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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
昨日、「2度目の山梨キャラバン」と書きましたが、1度目は大学生1人旅2012秋の一部となっています。
昨年メーリングリストに上がっていた証言概要を転載します。
大学生1人旅2012秋、11月4日(日)に、山梨県甲州市で伺った証言の概要です。

◎雨宮秀次さん(92)※旧姓・中村
取材日平成二十四年十一月四日
所属:歩兵第四十九連隊第三大隊~独立混成第十連隊第二大隊
歩兵
戦地:満州~大宮島(グアム島)
――――――――――――――

○大正九年九月二十三日、山梨県生まれ。

・東京の米屋さんに就職して一年半くらいいた。
・二人いた兄がみんな召集されて、男手がないから帰ることになった。
・青年学校へいったりしていた。
・徴兵検査で入営。

○昭和十六年、東部六十三部隊入営。

・686部隊。第三大隊第十中隊。
・甲府の部隊に一週間。ここではお客さんでいじめられもなにもしない。
・それから満州の国境近くの神武屯へいった。
・冬は零下四十度ですごいさむいところ。だから、ちょっとした鉄へ手袋をはめないでさわると、バッと手が張り付いて皮がとれちゃう。そういう寒さ。入浴して手ぬぐいを上へ投げてひろげると、そのままおっ立っちゃう。
・そこに三年いて、北安に移動。
・満州国の国境警備。
・普通の小銃隊。
・連隊に名誉旗中隊というものがあった。十中隊は当時大村大尉が率いていて、毎年開かれる銃剣術と射撃の大会で年次優勝していて、名誉旗をよその隊へ渡したことがないくらいすばらしい訓練を受けていた。
・すごい腕をもった曹長や准尉がいて、その人が指導するからうんと射撃も強かった。
・連隊本部に各中隊から選抜された何人かが出ていって、方々にある監視所へ派遣されていく。普通の兵隊は連隊の中にいて、年中戦争の訓練。
・初年兵のころから射撃と射撃を一生懸命やったので、銃剣術はうんと強くて三段、射撃は敵の将校や機関銃手を専門に狙う狙撃手に選ばれた。

○昭和十六年六月、独ソ戦始まる。

・祖満国境のブラゴエチェンスクのソビエトの軍隊が望楼で日本軍を監視していたが、寒い時に防寒服を脱いで後で立哨する兵隊に渡して、引き上げる兵隊は脱いで帰って行くという、祖満国境はうんと兵力がなかった。

○昭和十六年七月、関東軍特別演習。

・召集兵、補充兵がうんと入って来た。その時は関東軍の兵力がすごい数だった。

○昭和十六年十二月八日、大東亜戦争開戦。

・なんとなくアメリカと戦いが始まったんだということだった。
・どこと戦争をしても絶対に勝てると思っていた。そういう教育だった。

○昭和十九年、第三大隊に動員下令。

・北安の兵器廠から満鉄の貨物列車に乗って、防諜上の理由から真っ暗で、釜山まで来て、釜山に三日四日いて、それで糧秣だとかいろんなものを全部詰め込んで、船に乗った。
・この時に夏の軍服をもらったから、これは大陸に行くのでなくて、温いところへいくんだなあということがすぐわかった。
・釜山から出る時、輸送船には方々から人が集まって、八千トンの船に八千人のって、それに糧秣や弾薬を積み込んだから、船の赤線が見えた。
・瀬戸内海を通って横浜へ行った。瀬戸内海は旅行に行けば景色がいいところだけれど、軍隊でどこにいくか分からない時は景色どころの騒ぎじゃない。この時は制空制海権がアメリカにとられていることが大体わかって、アメリカの潜水艦が瀬戸内海に入っているということで、日本の駆逐艦が船のまわりを回りながら、爆雷を投下する。すると水圧で潜水艦が破裂してしまういということで、守ってもらいながら横浜へ着いた。
・横浜に二日くらいいた。四年兵だったので、「うまくすれば除隊になるぞ」「除隊命令がでるかもしれない」と思っていて、初年兵に「お前たちなあ、いつどこへいくか知らんけれども、内地の土を踏むなんてことは、また三年や四年ないから、内地の土を踏んでいこう」なんて冗談を言っていたが、結局そのまま出発した。
・二十一隻の船団だということを聞いた。その時先導していたのは巡洋艦だということもちょっときいた。それが全部南へいったけれども、途中でそれぞれが南の島へ行ってしまった。
・八丈島のあたりは波がすごくて、船がずーっと沈む時は谷底に下がったようで、上を見ると海水が山のよう。上にあがるときは山の上にいるよう。八丈島の沖は本当に波があらい。

