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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
岐阜キャラバンが12月20日(木)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。


◎田中秀啓(しゅうけい)さん

取材日時 2012年12月20日

生年月日 1923(大正12)年2月10日生

陸軍
所属部隊 南方第12陸軍病院
兵科 衛生兵

1944(昭和19)年1月 南方第12陸軍病院(マニラ)に入隊するため広島に集合、現役兵
 兵隊は好きではなかったが行くものだと思っていた。
 初年兵受領をする兵隊がマニラから来ていた。
 10隻ほどの船団で宇品出航、高雄経由、魚雷や爆撃を避けジグザグ運転をしたためマニラに着くのに1か月かかった。
 乗っていた船(長城丸)はこの後ミンダナオへ向かう途中魚雷で沈んだ。

○バギオで3か月間の歩兵教育。
 歩兵部隊に預けられていた。
 すでに戦況が良くないことを知っていたので、行進や敬礼の訓練など。
 実戦力にはならない馬鹿な事をするなと思っていた。

○陸軍病院で5か月間の衛生兵としての教育
 注射の方法や包帯の巻き方、止血方法、脈の見方、薬の知識など。
 軍隊で役立つことは殆ど習わなかったがこれだけは役に立った。

○南方第12陸軍病院庶務課に配属
 庶務課には“お寺さん”が多かった。
 毎日病棟に今日亡くなった人のチェックをして葬儀を行う。
 各葬儀はその病棟の看護婦長、衛生下士官、将校など5~6人で行い、特に階級による差はなかった。
 それから遺体をマニラ郊外の火葬場へ運び、前日のお骨を貰ってくる。
 半年に1度ほど合同慰霊祭があり、その時は病院長(中将)以下皆が出席した。
 一等兵だったが、お経をあげるので中将と並んで真ん中に座っていた。

1944(昭和19)年12月末 病院はバギオに疎開、残務整理のため200名ほどが残った。

1945(昭和20)年1月末 マニラを夜中に脱出
 日本軍の工兵が既に橋を落とし始めている中を急遽脱出した。

バギオを目指していたが爆撃が激しく山中に入る事に、アリタオ~バガバッグ辺りからだと思う。
〇サリナスの森でロッキードの空襲を受けた。
 ガソリンの入ったドラム缶を落とし(※ナパーム弾か)、ジャングルが火の海になり鉄兜もかぶれない。
 図嚢を頭の上に乗せて逃げ惑うだけ。
 隣の兵は頭がザクロみたいに割れて脳が飛び出していた。
〇グラマンに追われた事もある。
 この時はマラリアで40度以上の発熱でニッパハウスで寝ていた。
 機銃掃射を受けて防空壕に逃げ込んだが、50キロ爆弾が近くに落ちて防空壕の土が頭上に落ちてきた。
 もとの小屋に戻ると自分の毛布に幾つも弾の穴が空いていて、枕元の編上靴が撃ち抜かれていた。
 この後は投降までずっと裸足で過ごすことになって仕舞った。
〇部隊は内科診療長だったT少佐が隊長だったが、お医者さんで戦争に慣れている訳ではない。
 部落で薬をやるから何かを持ってくるようにと自分の居所を教えて仕舞い、ゲリラに襲撃されて戦死した。
 
〇山中に入ってからがこの世の地獄。
 食うにもの無く、家もなく、戦争をする意欲も無い。
 統制が取れなくなり、自分の身体の事で精いっぱいになる。
〇大腸カタル、マラリア、赤痢が流行
 自分は一時血便が出ていたので赤痢だったのかと思う。
〇イゴロット族(山岳民族)のさつまいもを盗んだがそれもいつまでもあるわけではない。
 野草、春菊、サル、野豚、イゴロットが飼っていた豚や水牛も食べた。
 イゴロット族は日本兵が行く前に山中に逃げ込んでいた。
 それからバナナの木やビンロジュの木を切って芯の柔らかいところを食べる。
 マニラを出たあと米粒は一粒も口にしなかった。
〇一番困ったのは塩が無い事、汗が噴き出して舐めても辛くない。
 夢にしょうゆや塩を見た。
〇餓死して死んだ者は電信柱のような間隔で見かける。
 川の水に顔を突っ込んだまま死んでいる者、1個の手榴弾に5~6人が集まって折り重なって自決しているのも何度も見たが、またかというような感じで不感症になってくる。
 生きる方が死ぬより辛かったが、仏教の教えとして命は自分のものではないと考えていたので、自分は自殺をしてはいけないとは思っていた。
〇最初は外科行李を持って出て野戦病院を開ける態勢だったが山の中に落とした。
 時計一つが重い。鉄兜も毛布もほかしたが、ゴボウ剣だけは持っていた。芋を掘るのに必要なので。
〇1人になるのは怖く5~6人で行動した。
 シラミがたかるので半ば裸みたいな恰好で生活していた。
 アシン河があったので河で服を洗いシラミをつぶす。
 在留邦人や看護婦さんたちもいたが女性は生きていくことが更に大変。

1945(昭和20)年9月20日頃 米軍に投降
〇敗戦そのものは通信を通じて2~3日後には知っていた。
 しかし、負けたらすぐに出ていくとはならなかった。
 命令系統がないので話がまとまらない。
 先に捕虜になった者が呼びに来て、このままでも飢え死にするだけだと投降する事になった。
 山を2日かけて降り、アシンの谷で投降。

カランバン収容所へ
〇出入りする米兵が帽子を脱ぐ事に驚いた。
 勝ち誇こったようなところがなく実に鷹揚で、まず聞いてくるのは「ワイフはいるか?」
 それから時計を持っていると欲しがる。
〇食事はレイションでカロリーは足りているらしいが量は少なかった。
 ビスケットやチーズ、バター、ガム、タバコ。
 量が欲しいと交渉したら「お前らが捕虜にした時はどうだった」と言われた。
〇使役はあったが遊ばせてはいけないという程度で見回りもゆるやか。
 万事鷹揚だった。

1945(昭和20)年12月 復員

※ありあまる米軍の物量の前に、大和魂で精神力で勝つというのは話にならない。
 そういうのは妄想に憑りつかれた考えで、あれは妄想。教育というのは恐ろしい。
 一人も人を殺さず自衛隊も一人も死なずに来たのは9条のお蔭。
 集団的自衛権を行使するようになったらまた靖国神社を言う様になるのか。
 私はどこまでも戦争反対。わしは仏教者やから、仏教では殺しても殺されても殺させてもいけない。
※命は良いか悪いか死ぬまで離れられない。
 離れられないと言うのはそれが本当のことだねと言う事。
 それがわれわれのアイデンティティーであり、そういうものが無ければ我々は生きていけない。
※戦争体験は大きな勉強にはなった。誰もその埋め合わせを付けてくれるものはいないが、住職をするうえで戦争体験が意味をもったと言えるほど偉そうなことはない。
 フィリピンは地獄の島だったから戦争体験に鍛えられたが、だからと言って戦争を賛美する気持ちは無い。

正光寺では「げてもの史料館」を運営
戦争関係の物品をはじめ、古いさまざまな日常用品を見学する事が出来ます。(要事前連絡)
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