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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
大学生1人旅2012秋、11月5日(月)に山梨県身延町で伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎赤池光夫さん(94)
取材日:平成二十四年十一月五日
所属:近衛歩兵第四連隊(宮3804)第三中隊~通信中隊第一小隊第一分隊~東部第63部隊
歩兵・通信兵
戦地:中支~南支~南部仏印進駐~タイ王国進駐~マレー作戦~シンガポール攻略戦~スマトラ島鑑定作戦
―――――――――――――――

○大正七年十一月七日、山梨県生まれ。

・農家に生まれる。
・逓信省講習所を出て、東京の滝野川郵便局へいったり、世田谷の郵便局へいったりしていた。

○昭和十三年六月ごろ、徴兵検査。

・検査官に「君は馬が好きか」と聞かれた。家で馬を飼っていなかったし、恐かったので、「正直なところ私は馬が恐いです」「そうかよろしい」。そして甲種合格と言われた。
・しばらくたって近衛歩兵の四連隊に入ることを知った。もし馬が好きだといっていたら近衛騎兵になっていたかもしれない。
・近衛歩兵に入ることになった。なぜ選ばれたのかはわからないが、入る前に今の民生委員の方面委員の役をしていた人が母親に、「光夫さんがなにか違う兵隊になるらしいぞ」と話をした。それからおまわりさんが二度も三度も来たということを何度も聞いた。身内に悪いことをした人がいたら入れなかったらしい。
・徴兵検査には簡単な筆記試験があって、その成績もよかったらしい。
・地方の連隊に入る人は翌年の一月十日だったが、近衛師団は入営するのがは早かった。一月八日の陸軍始めの観兵式に間に合うように訓練を受けるため。
・入営するときはみんなに送ってもらった。
・近衛師団は一年半勤めると、あとの半年は帰休除隊といって帰ることができた。

○昭和十三年十二月一日、近衛歩兵第四連隊第三中隊入営。

・今の神宮球場の真ん前にあった。
・毎朝分列行進をする練習をさせられた。
・近衛兵は北から南、日本全国から人が集められていた。
・中隊長は大湖実雄。とにかく厳格な人だった。
・訓練そのものはいろいろ練兵場でやるが、訓練のほかに皇居に行ってのいろんな守備のいろんな教育を受ける。
・皇居の正門の前に立つ時には、どういうところを注意をしなさい、どういうところへ警戒しなさいという守則があって、それを覚えることからはじまった。
・普通の人が呼ぶ二重橋は、手前が石でつくってある「石橋」、奥が鉄でつくってある「鉄橋」。二重になっているから二重橋という。一般国民は二つをまとめて「二重橋」というけれども、橋は二つある。
・歩哨は皇居の何か所かにいる。兵隊と皇宮警察が連携をとりながら皇居をお守りする。
・歩哨の場所も覚えなければならないから、普通の兵隊より大変。
・警備は交代でやる。近歩一~四まであったのでそれが順番に警備する。近歩四の番になると、近歩四の第一大隊がやり、今度は第二大隊がやるという具合に変わっていく。
・宮城ばっかりではなく、大宮御所(今の青山御所)にも行く。大宮は宮中言葉で天皇陛下のお母さん。
・装備は普通の兵隊さんと変わらないが、普通の兵隊さんはそとに出る時は二装の軍服を着て、演習の時は三装の軍服を着る。近衛の兵隊にはもう一つ一装があった。一装というのは造兵廠で作られてから誰も袖を通していないもの。宮城に行くときはそれを着て行く。一般の兵隊には一装はわたらない。
・宮城警護へ行く前の日には演習がお休み。みんな入浴して体をさっぱりさせたり、爪を短くしたり、ヒゲを剃ったり、頭を刈ったり、襟布を新しくしたり。
・宮城へ行く日の朝には整列して軍医の検閲をうけて、それに合格しないと宮城へ行けない。
・よその連隊では帯革で殴ったり、スリッパで叩くと聞いたが、近衛ではそういうことはしなかった。
・入隊して一番最初に教えられたことは、軍隊では毎月十日に給料をくれるということ。給料と言ってもお小遣い程度。
・ある十日の日、給料をもらってから入浴に行って帰って来ると、寝台の枕カバーに横に八の字がチョークで書いてあった。他の初年兵にも書いてある。それは給料を一回分頂いたからお前たちは一人前の兵隊だ。枕カバーが汚れているから洗えというようなことを言われた。
・連帯責任でビンタも受けたことがあるが、つらいなと思ったけれども、軍隊はこんなものかと受け止めた。
・いつも他の一般の兵隊の模範になるようにと教育を受けた。
・旅団長は朝鮮の李王垠殿下。後に飯田中将に変わった。

○一期の検閲の後に通信中隊へ。

○昭和十五年六月二十九日、動員命令下る。

・芝浦から出港。揚子江を遡り、中支の九江でおろされる。
・ここにおろされたのは陽動作戦で、内地からまっすぐ目的地におろすと敵にばれるからだと聞いた。
・九江に四、五日いて、通過部隊の宿舎にいた。この宿舎は蔣介石が女子の軍隊を要請した粗末な兵舎だった。
・再び船に乗ると、今度は逆に揚子江を下り始めた。どんどん下って南支へ下った。

