年間の皆勤賞をもらった話をして、これがよかったのか、薬専の成績が上位だったためか、採用された。

○昭和十六年三月、千葉薬専卒業。

○昭和十六年四~八月、建設中の日本軽金属清水工場研究所に勤務。

・軽金属に入った時に、「海軍の薬剤科士官の試験を受かっているんだけれども、どうしたらいいでしょう」と相談したところ、「とにかく海軍へいくまで勤めてほしい」ということだった。
・オーストラリアから運んできたボーキサイトを岸壁に積み上げ、苛性ソーダで分解、いくつかの行程を経て、アルミナという白い粉を作り、これを蒲原工場に持っていき、電気分解をしてアルミニウムを作っていた。
・ボーキサイトからアルミナを作る過程の分析方法を作っていた。
・給料は65円で、5円をこずかいにしてのこりの60円を家に入れていた。

○昭和十六年九月、海軍省へ出頭。

・薬剤官は10人で、軍医官は134人だった。全員が軍服を着て、指導教官に連れられ、横須賀砲術学校へ。
・砲術学校で一か月間、敬礼の仕方やいろいろな訓練を受け、最後は辻堂から北鎌倉まで、鉄兜をかぶって三八式歩兵銃を持って砂浜を駆け足で行軍する演習をおこなった。
・この時は前の年に日射病で亡くなった軍医がいたので、後ろにトラックがついていって落伍した者を収容するようになっていた。
・これが終わると東京築地の海軍軍医学校の普通科学生として教育を受けた。
・薬剤科の色は軍医と同じで赤。

○昭和十六年十一月十五日、軍医科だけ繰り上げ卒業に。

・卒業した軍医は全員実戦部隊に配属されたので、「これは戦争がはじまる!」と騒然となった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・薬剤官はとにかく卒業までいるということだった。

○昭和十七年一月十五日、軍医学校卒業。連合艦隊司令部附きとして戦艦「長門」に乗艦。

・薬剤官は病院船しか乗らないが、慣例として艦隊実習があり、東大出の景山薬剤中尉と二人で乗る。
・長門は当時連合艦隊の旗艦で、岩国の沖の方に停泊していた。呉の軍港から水雷艇に乗って、柱島の近辺の長門に乗艦。
・長門は規律も厳しかった。
・薬剤官の仕事は特別に決まっていたわけではないので、環境衛生の空気の検査をしたり、炭酸ガスの検査をしたりするのが仕事だった。これが終わると特にやることもなく、今度は通信長に呼ばれて、通信室で暗号の解読をやるように言われ、今までやったこともなかったが、一応暗号の解読のいろいろな勉強をして着手した。
・当時、海軍兵学校を出た士官が戦闘配置につくと、暗号の解読をやる士官がいなくなる。解読は十人の下士官だけでやっていた。
・暗号は数字がずーっと送信されてきて、その数字がある程度まとまると、暗号の解読書
(機密文書)を見て解いていく。
・ところが時々、暗号の数字が間違って送られてくる。その間違えた数字を暗号書で見て解くことが非常に大変だった。勘がよかったのか、それを早く解くことができたので、司令長官宛の暗号の解読をやっていた。それで戦況を誰よりも早く知ることができた。
・食事になると士官室の食事をする。それまでは薬剤官は軽く見られていたが、解読の仕事をやりだすと、海兵出の士官の連中が「望月少尉、今日はどういうことがあった」と言ってみんなやってきた。それで結構重く見られるようになった。
・暗号が変更されたことがあり、長門の暗号を扱う士官を代表して、大和に勉強に行った。
・大和はすばらしい船だと思った。暗号長は見るからに頭が切れそうな海軍大尉。
・船が大きいので迷ってしまった。
・一日だけ講習を受けて長門に戻った。
・暗号を全部覚えてしまったので、船を降りる時、「暗号のことをうっかりしゃべってしまったら大変なことになる」と自分でも心配した。
・本来薬剤官は暗号はしないが、他にも巡洋艦に乗って暗号をやっていた薬剤官がいる。
・長門にいる時から日本の戦争に勝ち目がないかもしれないと感じていた。スラバヤ沖の海戦の報告によると、敵の砲弾が真っ暗闇でも飛んでくるということだった。つまり、レーダーが非常に発達しているので、日本の方は勝ち目がないと思っていた。