○昭和十九年二月、グアム島上陸。

・「こりゃいいところにきた」と思った。うんと暑いということもなければ、寒いということもない。
・行った日からB29の爆撃があった。5・6機上空を飛んでいた。
・島へあがった時、海軍の兵隊さんが「陸軍さん、この島はねえ、近いうちに玉砕しますよ」というから、「そんなバカなことがあるか、世界に誇る関東軍の俺たちが来たんだから、玉砕などするわけがない」「そんなわけありませんよ、もうこの島には飛行機は一機もいませんし、飛行兵も全然いない。飛行兵が引きあげてしまう時は玉砕する島だから、絶対玉砕してしまいますよ」。後で実際にそうなったけれども憤慨した。
・糧秣は積んでいったまま。あとは補給がおそらくつかないから陣地を構築したりいろいろした。
・海岸線をスコップで掘っても、一晩行ってみるとサンゴ礁だから前に掘ったところがざらざらっと埋まってしまうようなところ。陣地を構築してもどうしようもないといったらどうしようもない。それを一生懸命トーチカみたいなものをつくったりして上陸に備えた。
・兵器がなにもないので、椰子の丸太を海岸に向かって重火器のようなものに見せかけて擬陣地を作ったりして生活をしていた。
・食べ物をもっていったけれども十分にはなかった。
・島民の空家へ駐屯して、それぞれ分かれて三十人ずつ、そこを守って警備をしていた。
・グアム島のハコヤというところ。
・アメリカの観光地なので、島を全体を一回りする様ないい舗装道路がある。そこを日本軍のトラックが年中周る。朝起きると、ジャングルを這いだしたカエルが、車に引かれてびっちりいっぱい死んでいた。それがすごい。
・うんと繁殖力がすごいカエルで毒があり、グアム島にいはヘビが一匹もいなかった。あとでそのカエルをだいたい食べつくしてしまった。ほとんど全部。
・スペイン系の外人がいて、日系の外人も幾組かいて、たしかチャモロ族が主だった。
・街なんていうものは全然なかった気がする。
・現地の人と話をすることはほとんどなかったが、兵舎のそばに一人太った女の人がいて、「俺たちとは年が三十歳くらい上だなあ」とおもったけれども、実際には十七とか十八で、その人がそばにいくとウンと青臭いというわけ、それはなぜかというと食糧がほとんど椰子の水を飲んだりしているから、体がそういうふうになってしまう。だか青臭い感じがした。今でも覚えている。

○昭和十九年七月ごろ、

・高い所にのぼってみると、島のまわり遠い所水平線上に、アメリカの軍艦がある程度の間隔を置いて島全部を取り巻いてしまっていた。
・「こりゃえらいことになった」と思った。本当に島全体がまるっきり取り囲まれてしまった。
・そうしてある日、B29が何機か高い所を並んで通った。これを一ヶ所だけあったか、日本の高射砲がものすごい撃った。パパパパと煙がたつくらい。それでも飛行機は高いところで、破裂する弾は飛行機よりもずっと後ろの方で、一つもその飛行機に対する命中なんかなんにもなくて、それでゆうゆう飛び去ってしまった。
・そうしたらその翌朝、まわりにいた船とグラマンが高射砲陣地へものすごい編隊でグワーッきて、高射砲が撃つにも撃たないにもどうしようもない。全部高射砲陣地をまるっきりいっぺんに叩いてしまった。その時から敵の飛行機がなんぼ飛んでも高射砲の弾は一発もあがらない。その一時で全部叩かれてしまった。どうしようもない。
・そんなことをしているうちにまわりじゅうから順に船が押し寄せてきて狭まって来た。今度は空から航空母艦から来るグラマンみたいな飛行機が、全部日本の陣地らしいところにむかって爆撃する。船から艦砲射撃で、島の形がまるっきりないほど、変わる程叩かれてしまって、島のまわりの椰子の木が全部綺麗にふっとばされてしまった。