○昭和十五年七月二十六日、南支”ぶんちゅうざん”上陸。

・南寧を目指して歩く。
・当初昼間行軍した。もう暑いなんてものじゃない。毎日暑い。それを軍装して、大砲持ったり、軍馬を連れて歩いた。そうしたら兵隊が暑さでバタバタ倒れて、内地から連れて来た軍馬も死んでしまった。軍馬が死ぬと機関銃と大砲が困ってしまう。
・これじゃだめだということで、夜間の行軍に切り替えた。昼間木の下で休んでいて、夜暗くなって、十時か十一時頃、涼しい風がたつころ、冷たい水をいっぱいつめて出掛ける。
・出かけても、せいぜい三十分か四十分も歩くと暑くて暑くてどうしようもない。それで水筒の水をみんな飲んでしまう。
・内地から来たので、幸いまだ懐中電灯を持っていた。田んぼを照らしてみると、ボウフラが浮いている。誰が言うともなく戦友が、「あ、こりゃボウフラがいる。これじゃ敵は毒を流したりしていないからこの水は大丈夫だ」。のどがかわいてどうしようもないからみんなそれを飲んだ。
・そうしたらもう下痢で下痢で下痢で。猛烈な下痢で。しかし、予定がある。何日までにつかなければならない。
・どうしようもないから衛生兵に「何か薬をくれ」と言ったら、正露丸を五つぶくれた。「こんなに腹下りをしているのに五つぶの正露丸で治るはずがないからもう一粒くれよ」と言ったが、衛生兵はくれない。「部隊の人が全員腹を下しているのに、一人だけそんなにやることはできない」。正露丸を一回貰っただけであとはなにもなかった。
・そのうちに誰かが「消し炭を食べれば腹が治る」といいだした。それで食べてみたらものすごくのどが渇いたがそれで止まった。
・みんなお腹を壊したので、南寧で五師団と交代する予定が一週間くらいのびた。

○昭和十五年九月十三日、南寧到着。

・南寧について、五師団と交代して一週間ほどして、”きんけん”というところにつれていかれた。ここは最前線で、ハノイから”きんけん”街道を通って蔣介石軍に武器が運ばれていた。
・部落がちょっとあり、ほとんど五師団のおかげで治安はよくて、日本軍部隊が通過するだけだった。
・一個中隊百人くらいでその部落の所へ適当に入って休んでいた。家にはなにもなくて、土間へ雨戸を敷いて、その上へゴザをおいて、その上に毛布を一枚敷いて、その上へ毛布をかけて、背嚢を枕にして、鉄砲と鉄兜を枕元において、軍靴をはいたまんま寝ていた。
・ある日の午前二時頃、突然パパーンと音がしたと思ったら、私達が寝ているところの板壁へパパッパパッと弾が抜けて突き刺さる音がする。暗闇で、鉄砲を持って鉄兜をもって出た。
・出ると道路の前に広っぱがあって、その広っぱに敵が来ている。そしてそれが、敵か味方かわからない。寝ぼけ面なので何でも撃って来る方が敵だと思って、無我夢中でそっちのほうを撃った。
・敵味方入り乱れて朝方まで戦争が続いて、敵が逃げて、あとよく見たら敵は腕に白い布を目印に着けて、日本の兵隊はそんなことをしらない。弾の来る方へ撃ったが、友軍を撃ったのか敵を撃ったのか正直わからない。
・この時に六、七人くらい戦死したと思う。そして負傷した人もその三倍くらいでるから二十一人くらい負傷したのか。
・三百メートルくらい離れたところに小高い丘があって歩哨がたっていた。その歩哨の話によるとむこうから、ハノイのほうからどんどん四列縦隊になってきたらしい。ところがその晩は三日月だって、その歩哨が言うのに、四列縦隊で堂々と来るくらいだから敵じゃないだろうと、日本の兵隊が何かでむこうのほうからきたんじゃないかと、そう思って道路を来るのを見ていたけれども、一糸乱れず四列縦隊でたったたったきて、自分の前百メートルくらい近くへ来たらしい。よく見たけれども、日本の兵隊だか支那の兵隊だかよくわからない。もし日本の兵隊に撃ったら怪我をさせちゃ困るということで、その歩哨がみんなが歩いて来る百メートル手前くらいにバーンと撃った。すると、それが敵だったからすー
っとひろがっちゃって我々の方にやってきた。それだから歩哨が我々に知らせる余裕がなかった。
・それからは毎日じゃないけれど前線にいたから敵の攻撃を受けた。
・ここからまた広東へ撤退。
・中国軍が港から兵器を陸揚げするので、それを止めるため沿岸各地の港へ敵前上陸をして、そこへ破壊してきては広東にかえり、またこんどは違うところへいく。南海岸のあちこちを敵前上陸して歩いた。
・中国人は全部敵。気をつけないと。安心できるのは良民証をぶらぶらつけた人。そういうひとは一応大丈夫だけれども、一般の農家の人は日本の兵隊をうんと嫌ったから、うっかりいけない。昼間百姓をしていて、兵隊じゃないと思うと皆武器を持っていて、日本の兵隊が少しの数で近づくと皆やられちゃう。だからどこも敵地。支那の町を歩くときは決して油断はできない。
・支那人の家へ入るときは七人とか十人とかで、入る人が六、七人、入口に一人か二人銃を持って立っている。そういうふうに警戒をしないと、入口をふさがれてみんなやられてしまう。戦場だから。
・広東から転進命令が出て仏印へ。

○昭和十六年七月二十五日、仏印へ出発。

・海南島の三亜港をとおって、態勢を整えて仏印へ。
・仏印に行くときはまるで海の中に工場ができたようだった。日本の船が二列に並んで、その後ろ二列を海軍の駆潜艇がついて、空の上は飛行機が年中周っていた。
・サイゴンに着くと日本の兵隊は誰もいなくて、近衛師団だけだった。
・仏印にはいると間もなくサイゴンの港に内地から貨物船がやってきた。積荷はみんな軍需物資。燃料の入ったドラム缶とか梱包になったものとか、毎日毎日サイゴンの港に船が一隻ついて陸揚げが終わったと思うと、また船が入ってくる。それが毎日入ってきて、荷揚げを手伝った。朝から晩まで荷揚げをして郊外の椰子林の中に並べたらもうドラム缶がいっぱいならんでいて、その上に椰子の葉をかけて、ほかの一般の物資を梱包のまま置いてその上へシートをかけて、あっちにもこっちにも山がいっぱい。
・誰が言わなくても兵隊同士で、「近いうちに何かあるなあ」と話をした。
・荷揚げをするのと飛行場をつくるのがあった。サイゴンの郊外に飛行場を作る。今のようにブルドーザーがないので人力で、つるはしとシャベル、もっこでかつぐ原始的な仕事。
・日本の村長さんみたいな人に「使役を出せ」ということを伝えてあって、一人が二十人から三十人くらい使う。そして郊外のジャングルを切り開き、根っこの株をほったりかついだり。しかし言葉が通じないのでそれが大変だった。