○昭和十七年五月二十日、横須賀海軍病院薬剤部調剤科に転勤。

・呉の軍港に降りた時、たまたま静岡中学から海軍兵学校に行った三人のうちの二人に会い、いろいろ話をして、これから横須賀海軍病院に行くから、横須賀の軍港に来たら海軍病院に来てくれと話をした。二人とも同じクラスで仲が良かった。戦で三人とも戦死してしまった。
・普通の病院の薬局と同じだが、病院の患者は1100人くらい収容していて、外来患者は多くなかったので、注射薬を作ったり、薬の調剤をしていた。

○昭和十七年六月、ミッドウェー海戦。

・長門にいる時は、「六月にミッドウェー海戦がある。けれどもこれは絶対秘密だ」といっていたが、横須賀海軍病院に来たらは誰もみんな六月にミッドウェー海戦があることを知っていた。
・「情報が漏れているのに、果たしてミッドウェーまで機動部隊が行くのかしら」と思っていた。
・情報が漏れていたとおり、六月にミッドウェー海戦が始まった。向こうの方に待ち構えられていたんだと思う。
・後で長門に乗って作戦に参加した石田軍医中尉に負傷兵やら火傷の患者を九百人くらい収容したと聞いた。
・夏は半袖の軍服を着ていたが、ミッドウェーであまりにも火傷患者が多くでたので、長袖の軍服を着るようになった。
・このころはすごく忙しくて、注射薬を作る調剤をやる、衛生課には衛生兵や下士官が十人くらい、看護婦さんが十人くらいいて連日忙しかった。

○昭和十七年十一月一日、海軍薬剤中尉に進級。

・療品科に配属となり、艦船部隊や病院船に薬を供給する主任を命じられた。
・薬は多種ある。例えば五百人の部隊だったらこのくらいの薬を送る、百人の部隊だったらこのくらいというように大体の枠があった。
・現地のほうから海軍病院に要請があって、それから在庫を見て送る。そして最前線のニューギニアやニューブリテン島の部隊は、ラバウルのなど戦地の海軍病院にもらいにいく。
・横須賀の海軍病院が担当しているのはラバウルの海軍病院とトラックの海軍病院。それから小さい霞ヶ浦海軍病院などにも送った。他にも川奈ホテルや、熱海、湯河原の旅館を海軍病院の分院にした所には軍医と衛生兵と日赤の看護婦しかいなかったので、そうした所にも送っていた。
・呉の海軍病院はスラバヤなどインドネシア方面と担当が決まっていた。
・マラリアの薬としては塩酸キニーネとか、アテブリンとか大体三種類くらいある。そうした薬を行く先々で考えなければならない。
・外地ではマラリア等の病気が流行っていたので、それを撲滅する防疫班がつくられるようになった。それに軍医大尉と薬剤中尉と衛生兵が配置されたが、その病気にかかって亡くなる人もいた。
・ラバウルでは、硫酸が無くなって通信機の蓄電池が使えなくなってしまったことがあった。この時、熱帯衛生研究班にいた岡山薬剤大尉が、ラバウルの火山から亜硫酸ガスをとって硫酸を合成し、内地との通信に成功した。参謀本部もすごく喜んだらしい。こうしたことも薬剤官がやった。
・ヒロポンも海軍の航空技術廠にいった薬剤官が作ったという話がある。
・他にも火薬廠にいった薬剤官もいる。薬剤官のやることの範囲はすごい広い。薬を作るだけじゃない。
・横須賀海軍病院は一部が内科で、二部が外科、それから薬剤部と三部あり、薬剤部の中には療品科、調剤科、試験科、製剤所の四つの部門がある。製剤所は海軍で使われる薬を作っていた。
・薬剤官はだいたい十人くらい。
・艦船部隊に薬品を供給していると、静岡県の焼津から150トンの漁船が監視艇という名前に変えられて、薬をもらいにやって来た。艇長は兵曹長で、乗組員は八人くらい。その中に衛生兵が一人いた。その衛生兵といろいろ話をして、150トンの監視艇がどういうふうな仕事をするのか聞くと、「太平洋の最前線へ出て、敵の機動部隊を見張ってるんです」「それじゃ機動部隊が見つかったらそれを無線で知らせるんだろうけれども、知らせると同時に君たちはすぐに射撃されて沈没しちゃうじゃないか」「そうなんです」。本当に気の毒に思った。事実、戦争が終わってから焼津の漁船はほとんど徴用されて無くなっていた。
・陸軍だと丸坊主だが、ずーっと長髪だった。ほとんどみんな伸ばしていた。
・療品科には三十人くらい良家の娘さん達が理事生として勤めていた。製材所にも娘さんたちがいっぱい来ていた。こういう娘さんと一緒になった薬剤官もいる。

