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あの大戦から65年。その時兵士だった方々の体験をビデオに残そう。保存の会発全国キャラバン隊の歩み。
岐阜キャラバンが12月18日(火)に伺った証言の概要です。
メーリングリストより転載します。

◎瀬上藤士夫(せうえとしお)さん

取材日 2012年12月18日

生年月日 1920(大正9)年9月7日
当時の本籍地 岐阜県

陸軍
所属部隊 歩兵第68連隊、歩兵第67連隊、第7方面軍司令部副官部
兵科 輜重兵

1940(昭和15)年8月 徴兵検査 第3乙種(身長が低かった)で第2補充兵に
1946(昭和16)年11月25日 教育召集(1か月) 中部13部隊

1942(昭和17)年2月 臨時召集、歩兵第68連隊第1大隊本部大行李班
〇シンガポール陥落の日に赤紙が来た。
 当時は戦争に行けないのは男のくず、お嫁さんも来ないので、やれ嬉しやという感じ。
 祖父は日露戦争時代甲種合格だったがくじはずれで従軍していなかった。
 父はお前ぐらいは兵隊に行かないと肩身が狭いと喜んでくらしゃった。
 けれど階級はどうでもいいから生きてご奉公してこいと言っていた。
〇浙かん作戦や大別山作戦などに参加

1943(昭和18)年3月末 15師団(祭)歩兵67連隊第1大隊本部大行李班に転属
 当時67連隊は南京に居た。
 兵站編成から野戦編成に変わるため中国の各師団から2名ぐらいずつ、約200名が集められた寄せ集めの部隊。
 選ばれたのか、(自分が)間に合わなかったからか。

1943(昭和18)年9月2日 呉淞(うーすん)出航
 南方に行くと言うだけで行き先は知らなかった。
 海が大変荒れて左右に上下に凄く生きた心地がしなかったが、そのおかげで潜水艦や飛行機の攻撃を受けることは無かった。
1943(昭和18)年9月22日 仏領印度支那・サイゴン上陸
 サイゴン米のおいしさよという歌があったぐらいで、そのお酒もあり、のどかなところ。

1943(昭和18)年11月 プノンペンで馬を汽車に積む時に大隊長馬に蹴られて負傷。
〇自分の担当していたのは癖のある輓馬だった。
 もともと野砲の馬だったが6頭建てにした時隣の馬を蹴って蹴ってしょうがないので、輜重なら1匹ずつだから使えるだろうと送られてきた。
 自分は馬には召集前から慣れていたし、馬は甘いものが大好きで、自分の分を我慢して取っといてやるとすぐになつき何か持っていないかと鼻を擦り付けてくる。
〇積む時はきつい馬同士で並べないと弱い馬は蹴り殺されてしまうので、自分の馬とやはり癖のあった大隊長の馬を並べたが、大隊長の馬に胸部を蹴られて息が出来なくなり意識不明になって仕舞った。
〇病院で名前を呼ばれても胸が広がらず声を出せないでいると手を両方から引っ張られ、大隊の副官が「馬は馬鹿だ、その馬鹿に蹴られる者はもっと馬鹿だ」と活を入れられた。
 親切だった上等兵が「今お前の魂を呼び戻したんだぞ」と言われた。ありがたかった。

〇この時実家に私の魂が帰っていたらしい。そういう話を信じる方ではないが、両親が私の話をしていると玄関先で声がする、いるはずがないのにと行ってみると、白い服を着て立っていてすっと消えたので両親は私が戦死したと長く思っていた。

タイ・チェンマイへ
〇20日ほど入院したが追及が大変になるので自分から申し出て退院。
〇軍用のパスポートをもらい民間列車で1人で追及。
〇途中英国の捕虜が運転するトラックに便乗した。彼は日本語も堪能で、「日本では捕虜になると恥だと言うが、英国ではそれだけ敵に近づいた事だから最高の名誉だ」と言いなるほどと思った。
 また「私ももう2年ほど経てば英国が迎えに来てくれる」とも言っていた。
〇原隊に着くと「死んだという話だったが来たのか」と言われた。
 副官は「思ったより早く来たな」と言ってくれ、1人だけ上等兵に進級した。
 大隊長の馬に蹴られたのが良かった、蹴られるなら偉い人の馬の方が良い。
〇トラなど猛獣が出てきて馬を襲うし兵隊も咥えていくからと夜通し火を焚いていた。