○昭和十六年十一月半ば、どうにかして飛行場ができてきた。

○昭和十六年十二月一日、部隊がどうも動かねばならないから身辺整理をしておくように聞いた。

○昭和十六年十二月二日朝、起きると出発準備の命令が出た。

・出発準備だから、できるだけの準備をして、寝泊りをしたところは仏印の人達に笑われないようにきれいに清掃しろということだった。
・夕方になってやっと掃除がおわった。

○昭和十六年十二月二日夕方、出発命令。

○昭和十六年十二月二日夜、メコン河を渡る。

・工兵隊が門橋を組んで対岸へ送ってくれた。
・今まで市内にいる時には馬部隊だったが、仏印を出る時はみんな機械化されて自動車部隊になっていた。
・自動車を渡してもらって、自動車に乗って、それからカンボジアの平原を夜昼なしで移動する。
・一台に十五、六人くらい乗る。一人に一個、ビスケットの四角の缶を椅子にして座る。食事はそのビスケット。最初の間はお尻を上げちゃ、蓋をあけてそのビスケットを食べたけれども、一日も食べたら食いたくもなくなる。食事はそれだけ。
・運転手は二人で交代。車が止まるのはトイレ休憩と水分の補給をするだけ。全然休みなし。
・カンボジアの平原を、むこうのほうからこっちのほうまでずーっと日本の車がライトをつけて渡っている。車からのぞいて見ると都会ができたように、見渡す限りずーっとライトが見えて、後ろをみればずーっとカンボジアの平原をライトが続いていて、その光景は壮大なものだった。
・夜昼なしで走ってついたのがプノンペン。

○昭和十六年十二月五日夕方、プノンペン到着。

・体育館みたいな広い家へ入れられて寝た。

○昭和十六年十二月六日、この日は休みで、疲れを癒すためゴロゴロしていた。

・この時にパンフレットをもらった。表紙には南太平洋の島々の絵と「熱地戦をいかに戦うか」という題が書いてあって、三、四枚のホチキスかなにかで止めたおそまつなもの。これを読んでおけと言われた。読んでみたら、敵の陣地に突入して上陸すればこっちのもんだということが書いてあって、島へ入ったら前進あるのみだということが書いてあった。それを読んで一日ゴロゴロしていた。
・翌日も午前中は何もなくてゴロゴロしていた。

○昭和十六年十二月七日夕方六時頃、出発準備命令が下る。

・「できるだけ弾薬と食糧を用意しろ。我が軍はX日のY時に某国境を突破する」というような命令だった。
・さあ忙しくなった。弾薬を受領する人は受領する。ご飯の支度をする人はご飯の支度をする。そして夕飯を慌ただしく食べて、街の明かりがぼちぼち消える十時頃、プノンペンを出た。
・戦争がもうすぐ始まるということで、まっすぐ行くわけにはいかない。敵に見付からないように様子を見ながら、十分前走ったら思ったら止まり、二十分走ったらまた止まりというふうに。
・プノンペンから国境まで、二時間、三時間くらいかけて、ぼちぼちぼちぼち敵に気付かれないように、ライトを消して行った。
・すぐそばにタイの国境警備隊がいる。
・タイの兵隊は何できたのかと思っていたらしかった。
・0時になるまで待った。