○昭和十九年三月、海軍薬剤大尉に進級。

・薬剤部長に呼ばれて、「今度サイパンに海軍病院を作ることになったけれども、望月お前行く気はあるか」と聞かれた。
・横須賀海軍病院では大尉になると大体どこかに転勤する。順番だから「行きます」と返事をしたが、その後一向に発令されない。
・そのうち横浜市の戸塚に戸塚海軍衛生学校ができ、そこに練習生が大勢入っているけれども、薬剤科の教官が一人しかいなくて困っていたので、教官兼分隊長になって赴任することになった。
・年下の薬剤官がサイパンとグアムの海軍病院に転出。それぞれ七月と八月に玉砕した。

○昭和十九年五月一日、戸塚海軍衛生学校教官兼分隊長に転出。

・着いてみると、まだ赤土だらけのところへ校舎が建設中のような状態。それで衛生兵が入っている。
・練習生は水で体を拭いている状態だったので、設営主任の特務衛生大尉に聞くと「ボイラーがないので風呂が沸かせない」という。すると今度は副官の軍医中佐に「海軍省へ行ってボイラーを貰う交渉をしてくれ」と言われた。
・鉄兜を背負い、海軍省へ行ってみると、そのことは資材が乏しいためか、機関中佐に「衛生学校なんかにやるボイラーはない!帰れ!」と言われた。しかし、みんな泥まみれになって訓練を受けているので、どうしても風呂へ入れたいと粘ったが、中佐は「時間だから出て行く」といって、そのまま扉を開けて出て行ってしまった。それから帰って来ない。
・大尉だし、副官も中佐だし、水道の水で体を拭いている皆にも、「ボイラーを貰えませんでした」なんてことは言えない。機関参謀が中佐が帰って来るまでずーっと待っていた。すると機関参謀が帰ってきて、「なんだお前まだいるのか」と言うので、「私はこういうわけでとても帰れません」と言ったら、「それじゃあ特別に切符をきってやる」。
・切符をもらって帰って、それを現物のボイラーと交換する。それから風呂に入れるようになってみんなすごく喜んでくれた。
・このあと副官に「私の娘を貰ってくれ」と言われたが、「私は戦争が終わるまでは結婚はしません」と断った。
・衛生学校の練習生は150か160人くらいで、分隊長の下に衛生兵曹長が分隊士で、一等衛生兵曹や二等衛生兵曹の下士官が六人くらいで教員と衛生兵の班長をやって、いろいろ面倒を見ていた。
・行ったときには第二期生で、第五、六、七分隊と分かれていて、第七分隊長をやっていた。
・よその隊では練習生を教員がひっぱたいたり、精神棒で叩いていたが、「言葉で怒るのはいいけれどそういう制裁は加えるな」と、そういうことはさせなかった。
・六分隊の中には脱走兵が出て、郷里の静岡に逃げ帰ったが、途中で捕まってまた戻されたことがあった。これが軍法会議にまわされると大変なことになるので、静岡市出身ということもあって、なんとか軍法会議にまわさないように頼んで無事おさめた。しかし、終戦後に自殺してしまった。やっぱり気が弱いところがあったんだと思う。
・補充兵の分隊があって、そこには会社の課長だの部長だの年をとったよぼよぼの人達が練習生。会社にいれば指揮する立場の人々が、練習生の補充兵になって訓練を受けるので、気の毒だと思った。
・衛生学校では薬剤科の教官として薬のことを練習生に教えていた。
・日本は敗けるとおもっていたので、卒業した練習生はできるだけ郷里に近い部隊にできる限り廻していた。
・戦争が進むと資材がなくなって、カーキ色の三種軍装になった。
・衛生学校の隣に軍医学校が出来た。そこに中学校の同級生で、慶応の医学部を出て軍医中尉になった人がいた。ところがこのころは三種軍装しか支給されなかったので、「写真をとって家に送りたいから、紺色の軍服を貸してくれないか」とやってきた。大尉だったけれども、軍服を貸してあげた。
・横浜の高台に高射砲隊があって、よくB29を墜としていた。夜、B29が火に包まれてプカプカしながら落ちて来るのを見ていた。
・グラマンの機銃掃射もよくあった。道路を歩いている時に飛行機の爆音がするのでふと見るとグラマンで、「こりゃいけない」と思って道路の横にあった空堀の溝にすぐ転がり落ちた。上を見ると、パイロットが見える。それで機銃掃射をして、頭の上をサーッといってしまい、「助かった」とその時思った。
・グラマンが道路の上に墜落した見に行ったこともある。