・しばらくたったら敵が上陸して来たが、実際には知らなかった。この時は、所属していた中隊が解散にして重機関銃隊に配属なり、イリア川という小さな川のところにちょっとしたコンクリートで作ったトーチカみたいなものの中で守っていた。
・敵が上陸して来たのは、一日か二日たってから聞いた。それまで知らなかった。やたら叩かれていることは分かっていたが、知らなかった。
・大人が赤子の手をひねるような戦い。あの島にいた人は、ほとんど叩かれるだけで、抵抗する様なあれはない状態で戦い殺されちゃった。
・マンガン山に攻撃に行った人たちはほとんど帰って来なかったと聞いた。命があったのは重機関銃にまわされたから。生死の分かれ目はそこにあった。
・イリヤとハコヤに残っていた兵隊が三十人くらいいた。その兵隊が「ここにいたってしょうがないから、マンガン山へいいくんだ」といってトラックに乗った。
・まだ島民がいたので弾薬などを背負わせて、海岸沿いに行った。
・マンガン山はいけないから本田山を登った。行きながら暗くなって暗くなったら島民がみんなどっかにいってしまって、それで暗い中でじゅんに登って行った。
・途中でといっぱい兵隊が寝ている。「休んでるのかな」と思ってさわってみると、全部冷たい。そこで全部やられちゃったらしい。
・尾根を歩いていくと敵の迫撃砲でやられるから、谷をおりて行ったけれども、アメリカの音波探知機があって、動かなければなんともないけれど、動くと迫撃砲がボンスカボンスカくる。
・本田山を登って、夜が明けてみたら、山の平らなところに敵の戦車がものすごくいて、「これじゃあどうしようもねえ」と、山を下って、谷に来たら、川の中にびらん性の体が腐る毒ガスが撒いてあったらしい。日本軍が撒いたのかアメリカさんが撒いたのかどうしたのかしらないけれど、その中を歩いて来たから足が腐っちゃって溶けるようになってしまった。しかたがないから巻脚絆をとって、桑の木みたいな葉っぱがあってそれを巻脚絆でまきつけると、不思議なもんで溶けそうになった足が順に治って来た。川を渡った人はみんなそれを撒いた。それで腐らずにすんだ。
・本田山はまるっきり駄目だということで、春田山に「ここで最後でおしまいだ」と思って、抵抗線を敷いた。
・春田山に来たときは敵の空襲がすごい。
・将校は全部やられてしまって、中隊長の馬場中尉一人だけ。その人も一人だけ生きている責任を感じて、春田山にやってきた戦車に、手榴弾を持って「絶対に死ぬな、無駄死にはするな」と言って、敵の戦車に飛び乗りにいって自爆してしまった。
・「俺の死に場所はここかなあ」と思ったのがここだった。
・重機関銃だから小銃も体験も持っていなかった。そばに鉄砲を撃ったこともないような補充兵がいたので、「その鉄砲を貸せ」といったらすぐに渡してくれた。一人でも敵が入ってきたらぶち殺さないと死んでも死にきれないから、見えない敵の方向ににむけて撃っていた。
・重機関銃の射手が撃っていたら反撃がものすごくて、その付近にあったジャングルの木や枝が全部折れて、それが上から落ちてきてかぶさって、身動きができなくなってしまった。もう撃つこともできないから、敵も全滅して死んじゃったと思って引きあげてしまった。それで命拾いした。
・それからジャングル生活が始まった。もう命令系統もないし、負傷した人もあるけれど、みんなそれぞれ、一緒にいた兵隊が、三人か五人くらいでまとまってジャングル生活がはじまった。
・ジャングルにはいってから毎日毎日敵のジャングル掃討がすごくて、それこそそっちでもこっちでもバリバリバリバリ年中アメリカさんが掃討するわけ。それで生き残った者も順に順にやられて、その付近のジャングルで皆死んじまう。