○昭和十六年十二月八日午前零時、国境を突破。

・零時になると同時に、警備兵のところを目がけて一斉にダダダダダと撃った。
・タイの兵隊はあわててどこかに退がった。すると別のどこかから兵隊がきて戦争が始まった。
・撃ち始めたら、タイの町の明かりがパッパッパッパどんどん消えていくのが見えた。
・突破していって、朝方まで戦争が続いた。
・夜が明けてみると、タイの兵隊が持っている鉄砲が、菊の御紋章を消した日本の三八式歩兵銃。後で聞いたら軍縮の時代にタイへ売ったらしい。皮肉にもその鉄砲で撃ちあいをした。
・夜が明けたころ、停戦が決まった。戦っている間に夜を徹して外交官が交渉したらしい。
・今度はタイの列車を止めて、戦車はキャタピラでなくて鉄の車輪に変えて、タイの線路をのぼって行く。私達は自動車部隊でタイからマレーへ目指して行った。
・バンコクの競馬場へ入った。この時、今までは”南支派遣軍宮部隊”または”南方派遣軍宮部隊”と言っていたのが、編成替えがあって、近衛師団は第二十五軍の指揮下に入ることになった。軍司令官は山下奉文。
・そういう命令をもらったらすぐに出発命令で、その時には五師団と十八師団はマレーのシンゴラに上陸していたが、近衛師団はまだタイにいて、師団長もあせってタイを下った。
・しばらくして、モア河(?)という河へ行ったら、鉄橋がみんな落とされていて、自動車部隊はダメになった。
・ここで自動車を乗り捨てて、対岸へ渡った。渡ったのは歩兵だけで、後の戦車だとか砲兵は渡れない。
・待っていられないので、歩兵だけで敵を追いかけた。ところが、徒歩では追いつかない。イギリスの兵隊は全部機械化されていた。
・そこで誰が考えたか、土民の自転車を使うことになった。
・土民の家へ行くと、どこへ行っても二台や三台は日本の兵隊にとられないように、屋根裏なんかに自転車を吊るしておく。それを入っていって、一筆書いて、その紙と引き換えにその自転車をもらって、自転車部隊になった。それで敵を追いかけた。
・山下奉文は敵が逃げたらすぐに追えと厳命した。今まで支那にいる時には、戦争が終わった後は戦争掃除と言って、敵の遺棄死体がいくら、それから遺棄した大砲が幾門、機関銃が幾丁というようなことをみんな調べた。ところが今度はそんなことしていられない。夜昼なし。眠りなさい休みなさいという時間は全然なかった。ひたすらに敵が逃げたらすぐ追えという。
・だから皆眠くなれば眠る。腹が減ればそこらへんにあるものをなんでも食べるという具合で、それこそ食事時間とか休憩時間と言うものは全然なかった。
・支那にいたときには追送糧秣というものがあったけれども、マレー作戦が始まって大東亜戦争が始まってからはもうそんなものがない。全然。前線の兵隊に弾を送るのが精いっぱい。だから慰問袋なんか全然もらったこともないし、着の身着のまま。
・椰子林の中へ入れば、椰子の実を落として、最初は土民にとってもらって食べたけれども、そのうちにいつともいうなく誰かがのこぎりを用意していて、椰子の木をおっことせば、小隊で二十人も十五人もの人がのどを潤せるということで、のどがかわけば椰子の木を倒して水を吸ったり、それからパイナップルの畑に来ては、青いようなパイナップルを食べたり、何でも食べられるものは食べて戦争していた。
・南方の戦争が容易でなかったのは、毎日雨が降る。雨が降ると雨の跡は結局たまりがある。戦争して怪我をすれば、戦友は小銃の弾をよけるため、低い所の水たまりへ入る。そうすると戦友なんかは泥んこになってしまう。泥んこになった戦友に「がんばれがんばれ、傷は浅いぞ」なんていって手当てをしたが、それは親兄弟が見たら失神する様なむごいもの。
・イギリスの兵隊はある程度戦って状況が悪いと、すぐに怪我をした兵隊でもなんでもみんな乗せて、さっと後ろへ下がってしまう。ところが日本の兵隊は前進があっても後進はない。だから、大砲の弾がきて、「これは危ない」と思えば、後ろへ下がらなくて、弾が落ちるところより前へいく。
・自分たちが伏せていると、小銃の弾がブスッブスッと、ゴムの葉っぱなんかが音がして、身の周りに来る。その時は弾が近いということでそこにいちゃいけない。その時も後ろへ下がるのでなくて、弾が落ちてくるところより前へ前へ。そういう戦争をずっと常にやっていた。
・イギリスの兵隊は道路上にいて、椰子の木とかゴムの木をつぶして、それで陣地にして待っている。当初真正面からばっかりやったが、敵はなかなか退がらない。それでもって今度は、一方は正面で、もう一方はジャングルの中を入って横の方からやるというようにして、それで敵は横の方から撃たれるから恐怖を感じて逃げるという具合に、戦法を変えてジャングルの中をしょっちゅう歩いた。
・ジャングルの中を歩くのも大変。自転車を捨てて歩いてしまうと、次に戦争がはじまった時に困るし、そうかといって自転車をそのまま捨ておくわけにもいかないし、戦争が終わればまた取りにいく。そうしてまた自転車に乗って敵を追いかける。そんなような状況になった。
・分隊にHという兵隊がいた。この人はちょっと体が弱かった。それで敵を追いかけて行くのに、二百メートル三百メートルたつと、「Hいるかーぁ!」「はーい!」。またしばらくすれば「Hいるか」「Hどうか」と言えば遥か後ろの方から「はーい!」。「早く来い」といえば「はい!」といって来るが、なかなかみんなと一緒に体力的に続かなくてついてこなかったので、いつも気になっていた。
・その晩、やっぱり一直線の道路を追いかけていた時に、三日月の晩で言葉をかけるのをうっかりしていて、思い出して「H!」と言ったがいなかった。後ろを見ても横を見ても、他の人はいても、Hがいない。Hを追いてっちゃこまると思って、それから他の兵隊達を待たせて、一人でHを探しに、どんどんどんどんと日本の兵隊が来る中を「おーいHー!」と言いながら逆走して行った。
・道路の両側にはあちこちに日本の落伍した兵隊がいる。蚊が攻めてくるのでみんな天幕をかぶって、力尽きて丸まっている。それを見ながら、「H!」と叫んでしばらくいくと、「はーい」。「Hか!」「はーい」「H何をしてるか!」「分隊長、もう歩けません走れません。今少し休ませてください。今少し休めば行きますから」。
・「そんなこと言っている時じゃないよ。今日本の兵隊が下がっているからいいけれども、日本の兵隊が通り過ぎてしまえばお前たちだけがここに残っちゃうぞ。そうすると敗残兵が来たときに、おめえ一突きで突っ殺されてしまうじゃねえか。さあ行こう!」。気合をかけたら、嫌々ながら天幕から顔を出して、「行かなきゃいけないですか」「そうだそうだ!行かなきゃいかんだよ。一緒に行こう。さあ行こう。分隊長と一緒に行くぞ」。そうして無理矢理に連れて部隊に合流した。戦後、Hも無事復員して、「今の私があるのは分隊長のお陰です」と感謝された。
・マレー人はうんと好意的、特務機関が工作していたらしい。なんで日本の兵隊が戦争をしているかむこうの人は知っていた。大東亜共栄圏という言葉はしらないが、黄色人種は黄色人種で国を作ろうということで日本の人が戦争をしてくれているんだということが頭にあったらしい。
・イギリスの兵隊を追いかけて行けば、マレーの子供が大人が椰子の実をくれたりバナナをくれたり、いろんなものをくれた。うんと協力してくれた。だから私達は目指すはイギリス人と、当時は中国と戦争をしていたから中国人は敵に思っていたけれども、マレーの人は敵にも思っていなかったし、向こうの人もうんと協力してくれた。
・醤油とか米とか、支那人が食べる物は日本人の口に合う。日本人とほとんど同じ。マレー人の食べ物はからくて食べれない。だから支那人の食べる物をいただいていた。
・イギリスは圧倒的に近代化されていた。私達が椰子林やジャングルの中に入って、イギリスの兵隊にわかるはずがないのに撃って来るからおかしいなと思っていたら、マイクをつけていて、それで日本の兵隊の足音が分かると本部へ連絡して、それでもってイギリスは先に撃って来る。最初はどうして撃って来るのか不思議に思った。あらかじめ距離を計って置いて確実にそこに落ちる。だけれども、確実にそこに落ちる弾というのは本当は私達の方が有利。同じ所に落ちるということになれば、一発弾がおちたところをよけていけばいい。支那のほうは前へ撃ったり横へ撃ったりどこへ逃げていいのか分からないので、返ってそういう面では正確なイギリスの方が弾がよけやすかった。
・長いこと戦っていれば小銃の弾は高さが分かる。ピューンピューンというのは立って歩いても大丈夫なくらい。そうかと思えば、ピュッピュッと音がすればすぐ近くへ来ているから姿勢を小さくしていかなければならない。ブスッブスッと土や木の葉が動けば弾がそこに落ちているということだから、そこに長いこといては駄目。だからなにしろ前へ前へ。戦争を長いことすると自然にそういうことを覚える。
・南部のマレーにいってからは捕虜を集団的にとっていた。降伏したといって、百メートルくらい先で敵が手を上げるが、「おいで、おいで」とやってもこない。最初は「なんで来ないのかなあ」と思っていたら、私達が鉄砲をもっているからだった。彼らが手を上げて来たときは銃を土の上に置いて、「おい、おい」をすれば出て来た。
・イギリス人は戦っていよいよこれはだめだと思えば戦死した人も車に乗せて全部連れて行ってしまう。遺棄死体がない。
・イギリスの兵隊はターバンをまいたインド人が多かった。あれがまた強い。腰だめ射撃と言って、恐れたんだけれども、起ちあがってバババババとやるやつ。それが恐い。
・通信隊は本部と第一線部隊との連絡をとる。一つの分隊が第一線にいて、一つの分隊が本部にいる。だから部隊長のそばによくいっていて、命令を部隊長からとって、送信を兵隊にさせる。
・トツートツーの無線機。機密という書類が暗号文で、それはみんな数字になっていて、その数字に乱数表をたして答えが出る。書類は分隊長の私が持つ。
・弾が来る時は不思議に鉄兜は重くもなんともないが、普段は重たくてどうしようもない。なにしろ外したくなる。
・マレーの時はみんな七分袖のシャツみたいな軍服に階級章がついている。しかしこれがよくない。弾が来て伏せると薄いから腕が血だらけになってしまう。だからイギリスの兵隊の長袖の軍服を着ていた。