1944(昭和19)年2月 行李班を離れ先発隊として大隊の主計少尉と他4名でビルマに先発。
〇メイミョウの横浜正金銀行に行き13万円を受け取る。
〇伍長と2人でサガインの野戦倉庫に行き被服や編上靴、慰問袋を受け取りトラックで運搬。
 イラワジ河を渡河するため請負師に頼んで10人ぐらいの苦力を調達して貰う。
 中国時代は兵隊2名でこんな荷物を持っていると強奪や拉致されかねなかったがビルマはコソ泥はいてもずっと安全だった。
〇マンダレー駅で伍長がマラリアになって居なくなり一人になって仕舞った。
 駅の兵隊には1人でいいから出発しろ、それには貨車の要請書類を書けと言われる。
 上等兵でそんなものを出したらえらい事になると思ったが、書類がないと向こうは列車を動かせないし、「いないもんはしょうがない」と言われたので手配をした。
 一人だと食事が来なくなって仕舞った。食べるものが無いので悪い事だけど慰問袋を探し、これならいいかと思ってキムチを盗って食べた。キムチを食べたのはあれが初めて。
 主計大尉が帰ってきたので叱られるとびくびくしていたら褒められて、スイカを食えよとランニング姿で持ってきてくれた。
 ほっとしてあとは皆に任せてスイカを食べながら見ていた。
〇マンダレーから汽車で部隊のあるシボーに運ぶ。
 停車時は車両が外されて減ってしまう事があるので連結部の見張り。
 メイミョウで見たら荷物の上にビルマ人の女性がちょこんと座っている。
 シボーで居たら大変な事になるので、どこかの駅で降りてくれるように頼み込んだ。

1944(昭和19)年3月 爆薬受領のためトングーに出張を命じられる。
〇出張に慣れた者と選ばれた。
〇爆薬は野積みになっていた。
〇野戦の出張は寝食を忘れるし食べられなくなる。
 戻ると熱が高くなっていた。
〇当時から肋膜炎という診断だったようだが病名は知らされずマラリアだと聞いていた。
 出張の無理や馬に蹴られた怪我も影響したのだろうし、そもそも栄養が良ければかからなかったのではないか。 
1944(昭和19)年5月 大隊にインパール作戦への出動命令。
同年5月10日 カレワから重要書類と一緒に後方に送られる事に。
同年6月 メイミョウの兵站病院に。
〇トラックに乗せて貰えた、道々歩いて下がる兵隊がヨロヨロ羨ましそうに見ていたが、ああなると止めて乗せてくれというような気力もなくなる。
 「靖国街道」とか「白骨街道」と呼んだ。
〇名前こそ病院だが、患者が多すぎて収容できず軒下に寝かされる。
 看護婦さんは緑色に染めた服を着ていた。人手もなく何もできない。
 歩ける者は薬を持たせて強制退院させどんどん戦地に送り返していた。
〇食事も与えられず水道の水を飲むだけ。

ジャングル病棟と呼んだ分院に
〇軍医が診察をして「お前はこの身体でこれだけご奉公したんだから下げてやりたいが、下げる体力もないから分院で力を付けておけ」と診断した。
 ここで自分が肋膜炎であると確定診断される。
 当時は今の癌と同じように「死の病」だと思われていたから弾に当たった訳でもなく情けなかった。
〇高熱が出て軍医の側で寝させられる4名にもなったが、ここでは3度のおかゆが出て快復した。特別食に焼きナスが出た。
〇薬包紙が無かったので慰問袋の雑誌を切って薬包紙にした。
 薬包紙を持っていかないと薬をくれなかった。

ラングーンに貨車で後送される
〇衛生兵がいないので独歩患者が面倒を見るように言われたが、独歩患者も普通では独歩しないような患者。
〇アメーバ赤痢の患者の下痢や、傷の膿の臭いが満ちているが、列車が止まっても降りると上がる力がないので寝たまま。
〇右肩を痛がる患者がいて見るとガッパガッパ傷口が開きウジ虫が覗いている。
 手でウジ虫をつまみ出し、兵隊が救急時用に一つづつ持たされているガーゼと包帯を出すと、「それはあんたのや」と言われたけどそれで手当をした。
 病院に着いてからも大変感謝された。

トラックでラングーンからモールメンの病院に
〇マルタバンから渡河があり筏に乗せられて対岸から工兵が引っ張ってくれたが、ここで落ちて死んだ人もいる。
〇モールメンの病院には北からどんどんどんどん患者が送り込まれてきていた。
〇衛生兵から手伝いを頼まれ行くと屍室に連れて行かれた。
 処理が間に合わず人間の腐ったヘドロが流れていて凄まじい臭い。
 病人が素っ裸で転がっている、生きているのやら死んでいるのやら。
 衛生兵が運ぶので担架に乗せてくれと言うがどこを持っていいか分からない。
 鼻からはウジが出ている。
 乗せようとしてぴくぴく動いたら生きているから他のにしようととにかく尋常ではない。
 自分もこうなるのではないかと不安。
 自分の身体が大事なので衛生兵のいない間に逃げ出した。

タイ・バンコクへ後送
〇泰緬鉄道に乗るが、前を見ると木の橋は激しく揺れているし下を見ると貨車が落ちている。
 外を見ないことにした。
〇バンコクでサイゴンとシンガポールに患者の行き先を分けた。
 病状の良いものをシンガポールに送っていたように思う。

1944(昭和19)年8月 南方第3陸軍病院(ジョホールバル)に入院
〇マレーに入る所に「大日本帝国」の看板がかかっていた。
 そこからは看板も全部カタカナが併記してある、両側はゴム林。
〇第3陸軍病院の看護婦さんは本当に白衣の天使の恰好をしていた。
 同じ病棟の患者はビルマからの兵隊ばかり。
〇1週間は食事の時だけ目をさまし後はずっと眠っていた。
〇婦長さんから「内地送還だね、良かったね」と言われたが馬鹿まじめだったので、内還にしないでくれと婦長に頼み込んだ。
 負傷ならともかく肺病では恥ずかしくて帰れない。弟(10歳年下)もいるし、死ねばお金もおりて親孝行になると思った。
 婦長には「あんた馬鹿ね。皆内還になったら喜ぶのに」と言われたが、軍医に取り次いでくれ「帰りたいと泣いて頼む見習士官がいるからそれと代えるか」となった。
〇乗るはずだった病院船は途中で沈没、婦長からは「あんたの真心が通じたんだね。あれに乗っていたら今頃お陀仏よ」と言われた。ちょっと口の悪い人だった。
〇これまでの給料がまとめて出たが使い道もないので100円は国防献金し、60円を生きている事を知らせるため家に送った。金なら着くと聞いていた。
 ご奉公して病気になったうえ、国防献金をするとはと病院で皆の前で表彰された。

1944(昭和19)年12月31日
 看護婦長から危篤患者の見守りを頼まれる。
 19~20歳ぐらいの可愛らしい初年兵で未だ戦地に出たこともないらしかった。
 そのまま亡くなっていき衛生兵が屍室に運んで行った。
 翌朝穢れたからと新しい白衣を貰った。

1945(昭和20)年4月 第3陸軍病院を自己退院、第1陸軍病院(シンガポール)へ
 第1陸軍病院では練成班があり体力の回復を図っていた。

同年7月 南方第1陸軍病院を退院、兵站宿舎へ
 原隊の追及をしたい兵隊たちが集まっていたが追及が出来る情勢ではない。
 シンガポールの玉砕を想定して病院の看護婦たちも竹槍の訓練をしていた。

1945(昭和20)年8月16日 敗戦を知る
〇隊長が皆を集めて敗戦を伝えた。
〇「やっぱり負けたか」という感じだったが、無条件とは思い切ったな、弱った事になったな、英兵にこき使われ内地には帰れないのだろうと思った。
〇自分のようなビルマなどから来た兵隊はそんな風だったけど、ずっとシンガポールにいた兵隊は負けるなんて信じられない様子だった。
 若い将校が軍刀でバナナの木を切りつけて廻り、そういう行為は日本軍の恥だから慎むようにとお達しが出た。

南方開発銀行の警備
〇前の広場には民衆が押しかけていたので、機関銃を上に向け威嚇射撃を行った。
 撃つといったんは散らばるがまたすぐに戻ってきてしまう。
〇軍票が各地から回収されて運ばれて来ていた。
 石油箱(一斗缶2個が入る木箱)に軍票を詰めると10円札で24万円入る。
 これをトラックの荷台に載せているが、速度を落とすと“現地人”が車に上って手をかけてくる。
 荷台で小銃を持ち、登ってくる人を銃口で突いて落とす仕事もした。
〇シンガポールの火葬場に軍票を運び焼却。
 束のままでは中は焼けないので封を切ってばらして投げ込まなくてはいけないが、真夏のシンガポールの釜の前は重労働。
 人足を集めようとしたが敗戦で男性は集められなくなった。日本人に協力するとリンチに遭うと言う、協力者が女性ばかり50人ほど連れてきた。
 2日もすると焼却炉の機能が落ちて焼けなくなる。
 海岸に運んで焼いたが風が吹き散らかして住民が取りに来てしまう。
 反物などを売って軍票を回収したところもあると聞く。

1945(昭和20)年8月20日 兵站から上等兵約20名が選ばれ第7方面軍司令部副官部衛兵隊に転属。
〇マウントバッテン提督や寺内寿一元帥が住んだ大邸宅があり、その庭の防空壕を埋めに行く。
 シンガポールは電柱のない街で地下に埋まっていたがそれを傷つけてしまったらしく、オランダ人の設計士の地図には庭木からの距離がケーブルの目印になっていた補修した。
〇調印の打ち合わせで参謀ほか2名の護衛に出かける。道路に有刺鉄線などがあり先に除去。
 参謀たちの車はわざと少しおんぼろのものを使っていた。
 途中で“地方人”の女性が家の前に出て、日の丸を腰巻にしお尻を向けて叩いてみせた。
 閣下たちも見たと思う。

1945(昭和20)年9月2日 司令部の明け渡しを行う。
〇この日の正午以降シンガポールに残っている日本人は捕虜にして良いとなっていた。
〇5名が選ばれ明け渡し要因として残された。
 一人は兵長だが英語が堪能な人で、あと4名は先方にご無礼をするような度胸はない人。
〇12時に営門で待っていると、白人下士官1名と黒人兵4名を乗せた車が到着。
 申し送りをして自分たちは残してあった車1台で引き上げた。
 司令部は勿論町の中にもう日本人はいない。
 日本語の看板も英語に架け替えられており場所が分からなくなって道を間違えた。
 もう町のいたるところに英兵が立っていたがパスポートを貰っていた。

〇司令部に自動車隊が作られ、その隊長の当番兵に。
 同じ上等兵に「生意気だ。軍隊は位は同じでもメシの数だ」と殴られた。
 この時は「瀬上の方が古い兵隊だぞ」と隊長が叱ってくれた。
 背が低いので下に見られることが多かったが、これで中国からの兵隊だと周りも知るようになった。

1945(昭和20)年11月 レンバン島へ
〇上陸する時、海辺でやせ細った人がごみをあさって食べ物を拾っていた。
 中尉の階級章を付けていた。
 自分があがったのはレンバン島へ行った中では最後の方で、わりに早くレーションが来たのでそれほど食べ物の苦労はしなかった。
〇軍医部の軍医大佐の当番兵になったが、自分の事は自分でする人で、食事の上げ下げと往診に付いていくぐらい。

1946(昭和21)年6月15日 名古屋に復員

最終階級 兵長
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