・なにしろ大勢いると、五人も六人もいると、どうしても咳もするし、小さい声で話をするようでも、話が聞こえる。するとアメリカさんのほうには音波探知機が優秀だから、ちょっと音をたてても聞こえるわけ。それで最初のうちは五人か六人で一かたまりにで行動していたけれども、そういうふうにしていると、どうしても敵にばれる。それで三人くらいのグループを作って生活していた。
・最初のうちは毎日のように決まってスコールがくるから、サンゴ礁のようなものだけれども、洞穴みたいなところがあちらにもこちらにもあって、その中で生活をしていた。けれども、そういうところには島民がうんと日本に反感を持っているから、反感を持っているということは日本の憲兵が目をつけていた島民を何十人かを洞窟の中へいれて処罰してしまったらしい。そういう洞窟なんかにいるとやられるから、木の下にいるとかしていたけれども、同じところにはいられない。ジャングル掃討がはげしくて、どこに敵の陣地があるかわからない。毎日のようにバリバリ音がして順に順にやられていく。だからそこに二日いたら他へ移動する、またこっちへ移動する。うっかりすると敵がすぐそばに移動するわ
けだからわからない。それでもなんとかかんとか生きのびて生活をしていた。
・三人で洞窟みたいなところにいた時、一緒にいた人が一人だけ「俺は今日なんだかあんまり行きたくねえから」
・食うものと言えば温かい所だから一年中青いものが、この辺ではわらびみたいなものが生えているからそういうものをとったり、キノコを採ったり、そういうことをして食えるものはなんでも食った。人間に食うものに一番近いものといえば、島民が作っていたカボチャの葉っぱや新芽がでていれば摘んできて、茹でて食ったり。
・水は年中スコールがある。ジャングルの中には敗残兵の鉄兜がいっぱい転がっているから、その鉄兜の穴をふさいで、水をとるようにして、タコの木という木があって、長い葉っぱが全部上を向いていて、それで水がうんととれるから、そこに鉄兜をそっちにもこっちにも置いて水をとっていた。
・寝るものといえば敵の陣地から拾ってきた。弾薬を入れといた金物を水をためて、それでとって来た野菜なんかをゆでたりして生活していた。
・まず一番先にカエルがいれば常食みたいにすぐ殺して、血管があれば毒があるから、そのカエルを生半可で食べると振えて困る。それでよく水が鉄兜をしかけてあるから、それでよく洗って焼いて食べたり。
・最初の内は光るカエルには毒があるといわれていたが、食ってしまえばなんということもなくうまい。慣れてくれば何を食べても大丈夫だということ、食わない物はなかった。
・パンの実は生で食べると渋くて食えなかったが、それを焼いて食べていた。最初は焼くとパーンパーン音がするので、栗を剥くように傷をつけて音がしないようにして焼いて食べた。
・ある日、黄色いキノコが生えていて、それをゆでて食ったら、体が震えちゃってどうしようもない。「こりゃあ毒だから、これは食わんほうがいいぞ」となって、ジャングルでエサを探してウロウロしている人に会うと、「この黄色いキノコは食うな、食うと震えて駄目だぞ」と話をしては、なにしろまだ戦争に勝つつもりだから「日本軍はいつ応援に来るだろうかなあ」とか「お前んとこは今なにを食っている」とか、まず一番の話と言えば、食っているものと、日本軍がいつ応援に来てくれるかということ。そんなことをして生活していた。
・敵のジャングル掃討の様子もわかってきて、ここらだったら三日いても五日いても大丈夫だということがわかってくるから、ちょこんとした木をわたして、タコの木の葉っぱをまいて、木の皮で編んで、それを敷いて寝れば土に寝てるよりは少しはいいから、それを寝床にして寝て、屋根も木の皮で木を渡して、スコールが来ても濡れないようにして、それでそこに三日や四日生活して、またそこが危ないなあ、ジャングル掃討がすぐそばまで来てるなあと思えば他の所に移動して生きていた。
・味をつけるのは野生の南蛮、それを水の中にいれればうんと辛い、辛いからうまさを感じるようになる。そんなことをして南蛮をとって持ち歩いて生活していた。
・ジャングルにはいっぱい死んでいる。歩いていれば臭いで分かる。
・千葉県の兵隊さんが中にて、海水を煮詰めれば塩をとれるということを教えてくれて、海水をとることを覚えた。波が荒い所の方が塩が濃いということも聞いたから、敵がジャングルの中に張り巡らした連絡用の電話線を切ってきて、鉄兜の穴があいているところに結わえつけて落ちないようにして、そうして海の中へ投げ込んで、くみ上げて煮詰めて塩をとる。
・塩をとるのも決死的で、暗くなるときにジャングルから出て、海岸線はリーフだから木もなんにもないから、強硬にそこらにあるサンゴ礁の岩みたいなものをまとめて、かまどみたいなものを作って、転んでいる鉄兜で海水を汲んで、年中音のしない飛行機がジャングルを捜索するけど仕方がない、強行突破でうんと火をもやして、鉄兜を十個くらい並べておいて、順に水を移して、敵がいつ入ってきてもいいように、こっちは水、温かい、これは熱い、これは煮詰まっているもの、一番最後のほうは塩の形がみえるようにして、夜があけないうちにジャングルの中へ逃げ込んだ。塩をなめればにがいけれども、その塩をとって生きていた。
・敵は夜のうちに飛行機で見ているので、遅くなって夜までいればやられるし、夕方だって早くいけばやられるし、夜中の仕事だから、ちょっとわからないで幾人かで行った人がみんなやられているから、塩の取れるところは日本兵の死体がゴロゴロしていた。
・海岸線を歩くと、リーフなので雨が下にしみ込まないで残っているやつもある。そんなのもすすったり。そういうことをして水分補給をして生きていた。
・着るものは順にボロになっちゃって、それでも一年半くらいだから着ているもの最後まで来ていた。敵が上陸して来る時に、新しいものをもらっていたので、新しいからシラミがたからなかった。
・編上靴でリーフを歩くと、サンゴ礁だから白くかげる。すると島民が日本の敗残兵がいるとわかって、すぐにアメリカに報告する。だから編上靴をはかないで、敵の電話線を切って子供のころに父親が作っていた草履をこしらえて、それで歩いていた。
・ジャングルで糧秣を取りに、戦車道路を横切るときは、人間が歩いていたことがわからないように、草をもとに戻してから渡る。うっかりそういうことをやらなかった人はやられちゃう。
・ジャングル掃討が年中。アメリカさんは命が惜しいから、遠くからパンパン撃ちながら来る。周りじゅうを囲んでしまうと味方に当たるからどこか一方が空いている。ジャングル掃討がはじまれば、こっちからくるからこっちは大丈夫だなと分かって、
・近くでバリバリと音がすれば、鉄砲も鍋の代わりに使っていた弾薬入れも、なんでもかんでも置いてきてしまった。
・最後の方は鉄砲を持っている人はほとんどいなかった。帯剣も音がするから鞘がなくて抜き身。身だけ腰にさして、自決用の手榴弾を一発だけもって、落っこちないように電話線でかたーく縛って腰につけていた。
・ジャングル日記と言って、海軍記念日とか陸軍記念日には日本軍が取り返しにくるとか、その日だけはちゃんと覚えていた。
・爆撃機が何十機も編隊を組んで北に向かう時は、「通信ができれば日本へ今向かったぞと連絡ができるのに」と口惜しく思った。
・戦闘機がうんとグアム島の上を激しく舞う時は、「日本の艦隊が近い所にきているぞ」とジャングルの中で会う人に話したり。
・あるとき飛行機が飛んできて、グアム島の島全体から照空灯で照らしていた。それをみて「日本の飛行機が来ているんだけれども、照らされてかわいそうだなあ。早くどっかに消えればいいなあ」なんところを考えていたら、それはアメリカの防空演習だった。

○昭和二十一年、鉄砲の音がしなくなった。

・飛行機と春田海岸を船で波のおだやかなところを年中通っている。
・戦争がおわったぞ。戦争がおわったぞとアメリカの日本語の上手い者が呼びかけるが、そんなこと誰も信用しない。飛行機はビラをまく。
・戦車道路は装甲車みたいな車が日本軍の皆さん戦争は終わりましたよと年中呼びかけている。
・行けば、捕まれば、絶対に殺されると、絶対出ては駄目だと、時おりジャングルで仲間と行き会っては「アメリカさんが嘘をいってるから駄目だぞ」。そんなわけで出る気にはさらさらならない。
・大学を出た英語をどんどん読める人が敗残兵にいた。それがたまたま敵の陣地を通って英語の新聞を拾ってきて、たまに行き会って話をすると、「その大学生は戦争が終わったと言っているぞ」ということで、天皇陛下の玉音放送がながれたとか、日本が九月幾日に終戦をしたぞという話を聞いて、「それじゃあ敗残兵に見せる新聞じゃなくて、アメリカの新聞にでているだから嘘じゃねえらなあ」。それでみんなで集まって相談して、出る、出ないでいろんな話があった。
・三十人も集まれば、「これで戦争がおわった」という人もあるし、中には「そんなものは騙されるから出ては駄目だ」という人もあるし、そんなことでわかれて、ジャングルに残るという人は「出れば出ろ、出たら居所がわかるから、てめえのこと後ろ鉄砲でぶっ殺すぞ」と揉めた。
・そんな中で、富士山のほう出身の人と、山梨市出身の人が二人、元気のいい威勢のいい人が、「俺たちが犠牲になって出て行ってみるから、もし俺たちが帰ってこないで、捕虜になって殺されちゃったら、日本がくるまでジャングルにいろ」となった。
・アメリカがビラを撒いて、上半身裸で、服を全部脱いで、手を上げて戦車道路を歩いて出てきなさいと年中言っているから、その二人が出て行って、待っていた。
・三日ばかり経ったら、その二人が、パンだとか米だとか味噌だとか肉だとかえらいおみあげをもらって帰って来た。それじゃあ行った人が帰って来たんだから間違いないということでみんなで出て行った。
・出て行ったら、日本の佐藤という参謀が、車の上で「日本の皆さん、長いことご苦労様、残念ながら戦争は敗戦してしまった。ジャングルから出てきなさい」と放送をしていた。
・その時、みんな自決用の手榴弾と抜き身の帯剣を持っていた。佐藤参謀が放送していても半信半疑。もしアメリカさんがバリバリときたらていこうするつもり。
・アメリカの兵隊が二人と佐藤参謀がでかいトラックで待っていて、銃をおろして悠々と「カマン、カマン」と車に乗れと言う。それで収容所に行った。
・収容所に行ったらすごいアメリカの兵舎があって、信号までついていてびっくり。
・収容所はきままな生活ができた。映画も見せてくれるし、休みの日には演芸会を各幕舎でやったり。
・PWを背中と腕と足に書かれた新しい服をもらって仕事に毎日いく。仕事先にいっていろんなものを持ち帰った。ビールの倉庫へ行った人はビールを袖のなかにいっぱいいれて背負い込んできて、夜になってみんなで飲んだり。収容所はおもしろかった。
・駆逐艦の「桐」がむかえにきて、イロハ順で名前を呼ばれて乗船。

○昭和二十一年十一月二十一日、三浦へ上陸。

・上陸して収容所に入った。
・新聞を見たのか家族が会いに来てくれてびっくりした。
・千葉出身の召集兵の人は、収容所を抜け出して、そーっと家の様子をみてきたら、お嫁さんが弟と結婚していて、それで帰って来た。
・二階級特進で曹長の階級で葬式をされていた。同じ村から四人グアムに行って三人死んだ。
・村葬を含めて、お葬式を三回。
・白木の箱の中には「陸軍曹長中村秀次之霊」とかかれた木切れが入っていたと親戚から聞いた。
・自分の墓標が立てられていて、自分で担いできて燃やしちゃった。
・横井さんとは部隊も場所も違った。先に出て来た伊藤さんはたしか同じ部隊だったんじゃないか。

●終戦時、陸軍伍長。
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