○昭和十七年一月三十一日、ジョホールバルに到着。

・シンガポールの島はジョホールから二キロくらいしかない。すぐそこに見える。今度はそのジョホールからシンガポールのどこへあがったらいいか、その晩偵察をして、砲兵は射撃をしてくれた。
・鹵獲したイギリスの小さい砲からでっかい砲から日本の砲からで、夜昼なしにシンガポールを攻撃した。湾岸戦争の写真よりもっとひどかった。
・上空は太陽がちっとも見えない。真っ黒い雲でどんよりしていた。
・普通大砲の弾が飛んでくると、ドーンドーンヒューヒューと音がするけれども、その音でなくて空の上はヴーと、何か台風が来る前兆の時のような音が、朝から晩までうなっていた。要するに日本の大砲と英国の大砲で撃ちあいをしているその音で、ドンドンでなくて空がうなりっぱなし。その時自分たち歩兵は何にもしなかったが、空の上を見て、弾は見えないけれども、「一つくらいぶつかりっこしねえかなあ」というくらい、空がうなりですごい音。うなりっぱなしですごいもんだった。そういうふうにして砲兵が上陸地点を撃ってくれた。
・渡河点を探した。どこへあがったらいいか。こっちの岸のそばに椰子の木が生えていたり、雑草が生えていたり。それを鉄兜の網につけて、眼鏡で見れば、二キロくらい離れた敵の陣地がすぐそばに見える。その中にイギリスの兵隊が銃をかまえいた。トーチカがたくさんあった。それをみた戦友が、「いやあシンガポールは頑丈だなあ。大変だなあ」というようなことを言った。そのくらいトーチカがいっぱいあって、敵が監視しているのがよく見えた。

○昭和十七年二月九日、上陸準備。

・昼間ご飯を食べて、二時か三時頃でかけた。
・でかけると砲兵陣地が順にあって、いちばんこっちにあるのがでかい砲で、だんだんだんだん海岸沿いにちっこい砲があって、二重にも三重にも点々と砲兵陣地がある。その砲兵陣地のところを通った。
・砲兵陣地は深く掘ってあって、下にゴムの葉っぱと枝が敷いてあって、そして敵を撃つ。何発か撃つと砲身があったまって、シュシュシュシュと湯気を吐くようになって撃てなくなる。するとそこの中隊で、射撃が一斉に止まる。止まるとみんな上から飛び降りる。そして今度はむこうから陣地目がけて弾がくる。そちゃすごい。撃ちっこ。
・敵が陣地のちょっと前を撃ったり横を撃ったり後ろを撃ったり。それが終わるとまた縄梯子を登っていって、それでまた日本の兵隊が撃つ。
・砲兵はみんな真っ裸でパンツ一つでもって、日の丸のねじり鉢巻きをして、汗ダラダラになって弾込めをして撃ってくれている。それでどんどん行ったら、「歩兵さん、がんばってくれ。俺たちが出来るだけ撃ってやるから」と声をかけてくれたが、皆返事をしない。気が重くて。敵前上陸をしなければならいから。
・まっすぐに行けないから、あちこちを通って、暗くなるころ岸に着いた。
・岸には工兵隊の船が草むらの中にうんとあって、「この船に乗るんだなあ」と思ったら何とも言えない気持ち。
・船が揃わないとみんな一斉にでかけられないから、乗船命令を待って、みんなが岸に寝転んで伏せていた。

○昭和十七年二月九日夜十時頃、乗船命令が出る。

・十五人か二十人くらいで乗る。ところが、鉄砲を撃つことが出来ない。ぎっしり乗るから。構えてなんてことが出来ない。だから鉄兜をかぶって、銃を持って、二人ずつ乗って座っている。敵が撃って来ても撃ち返すことができない。
・「出発!」ということで一斉に海へ出た。
・海は暗いと思ったら暗いくない。タンクが燃えている。それこそ海の上は昼間と変わらない。船が一そう一そう行くのがわかる。
・するとトーチカが狙って撃って来る。出発して十分か十五分たったら、なんというか、ジョホール水道は阿鼻叫喚。「助けてくれ!」とか何か言っているのが聞こえてくる。もうわいわいわいわい聞こえる。だけれども、それを言われても我々も自分らが助けることができない。
・幸いにも自分らの船には敵の弾が一発も当たることなく、むこうの木のマングローブに突っ込んだ。すると工兵隊は、「歩兵さん降りろ降りろ!」「降りてくれ降りてくれ!」と命令する。
・鉄砲を持って降りようとすると足がつかない。そこはマングローブの林でむこうもこっちも海だった。一晩中あっちへいったりこっちへいったりで、鉄砲を撃つことができない。マングローブを掴んでいないと沈んでしまう。
・一時も早く岸に上がらなければ何もできない。一刻も早く岸に着きたいと思ったけれども、なんとしても着かない。
・朝夜が明けて見れば、降ろされたところはマングローブの三角州みたいなところで、一晩中右に行ったり左に行ったり、あちこちに行って夜を明かしていた。

○昭和十七年二月十日朝、日本の飛行機が飛び始めた。

・日本の飛行機は仏印の飛行場から飛んでくるが、飛行場が悪いので夜は飛べないらしい。離陸は出来るが着陸はできない。そんなわけで夜は飛ばない。夜こんな時に日本の飛行機が来てくれればいいなあと思うけれども、できないから朝早く飛んできてくれた。手を振ったら、わかったわかったと翼を振って、前の敵の陣地に爆弾を落としてくれた
・そして、シンガポールの岸にあがった。
・幸いに乗った船に敵の弾があたらなかったからよかったけれども、ああなると運。
・敵が重油を海に流して置いて、私達の所へは幸いにも火がつけられなかったが、岸に上がった時、着物が全部重油でもってどうしようもなかった。そしてみたら、そこらへんにいっぱいイギリスの兵隊が死んでいる。とにかく油をとらなければいけないから、自分たちの来ていた軍服をみんな脱いで捨ててしまって、体を拭いて、イギリスの兵隊の背嚢をカミソリで切ったら、着替えをちゃんと持っていて笑った。日本の兵隊は着の身着のまま。中にはコンビーフもあるしハムもあるし、肉類の缶詰がいっぱいある。そしてイギリスの兵隊の軍服を着て、軍靴もイギリスの兵隊のを履いて、鉄兜と鉄砲と剣以外は、上から下までみんなイギリスの兵隊のものを着て、それから前進した。
・シンガポールという島は小さい島。日本で言えば四国くらいの島。そこへ日本の兵隊が三個師団、それに砲兵輜重兵があわさったらそ相当な兵隊がいると思う。敵の兵隊もいるし日本の兵隊もいると思う。
・中央のブキテマ高地(マンダイ山)をとれということで、それに集中砲火をあびせた。それこそ、椰子の木をはやしたのが丸裸に真赤になるくらい友軍が撃ったり敵が撃ったり、結局イギリスの兵隊が後ろへ退って日本軍が山を登って、今度は上から撃つ。
・十四日から十五日にかけては敵が絶対に退がらなかった。敵も被害があったかもしれないけれども、我々日本軍も被害が続出。敵もさがれないからものすごい激戦が続いた。

○昭和十七年二月十五日、パヤ・レバー(※Paya Lebar)というところに着いた。

○昭和十七年二月十五日午後八時頃、突然後ろから「敵が降伏した。戦闘停止」という逓伝が来た。

・ちょうど部隊長(※国司憲太郎連隊長)のそばにいて、それを聞いた部隊長は「この当面の最高指揮官は俺だ。なのにその逓伝はどっからきたんだおかしい」とまた返した。しばらくたってから、「今の逓伝は戦闘指揮所から来た」と返答があって、そうしたら部隊長が「やっぱり敵は降伏したか」と喜んだ。
・そうしたと思ったらあちこちで「バンザーイ!!バンザーイ!!」なんていって日本の兵隊の声が聞こえる。
・大砲の弾も機関銃の弾も、時々音がするけれども散発的になって、「敵が敗けたのかなあ。我々が勝ったのかなあ」なんて言っていたら、やっぱり勝ったということがわかった。
・喜んでいた時、敵の将校がありあわせのでっかい白い布を棒につけて、兵隊と通訳を連れて六、七人で来た。それで停戦の申し込みをした。
・話を聞いていると、部隊長がすぐに武装解除をして、パヤ・レバーの町の四つ角に全部兵器を集積して、日本軍が翌朝数えられるようにしておけと言ったら、イギリスの将校は大英帝国が敗けたということで住民が暴動を起こしたら困ると言った。部隊長は「そんな心配は無用だ。もし暴動を起こしたら日本の軍隊が鎮圧するから、武器は明日の朝六時までにパヤ・レバーの町の角に積んで提供するように」。するとむこうでも了承して帰って行った。
・戦争が終わったので、部隊長は「煙草を吸ってもよろしい。雑談をしてもよろしい。ただし、警備だけは気をつけろ」ということで、皆喜んで、敵が降伏したということで嬉しくて嬉しくて、男泣きに抱き合って喜んだ。
・そんなことをしているうちに、いつしか疲れて皆眠ってしまった。