○昭和二十年二月、B29の爆撃を受ける。

・六十人くらい死傷者が出た。
・このときは第十五分隊長を勤めていて、練習生を全員防空壕に入れた。
・衛生学校の上空で、厚木航空隊からきた零戦二機とB29が空中戦をはじめて、防空壕の入口でそれをみていると、シュシュッと音が聞こえて、「これは爆弾が落ちてくる音だ」と思ったが、防空壕へ入る暇がないので地面に伏せた。
・頭が飛んだり腕が飛んだりめちゃめちゃ。死屍累々。死体が血だらけになって分裂してしまう。
・爆弾が十二発、病舎を中心に落ち、十五日前によそから転勤して来た病舎主任の軍医大尉が爆死。
・ほかにラバウルの方で激戦をやって帰って来た、監視哨のやぐらの上で見張っていた人も破片を受けて亡くなった。
・隣が戸塚海軍病院だったので、すぐ負傷兵をそこへ収容して手当てしたが、大変な出来事だった。

○昭和二十年八月十五日、

・非常に暑い日だった。練習生は練兵場に全員並んで、練習生隊長からいろいろ訓示を受けた。
・とにかくラジオはよくきこえなくて、戦争が終わったということがわかった。
・一応みんな涙を流したけれど、兵隊などは「これで家へ帰れる」と喜んでいた。
・横山薬剤少佐に「望月、お前は家が戦争で焼けたんだから、早く帰ってもいいよ」と言われたが、いろいろな整理をしてから帰ることにした。

○昭和二十年九月、復員。

・静岡に帰ってみると、静岡は焼け野原で、駅前の松坂屋のビルが一つ焼け残っているだけだった。あとは全部海の方まで家がなかった。
・とにかく歩いて自宅に着いてみると、丸焼けで防空壕が二つあるだけ。近所の人の話によると、父親が安倍奥に疎開しているということだったので、安倍奥にむかうトラックを停めて、運転手さんにお願いして近くまで乗せて行ってもらった。
・疎開先を訪ねて行くと、農家の納屋に藁を敷いて住んでいた。
・この田舎にいてもこれから先どうしていいか分からないし、陸軍にいった弟もいつ帰って来るかしらないから、焼けトタンをあつめて材木屋で丸太を買って、焼け跡に八畳一間のバラックを建てた。庭はさつまいも畑になっていて、焼夷弾の殻がごろごろ転がっていて、防空壕にも五本くらいくすぶっていたが、とにかくここで寝泊まりすることになった。

○海軍省から電報が来て、海軍省に出頭せよと命令が届く。

・東京の赤レンガの海軍省へ行くと、横須賀海軍病院へ戻って復員船に医薬品を供給する主任をやってくれということだった。
・衛生学校にいる時に陸戦の主任だった海軍兵学校での大尉が、復員船の艦長になって将兵を収容しに行くから薬はないかとやって来たので薬や何かを供給した。
・衛生学校の先任教官の一色軍医少佐は、二万トン位の生き残った空母の軍医長になって衛生兵を二十五人くらいつれて、一番最初にニューギニアに行き、五千人くらい患者を収容して帰って来た。後で「マラリアで痩せ衰えて船のタラップを登れないから、復員船の兵隊が助けてかえってきた」、「大島あたりにくると富士山が見えるぞということでみんな喜んでいたが、船の中でどんどん死んでいく、出港すると同時に死んでいく人がいた、本当に気の毒だった」という話を聞いた。

○伊豆下田郊外の湊海軍病院の薬剤課長を命じられる。

・温泉病院なので、はじめてのんびりした生活をした。
・湊海軍病院には薬剤官が二人と、軍医と看護師さんたち。

○昭和二十年十二月ごろ、陸軍中尉の弟がルソン島から自宅に復員。

・おじさんが警察電話を借りて連絡してくれた。
・三千人の連隊で生き残りが百何十人という状態でほとんど全滅。
・がい骨に皮がついているだけで、頭の毛もなくなって、やっと家までたどりついたけれども、マラリアの熱が出て、四十度で唸っているということで、すぐに家に帰って弟を連れて病院に戻った。
・そのころは伊豆急がなく、伊東からバスで行かなればならなかった。混雑していたがバスの所長が気を使ってくれて座らせてくれた。

●終戦時、海軍薬剤大尉。
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/1171-84ce8610
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック