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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
9月に行いました秋田キャラバンの1班が9月10日(月)に伺った証言の概要です。
過去のメーリングリストより転載します。


◎藤本光男さん(85)
取材日:平成二十四年九月十日
所属:土浦海軍航空隊~鈴鹿海軍航空隊~第210海軍航空隊(?)
兵科:飛行科(偵察)
戦地;内地(名古屋防空戦ほか)
――――――――――――――

○大正十五年十一月十二日、秋田県生まれ。

・旧制能代中学に入学。五十人のクラスがAとBの二つあった。
・軍国主義の時代だったが、圧倒的に英語の授業が多かった。一週間(土曜日半ドン)のうち、英読本が二時間、英作文が一時間、英文法が一時間、英会話まであった。軍事教練が一週間に二時間。戦争がたけなわになってから他の授業に差し支えないよう土曜日の午後に一時間増えた。
・軍に志願したのは九人だけで一割もいなかった。
・医者になりたい人は医科大学に、先生になりたい人は師範学校に、農業をやりたい人は農林学校に行く。そういう人と同じような感じで、「じゃあ俺は軍に行く。飛行機に乗りたい」、ということで中学校四年の時、誰が勧める訳でもなく予科練に志願することに。特別死とか、高貴な精神を持ちたいというものでもない。他の受験生と同じような感じだった。

○昭和十八年六月一日、土浦海軍航空隊入隊。甲種飛行予科練習生十二期。

・昭和二年の三月までに生まれた人が同期生。
・秋田県全体で同期生が四十七名が入った。その中で六名が特攻死。
・一年間のところを七か月か八か月で切り上げた。
・土浦から鈴鹿航空隊へ。十九年いっぱいかかった
・鍛え方がすごくて、鬼の鈴鹿とか地獄の鈴鹿と呼ばれていた。
・体を鍛えるというのか、精神を鍛えるというのか、毎日殴られ、筆舌に尽くしがたい。精神棒でバーンと殴られる。最初殴られた時は二メートルくらい吹っ飛ぶ。なにかあると連帯責任。
・体操に毎日一万メートル走ったり、授業もある。算数、国語、漢文、英語、中学校の延長戦にあるような授業を受けた。
・飛行機の訓練は一日に一時間か二時間。夜間洋上飛行は二時間くらいかかる。搭乗時間はそんなになかった。
・飛行時間は三百時間くらい。
・搭乗時間が長い者は、爆撃機や輸送機のパイロットになった。
・練習隊にいる時には何回も両親がやってきた。
・父親が日本刀を持って来てくれたが、飛行機の中はせまいし、軍刀を入れると磁石が狂ってしまうので置いて行った。

○昭和二十年二月ごろ、実戦部隊へ。

・愛知県明治基地。
・月光の搭乗員に。
・戦闘機ばかりでなく、偵察機や練習機もあり、広い滑走路で爆撃を何度も受けた。
・敵機を追うために高度を上げたが、空気が薄いために呼吸困難になって墜落する事故が起きたので、酸素マスクをつけるようになった。
・夜中の訓練もあるし、薄暮、黎明時の訓練があるが、昼寝ているかといえばそうでもなかった。

○昭和二十年二月か三月、名古屋防空戦。

・敵機と相対する。B29だったと思う。墜とさなかったが、同僚は墜した。
・敵機を防ぐ線が名古屋の前で決まっていて、名古屋上空は高射砲が打ち出す。
・米軍は絨毯爆撃で、名古屋の何々区に爆弾を落とすと、次の隊は別の区に爆弾を落とす。
・米軍とは数が違う。
・今飛んでいる場所はどこか目測で調べる。目的地に行くために、風速が何度の方向から何メートルくるのか計らなければならなかった。
・洋上では曳光弾を海に落としていた。真っ暗な中でそこだけ明るくなる。それを見ながら進路を修正していた。
・高度計はあるが、自分がどこを飛んでいるのかをそもそもわからなければならない。
・「渥美湾の○十キロ沖、敵機名古屋方向に進撃中」と連絡が来ると飛び立つ。名古屋で撃ち落すと危ないから洋上で迎え撃つ。何度の方向にいかなければならないかは咄嗟に判断するか暗号で来る。今敵機は何機、どこを飛んでいる、方向はどっち、高度○千か、あと何分で敵機と遭遇するかを操縦士に伝える。
・洋上で迎え撃つのが月光の仕事だった。
・レーダーはなかった。丸い計算機や通信機を僅かな光の中で使って割り出す。
・一時間以上飛ぶことはなかった。
・硫黄島が落ちるまでは敵の戦闘機は来なかったんじゃないかと思う。
・月光は背中に二十ミリの機関銃を積んでいて、敵機の腹の下にくぐって撃つ。操縦員が発射する。
・機体が見えて尾翼の大きさに驚いた。
・向こうが旋回して、撃ってくる閃光が見える。後席から照準をつけて、操縦員に「てーッ!」と伝える。なかなか当たらなかった。
・怖さは感じない。