○昭和十七年二月十六日朝、戦友に「おいおい起きろ起きろ」と起こされる。

・「敵がすぐそこにいるぞ!」と言われたので、びっくりして目を覚まして起きると、停戦になった椰子林の百メートル先に敵が急造の掘立小屋をつくっていて、椰子の葉をふいた兵舎になっていて、そこにイギリスの兵隊がいた。すかしてみれば、イギリスの兵隊が半分裸になって、歯を磨いたり、背中を流しているのが、椰子と椰子の間に見えた。
・後で「停戦命令が遅かったら敵の兵舎にぶつかって、俺たちの今日はなかったな。運がよかったな」なんて言い合った。
・戦争が終わった翌日から、一般の兵隊はシンガポールの町に入れなかった。なぜかというと治安を保つためで、一般の兵隊が暴力を振るったり、掠奪したりしたらいけないということで、憲兵隊だけしか入れなかった。
・後で歩いてみてわかったのは、シンガポールというのは本当に要塞の島で、横断歩道には銅版が埋めてあって、それを持ちあげれば楯になる。全島が要塞の町だった。海の中も三百メートル沖合まで鉄条網が引いてあった。マレー半島からだから上陸できたが、海からだったらダメだったと思う。セレター軍港も要塞。
・華僑はどこにでもいる。日本人街は粗末なもの。ところが中華街なんていえばそれこそ立派なもの。マレーにもスマトラでもいたるところにいる。そして中国人はすごく成功している。マレーでもゴム園を経営している人は中国人が多かった。シンガポールの華僑のいるところは立派なものだった。
・華僑は日本に敵愾心をもっているから、ほとんどいなくなっていた。支那人は漢字が書けるから門の前に「皇軍万歳」なんてかいて貼って鍵を締めていた。

○昭和十七年三月、スマトラ島鑑定作戦参加。

・スマトラ島も敵前上陸だったが敵の抵抗がなく無血上陸だった。
・戦そのものは限られた場所だった。
・トバ湖という湖があって、その湖から流れ出す河があって、そこにポルセア橋梁という橋が架かっていた。
・敵がその橋を爆破する前に確保することになり、本隊は陸からまわり、自分たちは湖をまっすぐに行けということで、夜に遊覧船の主人を起こして運転させて、一個小隊でトバ湖を渡った。
・湖をまっすぐ行ったので本隊より早く着き、土手に降りた。橋の両側にはオランダの兵隊がいた。
・ちょうど月明かりの晩で、土手の下に張り付いていると、オランダの兵隊はボートの音で異変を感じたのか、土手の上を兵隊二人が鉄兜をかぶって鉄砲を背負って悠々と自転車でこちらにやってきた。ひょいと飛び出ると、慌てちゃって、何も抵抗しないで手を上げて、二人を捕まえた。その二人の手をしばって、浜のほうへ引きずるして通訳を通じて様子を聞いた。
・話を聞いているうちにまた二人やって来た。前の二人が来ないから不審に思って見に来たらしい。また飛び出したら、何にも抵抗しないで手を上げて、あっという間に四人捕まえてしまった。
・そして様子を聞いたら、兵力がほぼ同じ六、七十人くらいだということが分かった。これはまごまごしていると、この兵隊が帰って来ないと戦闘準備をするから、早急にこの橋を確保するということで、草をでて橋の近くまで行った。連中はまだ戦闘準備をしていなかったからしく、それを幸いに撃ちこんだもので、奴らは慌てちゃって、それでも二時間くらい戦闘をしたら、奴らはどこかへいなくなっちゃって、そのうちに本隊がきて、橋を壊されずに確保した。
・そのことが司令官の耳に入り、賞詞を貰って、一年後そこに立派な公園が出来た。土民の人が作ってくれて、私達が招かれて行ったことを覚えている。賞詞の碑が立っていたが、戦争に敗けたので今現在どうなっているかはわからない。それが一番怖い戦闘だった。
・スマトラはオランダ人が統治していたが、オランダの人達は涼しいから高地のほうにいる。平地にいるのは土民ばっかりで、椰子を作ったり、稲を作ったり、ゴムをつくったり。
・上へ登れば日本と同じで松の林が生えていて、息をはけば白くなるような所にオランダ人は住んでいた。
・日本の自動車は登って行っても、最初の四十分位は坂を登れるが、そのうちに二十分くらいしか登れない。エンジンがヒーヒーいっちゃって。結局下からオランダ人が住んでいる上まで三時間くらいかかる。登って行くとオランダ人ばかりの西洋館ばっかりある立派なところ。
・スマトラ島のメダンにいた。
・スマトラは治安が良かったが、玉砕した地域の話を聞いて敵が上陸してくるんじゃないかという危機感は感じていて、沿岸防備をはじめたり、敵前上陸の訓練をまたやった。おそらく南方の他の島にやる予定があったのかもしれない。

○昭和十八年、十三年兵は除隊に。

・スマトラはボーキサイトがたくさん採れて、それを積んだ船がマラッカ海峡へ一隻きて、内地に帰る兵隊を余計に乗せて、誰も見守ってくれないで、スマトラからシンガポールまで来た。
・船に乗る時、「今度はいいな、内地から戦地に来る時は輸送船にはなんにも防具がなかったけれども、でっかい砲が前にもあるし後ろにもあるし、今度は大丈夫だな」なんて言って乗った。
・海軍さんの兵隊が四人いて、一人が分隊長で、三時間交代で面倒を見てくれた。機関銃が船首にあって、ほかにでっかい砲が船首と艦尾にあった。ところがそばにいってみると、網がかかって迷彩色にカモフラージュされた砲に遠くからは見えるが、杉の丸太を迷彩色に塗っただけだった。それだから帰るのをうんと心配した。
・海軍の兵隊は親船を沈められた人で、自分たちが南太平洋で沈められて恐かったことを私達に話す。ああだったこうだったっとか、「船は沈められたら三秒で沈む」とか「沈む時に船の中にあるものが飛び散って、それに当たって致命傷になった人がたくさんいる」とか「仏印沖にくれば潜水艦がいる」とか。そういう恐い話をするので、夜なんかおっかなくて寝られなかった。
・温かいところなので、みんな救命胴衣を着て甲板で眠った。
・いよいよシンガポールについて、五日ばかり船を待った。その時に湘南神社をみたり。


