FC2ブログ
あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
メーリングリストに、今年になって最初の証言概要が上がってきましたので転載します。
岐阜キャラバンが12月19日(水)に伺った証言の概要です。


◎和田昇さん

取材日 2012年12月19日

生年月日 1923(大正12)年7月1日
当時の本籍地 岐阜県

陸軍
兵科など 航空(機上無線)、陸軍少年飛行兵(10期) 
所属部隊 第4飛行師団司令部、臨時野戦第2補充隊

1940(昭和15)年4月 東京陸軍航空学校に入学(第5期生)
1041(昭和16)年4月 熊谷陸軍飛行学校に入学(少飛10期生)
 操縦士としての訓練を受けていたが、実施教育の演習中に手の怪我をして1か月休むことになった。
 この時機上無線への転科を進められ水戸陸軍飛行学校で教育を受ける。

1943(昭和18)年1月 満州・斉斉哈爾(ちちはる)の独立飛行第53中隊に赴任
1943(昭和18)年8月 満州・佳木斯(じゃむす)の第4飛行師団司令部に転属
〇「司令部偵察隊はどうか」と聞かれた。良く分からないので「お任せします」と答えると転属が決まった。「初の偵察下士官だ」と言われていた。
〇部隊で使用していたのは100式司令部偵察機(新司偵)
 偵察将校たちは毎日国境を越えソ連領内に入って写真を撮っているようだった。
 ウラジオストックの東にある飛行場群が対象で、毎日連続写真を撮ってくる。
 毎日見ていると各飛行場が所有している飛行機の種類や台数、飛行場群の役割分担が分かってくる。撮った写真は大本営に直接送っていた。
〇国境を超える時は高度を取るように言われており、場所ごとに射程距離に入らない高度は把握していた。
 また越境する時は直線で飛ばないよう大回りをしていた。
〇自分自身は国境を侵入した事は無い。
 主に参謀に付き添いその機上無線の仕事をしていた。

1944(昭和19)年5月 第4飛行師団がフィリピン・マニラに動員下令
〇バシー海峡を蛇行して走行、私は飛行機の経験があり大丈夫だったが、皆船酔いが激しい。トビウオが水面近くを飛ぶのが魚雷と見間違えられる。
〇マニラ港では桟橋に遺体がゴロゴロしていた驚く。
 海に浮いた遺体を集めたものだった。

特攻の無線受信
〇ある日「身体を清めて集まるよう」命令が出た。「無線を受信しろ」と言う。
 これが最初の特攻だったと後から分かった。当時は特攻と言う言葉も知らなかった。
 特攻機は存在を知られてはいけないので突っ込む瞬間以外は無線封鎖され沈黙の飛行機。
 偵察機から何時にどこどこを通過と入ってくるのを受けた。
 この後何度か同様の任務はあったが、特攻隊員の無線を直接受けることは無かった。

1945(昭和20)年3月 臨時野戦第2補充隊が編成される
〇当時部隊はマニラからエチアゲに避難していたが通信士、内務班長などが一堂に集められた。
 外からも飛行師団の色々な兵隊が集められていた。
 参謀長がこの時初めて戦況を説明、野戦補充隊の編成(40ぐらい編成された)を告げ、バレテ峠で米軍を1日でも食い止めるように言われた。
 すーっと肝が冷える感じ。

同年同月 バレテ峠へ
〇峠に着き「金剛山」に掘られた壕に荷物を残して最前線へ向かった。
 荷物の見張りに既婚の召集兵を残したのは気遣いだったが、彼はひとり残るのを淋しがった。
 やがて爆撃で壕が崩落し彼は戦死したと聞いた。
〇”妙高山”に壕を掘って敵を迎える準備をする。
 自分は軍曹で分隊長だったが一番年下で、そもそも少飛出身者は周りには一人きり。
〇敵情偵察のため斥候に出て右下腿に砲弾の破片が貫通。
 中隊長には「ご苦労やった」「しかしこれからが本物の戦争や」と言われた。
〇砲弾が来るがそれこそ雨霰で何百発と来る。
 2~3mおきに1人ずつ蛸壺を掘ってその中に隠れ手榴弾を谷間に向かって放り込んだ。

 砲弾が頭の上で炸裂して、その破片が蛸壺の中に飛び込み左足の付け根に突き刺さった。

 焼肉のような臭いがして、熱さと痛み。破片は手で引き抜いて蛸壺の外に放り出した。

〇本隊に合流せよと言う命令が出て、朝暗いうちに壕を出て、歩けないので這うようにして山を登る。
 銃声が3~4発聞こえて一等兵が即死したが、土というか落ち葉をかぶせただけで進んだ。

1945(昭和20)年4月24日(おそらく)
〇鉄帽で穴を掘って蛸壺を作りその中に潜む。
〇今日が最後の決戦と思われたので、暗いうちに起きて、励ますために部下の蛸壺を覗き話し始めたら、落ち葉がピシャッ、ピシャッとビンタをとられるような音で鳴って一斉に砲撃が始まり背中に砲弾の破片が突き刺さって気を失った。
 部下が元の穴の中に入れてくれたんだと思う。
〇気づくと弾がすべて自分に向かってくるように思える。
 鉄帽で身体を隠して守ろうとするが上にも下にも鉄帽が何個も欲しい感じ。
〇蛸壺の中で一人、砲弾がどこに止まっているのかも分からない。
 「死ぬ、死ぬ。死ぬ」と思い涙が出て、言葉に出来ない悲しさ、寂しさ。
 ところがお昼前になっても死なないので、今度は「生きられるかもしれない」「生きたい、生きたい」という気持ちが湧いてくる。
 そうすると空中勤務者としての自負心が出てきて、空ならともかく「こんな穴の中では死にたくない」と思い出した。
〇穴の外では夜が明けて、どんどん死んでいっている。
 自分は夕方まで放置されて穴の中にいた。