○昭和二十年四月、静岡県藤枝基地へ移動。

・月光は足が遅くて役に立たないということで、彗星にかわる。
・彗星は空冷。
・斜銃はついていたが敵機とやりあうことはなかった。訓練ばかりで、いわば特攻要員みたいなものだったと思う。
・藤枝基地は全部で三十機くらい。ものすごい整備だった。
・よく燃料がなかったといわれるが、掩体壕のなかに燃料が満タンのドラム缶が何本もあった。
・『夜鴉特攻隊』と、本当の特攻隊ではないが名前がつけられた。
・特別攻撃隊はいろいろ書かれているが、実際の搭乗員は操縦技術が優れていたり、度胸があるなど、選ばれた者。同じように訓練を受けていても、選ばれない者もいる。おそらく司令が選ばれなかった者のために名前をつけたんだと思う。
・そのときはなんだか変な名前だなあと思った。
・技量が優れていないと特攻隊には選ばれない。
・選ばれると訓練は猛訓練。
・士官はベッドで兵隊は畳。
・同じ隊で同じ部屋で寝ていた人が欠けていく。朝いた人がいない。昨日までいた人が今朝起きてみると布団がない。ただそれだけで、「そうか」という感じ。大々的には発表しないで選抜されていく。櫛の歯がかけていくように、一人とか二人とか、どこに行ったかはわからない。しかし、誰もどこに行ったんだろうかお互い語ることはなかった。当然だと思っていた。
・「特別攻撃隊に希望する者は手をあげろ」とか、自分から志願するということはなかった。だから全員そのつもりでいたんじゃないかと思う。
・普通は指揮する場所があるが、建物が空爆で全部やられてしまったので、滑走路のずっとはじっこのほうに板囲いで指揮官室を作っていた。離れたところの兵舎から集まった。
・基地は何回も空襲を受けた。
・訓練の時はベニヤの指揮官室にあつまって、「何番機は」と訓示を受けて、その間に整備員が掩体壕から飛行機を出して来て、飛び立つ。
・常に乗る飛行機は決まっているのでよく磨く。
・訓練は毎日。

○昭和二十年八月十五日、

・毎朝六時か六時半ごろに集まる。そこで今日は訓練がないこと、お昼に重大発表があるからその場で待機しろということを聞かされた。
・昼に集められて、直立不動のまま天皇陛下のお言葉を聞いた。
・前段にその説明がなかったので、なにがなんだかよくわからない感じ。
・その後、十五日に終戦の詔勅をだされた、戦争はここで終わりだということを知った。
・泣きもしないし、ただなんとなく任務が終わったのかなという思い。
・その日かその次の日、厚木航空隊から何機かが飛び立って駿河湾に自爆した。
・隊長が言うには、米軍が来たら一番先にやられるだろうから、とにかく身辺の物を整理して家に帰れということだった。

○昭和二十年八月二十日ごろ、汽車に乗る。

・腹が減ったとは思わなかったが、飲まず食わずで家まで帰った。
・音信不通だったのがひょっこり帰って来たので、両親は腰を抜かさんばかりにびっくりしていた。
・特攻隊の生き残りは一人もいない。特攻隊員は体当たりしたり、途中で撃ち落されて戦死した人だけ。


●終戦時、海軍上等飛行兵曹。
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