○昭和十八年十一月二十五日、教育召集。東部第六十三部隊に。

・召集令状が来て、「弱っちゃったなあ。また戦争に行かねばならんなあ」。
・甲府の連隊に行ってみると、演習場にはたくさんの兵隊や軍馬が徴収されていたが、営門の中に入ったら、奉公袋を持って来た召集の人がいなかった。そのうちに知り合いの少尉が入ってきて、「久しぶりだねえ。なんだい兄貴、召集されたのかい」と言うから「そうだ」と言うと、「僕もそうだけんど、どういうわけか誰もいないなあ」。また下士官が二人やってきて、全部で下士官が三人くらいに少尉で、それはみんな近歩四の戦争から帰って来た同年兵だった。
・結局それは十月に学徒が動員され、それを教育する為の召集だった

○昭和十八年十二月一日、学徒入営。

・その教育にあたる。
・実践的な訓練をしてほしいという話だった。いかに敵を攻撃をしたらいいかとかそういうことを話してくれと言われた。
・学徒が三月に前橋の予備士官学校に入るまで教育した。

○昭和十九年四月三十日、召集解除。

○昭和十九年十月二十二日、再び召集。甲府連隊へ。

・また召集。甲府の連隊に行ったら、「おい、おめえはどこへ転属だ」なんて言われて、「そうじゃない俺は召集解除になって家へ帰っていたらまた召集されたんだ」「そうか」。
・この時には本土決戦で戦々恐々。もう普通の演習でなくて、敵の戦車が上がって来たときに水際作戦であれだということで、いかに戦車をやつけるかというそういう演習になって、毎日砂を四キロ入れた箱を持って行って、リヤカーを戦車に見立てて走って行って投げて、いかに爆破するかという肉弾的な演習に変わってしまった。
・寝ても起きてもそれで、午前中戦車攻撃の訓練をしたと思ったら、今度は午後に兵舎の間引きをはじめた。空襲が激しくなって。兵舎の間引きが終わると、山に本土決戦の陣地を作りにいった。そして陣地を作るには潰した兵舎の材料を使った。
・兵器係もやったが、銃がなかった。当時の中学校の軍事教練で使っていた銃を引きあげて、それをもたしていたが、そんなものはどうしようもない。
・兵器廠から来る銃は床尾板もないし照尺もない、撃つだけの鉄砲で、帯剣の鞘は竹だった。「これじゃあどうしようもないなあ」とこの時思った。

○昭和二十年七月六日~七日、甲府空襲。

・この時は部下を連れて消火班になって、それで行ったが、街の中心部には火の手で行けなかった。うなって火が燃えている。しかも焼夷弾のなかに爆弾が入っている。焼夷弾を消そうと言ってよれば爆弾が破裂する。火を消す訓練もしたが、訓練をしてもどうしようもない。火の玉になって唸って燃える。しかも上から焼夷弾。空はまっくらになっていて、探照灯が二つ敵の飛行機を探していたがわからない。あれよあれよという間に、落ちた焼夷弾の火を止めるのが精いっぱいだった。

○昭和二十年八月十五日、玉音放送を聞く。

・みんな泣いた。雑音が多くて天皇陛下のラジオ放送がよく聞こえなかった。なかにはこれから戦争をやるんだというふうにとった人もいた。
・中隊に帰ってきたら、「皇軍としての節度を守るように、今後の行動については追って指示する」といわれたが、そのまま命令がなかった。
・夕方になって中隊長に呼ばれた。
・呼ばれたら中隊長が、「軍の無線も電話も使えなくなった。これからの軍の行動は軍司令部で直接取りに来るようにという命令だ」と言って、軍司令部まで命令を取りにいくように言われた。「私一人で行くんですか」「そうだ」「こんな重大な命令は私には荷が重すぎます」と躊躇していたら、中隊長は「貴様たるんでいる」と私の手を叩いた。
・夜の十一時何分だかの甲府発の上り列車に乗って、師団司令部へ行った。
・電車に乗る人は戦争が終わったからと言って、甲府から帰る人と、買出しに行く人で超満員。兵隊だから公用の腕章をつけて、フリーパスで入った。窓から降りたり入ったりして新宿へ行った。

○昭和二十年八月十六日午前四時頃、新宿駅に着く。

・降りたらみんな見れたものじゃない。ホームは屋根がすっとんじゃって鉄骨だけが残っちゃっている。
・新宿から歩いて師団司令部へ行ったところ、師団司令部では火を燃やして、軍の命令の書類を燃やしている。軍属や女の人達が目を真赤に腫らして、夕べから一睡も眠らずに燃やし続けている。
・師団司令部は青山の近くにあったが燃えてしまって跡形もなくなって、その近くの女学校かなにかの広場に、軍無線の通信は防空壕を掘ってそこにいて、焼け残った講堂を司令部に使って命令を出していた。
・ちょうど八時半になったら命令下達が始まった。
・みんなガリ版で印刷してあって、見ればみんな軍事機密って書いてある。その中に「陸軍大臣情報」、「陸軍大臣阿南惟幾自刃」そんなことが書かれていて、なんとも言えなかった。
・十二時頃までかかって、それをもらって帰って来た。
・新宿駅で電車を待っていると、飛行機が低空飛行で飛んできてビラを撒いて行った。それには「せんそうはこれからだ。国民銃をとれ」という趣旨のことが書いてあった。みんな拾って読んでいたら、憲兵が来た。ちょうど昼くらいに、二回くらい飛んで行った。
・そして復員業務が始まった。
・兵隊が帰って三日ばかりして、二階の下士官室にいた。兵隊も同僚もみんな帰って営内にのこったのは一人だけ。あと一人の下士官は甲府の近所の人で家へ帰って、昼間だけ来ていた。
・夜なんだかムズムズして眠れないからおかしいなあと思って電気をつけてみたら、部屋に南京虫がいっぱいいる。かゆくて眠れない。あしたここにいちゃだめだなあと思って、事務室の机の脚に、兵隊の茶碗に水をいれて四本脚につけて、毛布を何枚か敷いてそれで寝た。後でDDTをまいたりしてよくなったが、すごかった。

○昭和二十年九月二十七日、復員。


●復員時、陸軍歩兵軍曹。
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