〇あたりには重傷兵が泣き、わめき、痛がり、転がっていた。
 小隊長だった学徒兵の少尉が気が狂ったようになって駆け回っていた。
 これらの者がおってくれたのでは邪魔になるという事だったろうと思う。
 彼らを連れて夜にどれだけでもいいから下がれる者は下がらせろと命令が出た。
 自分の小隊の小隊長から軍用通信紙に書かれた命令書が渡された。
〇重傷者は本来一人で下がれるような力はなかったが、1歩でもいいから下がれという事で叱咤しながら下がる。
 下がると言っても曳光弾が後ろから追いかけてくる。
 大きな木々が砲弾で倒れ道をふさいで乗り越える事が出来ない。
〇足首から切断された兵隊が「班長どの、連れて行って下さい、連れて行って下さい」 と懇願する。とりあえず近くの穴に入れ2~3時間後に戻ると、土の塊が胸の上に落ちて絶命していた。
〇20~30人で下がって下がりきったのは10人ぐらいだと思う。
〇4月25日の夜、分隊の兵隊が蛸壺に凄い形相で顔を突っ込み、米軍は戦車で進んで来て中隊が全滅した事を告げた。

山中を移動
〇観測機が飛び回り場所を修正しながら爆撃してくる。
 指で胸を付けばひっくり返るほどの体力では、生きたいとか死にたいとかが無い。
 俺はどうでもいいと気力がなくなり、寝たら最後あの世行きの者も多い。
〇ぺんぺん草や春菊を食べる。
 キャンガン近くで稲穂の詰まったニッパハウスを見かけた。
 自分も他の飢えた兵隊も寄って行ったが、佐官級の将校が軍刀を振るい追い返された。
 第4飛行師団司令部のエチアゲ残存部隊が移動してきたものだった。

1945(昭和20)年敗戦後
〇砲弾が来なくなり、会う兵ごとに「戦争が済んだらしい」と風の便りがあった。
〇川の中を食べ物を探して歩いていると、小さな子供が「兵隊さん、兵隊さん」と呼ぶ。横にお母さんの腐った遺体があって離れられないようだった。
 靴下に入れて腰にぶら下げていた拾い集めたモミ投げ渡した。
〇乞食のような恰好をした女性が膝にしがみついて米をくれと言う。
 マニラで食堂をやっていた女性。
 即座に断ったが膝にかじり付いたまま離れようとしない。
 仕方なく少しモミをやった。
 互いに無事に帰れたらと住所を交換したが、のちに復員したら、彼女が伝えてくれたらしく実家では私が生きているのを知っていた。
〇キャンガン周辺で食料を探し回っていた兵士が集められ、木や人骨を取り除いて道を作った。
 何のためか知らなかったが、山下司令官が投降するための道だったらしい。
 
1945(昭和20)年9月18日ごろ 米軍に投降
〇指示系統はなかったが、山下司令官が投降したことで堰を切ったようにキャンガン周辺の兵士は投降した。
〇キャンガンの小学校で裸にされ武装解除
 DTTをかけられてPW(prisoner of war)になった。
 組み立て式の寝台を一つずつ渡されて線路を収容所まで歩いたが、寝台が重くて歩けない。
〇収容所では最初は4オンスの粥が出された。量を増やしたくて水を足して食べたが、飢えた体には健康食はよくないという配慮だったらしい。
 のちにレーションになった。
 収容所に蛇が出ると皆で寄ってたかって襲い、引きちぎって食べた。
〇泥棒が横行しており、作業をして帰ると、「私は泥棒です」と札を首にかけて箱の上に立たされている者たちがいた。
 同情して見ていたので「どうせ“バンザイ組”がやらせたのだろう」と言っていた。
 “バンザイ組”は敗戦前に投降した人たちで事務所員などをやっており、栄養状態も良く、一般の兵からは偏見の目で見られていた。

〇エンジニアだと言う事で一般の使役ではなく自動車の修理工場で作業に当たった。
 戦争中に使ったトラックや自動車の解体作業で、フィリピン人4~5人にPW1名が組にさせられたが、フィリピン人に「泥棒」とか言われて「何この野郎」と喧嘩が絶えない。
 フィリピン人は勝ったと思っているし、日本人も優越感が抜けないし、日本人だけで組ませてくれたら何倍も能率が上がると願い出たが、「フィリピン人に日本の技術を提供するためだ」と米兵に言われた。
〇慣れてくると工場の隅にあるステンレスを使って昼休みに指輪などを作った。
 タバコ2箱ぐらいや缶詰4~5缶と交換できる。
 黒人兵は白人兵の目を盗んでどんどん作ってくれと注文してきた。
 (※ご自分用に作った指輪を一つ持ち帰っておられ拝見しました)
〇体が戻ってくると“光明座”というガラクタバンドを作ったりした。
 
1946(昭和21)年12月14日 マニラ出航
1946(昭和21)年12月24日 復員(名古屋港へ)
スポンサーサイト



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://senjotaikenhozontabi.blog2.fc2.com/tb.php/1163-dd357b57
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック